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反知性主義は日本でも起こり得る

 トランプ大統領がハーバード大学に対して規制しようとしている動きが報じられている。高等教育機関と政治権力の関係を改めて考えるきっかけになっている。

 トランプ大統領の支持層は白人労働者階級が中心という。大学卒業のエリートではなく、その配下として雇用される人々だ。大学卒業者の中には私腹を肥やすことにだけ関心のある人たちもいて、彼らの下で働くものたちが抱える不満や怨嗟は水面下にあるものを含めれば相当なものである。

 エリートの負の局面を論えば果てがない。しかし、世界の難題を切り拓いてきたのもこの層の人が多く、教養が社会秩序の維持に貢献することも多い。彼らの活躍は国家として、あるいは世界平和のために欠かせないという一面もある。

 知的権威の功罪のマイナス面が強調され、権力者の手によって弾圧が始まると社会は一挙に息苦しくなる。権力側の知性は引き伸ばされ、対立する考え方は悪の象徴にたとえられる。アメリカで起きていることはその事態の始まりなのではないかと危惧されるのだ。

 これは我が国でもいつでも起こり得る。学問、教養に対する疑念はまず効率性という言葉で説かれる。役に立たないことを学んで何になるのか。歴史や古典を学ぶより、プログラミングだ、フィンテックだと言い出す。彼らはこうした言動が反知性主義の扉を開くことに気づいていない。意図的なら独裁者候補になれる可能性がある。

 学ぶことの意味を利己的、功利的にのみ捉える風潮が拡大すれば日本は一気におかしくなる。その兆しがあることに多くの人は気づいているはずだ。ここで歯止めをかける必要がある。

推敲の意味を教える

 漢文で教える「推敲」の故事を覚えているだろうか。科挙のために上京した賈島なる人物が詩作の過程で「推」か「敲」のどちらの文字を使うのがよいか悩む中で韓愈の行列を遮ってしまう無礼を働いたが、韓愈は詳細を訪ねて詩について論じ合ったというあの話である。大体、この授業はここで終わるのだが、本当に考えなくてはならないのは「推敲」することの面白さ、楽しさ、そして重要さだろう。

 推敲することは自分の文章を見つめ直し、より高いレベルのものに仕立て上げる試みである。それによってそれまで以上の効果が現れたり、自分が期待した以上の何かが表現できたりする。最初の時点では思いもつかなかったことが実現できたりするのだからとても意味がある行いと言えるのである。

 現在は完成の速度を求められ、さらに生成AIなどに任せてしまうと推敲することの意味を感じにくい。それ以前に推敲という行為そのものをする機会がなくなってしまっているように思う。推敲の意義は意識的に教えなくてはならない段階にとっくに入っている。

 作家の草稿を見ると著しい推敲の跡がみられる。中には書き込みが多すぎて読むこと自体が大変になっているものもある。現在はコンピュータで入力するから、推敲の形跡が可視化されることは少ない。また最終版が最善版であるという発展思考型の考え方では、制作途中の行程には関心はいかないのかもしれない。つまり「推敲」という行為の意味が分かりにくくなっている。

 私自身も文章を原稿用紙に向かって書く機会がどんどん減っている。でも実はこれはとても残念なことなのかもしれない。このブログはデジタル入力だが、本当に言いたいこと(このブログがそうではないというのではないが)手書きで残した方がいいと思っている。

新しいものの考え方が生まれれば

 これからの時代はいわゆる自己責任の競争世界ではうまくいかないのかもしれない。漠然とそう考えている。個々人が切磋琢磨して自由競争を生き残るというやり方はこれまでの資本主義社会の理想であった。でも、ここまでグローバリズムが進み、高度情報社会になってしまうと、少しのことでは競争の勝者にはなれない。町で一番の人が、県で一番になる確率も低いが、それが国家レベルになり、世界レベルになると勝てるのはごく少数であり、大量の敗者ができてしまう。

 それでは皆で一定の幸福感を得るためにはどうすればいいのか。まずは才能ある人の挑戦を促進し、その足を引っ張らないことだ。成功者は自分が成功した背景に自分の才能だけがあるのではなく、社会的な様々な要因が手助けになっていることを自覚できるようにするべきなのだろう。成功したものはその利益の一部を地域、世界に還元することが当たり前のように考えられるようにすべきだ。

 こういう理想論を述べると実現不可能という批判が当然出てくる。自分ができないことができる人がいれば妬ましく思うのが人情だし、成功者はそれが自分だけの力と過信して富を独占しようとする。こういうこれまでの人間の心理をどのように克服するのか。それが教育の力なのかもしれない。また個人の力が、集団の力に寄与し、それが新たな世界を切り開くという史観も何らかの形で共有しなければならないのだろう。

 教育の力と述べたが、それは学校だけで行われるのではない。日常の会話の中でもそういう精神を口にする人が増えれば社会が変わる。文学が発生源になるか、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人の中から出てくるのか分からない。それがうまくいったときに人間の歴史は次の段階に進むのだろう。個々人の利益を奪い合う今日の現状が続けば、いずれは破滅につながるのかもしれない。

自分の目で見ること

 自分が見られる世界は限られている。だから、見渡せる範囲のことを世界と思うのかもしれない。この見渡す範囲は情報機器の発達によって広がったかのように思える。インターネットによる情報の伝達は画面上だけではなく、しばらくすれば五感にわたる様々な感覚をも伝えることが可能になるかもしれない。

 でも、やはりどんなにその技術が発展しても、自分が関係することができる世界はやはり限られている。機器の力を借りて分かったかのようなつもりになれても、それを実感として掴めるのかといえばやはり少し違うのかもしれない。私たちはこのことを忘れがちだ。

 人工知能の発展とともに私たちが直面している世界の捉え方はまた変化していく可能性がある。自分が目の前にあるものを本当に自分の神経とか感性といったもので感受することをやめてしまうのではないかという懸念である。自分の受け取り方は間違っているとか、ほかの受け取り方と比較して劣っているのではないかと考え出すと、もう自分でものを見ることもしなくなる。すると目の前にあるものでも自分では見なくなってしまう。そういうことはもうすでに起きている。

 本当に大切なのは何かを子どもたちにちゃんと考えさせたい。私の課題の一つがそれである。

型から学ぶという意味

 日本の教育は知識や型を教えすぎて、本人の個性を伸ばせないという批判がある。確かにそういう面があるのは事実だ。このような方法では既成の秩序の中ではうまく立ち回れても、未知の世界では対応できない。今日のように予測不可能な未来に直面する状況では、もっともよくない仕儀であると。

 ただ、ならば自由に学べというのもおかしなことだ。学べる力を持っているのなら、実は教育は要らない。多くの場合、人は何をどう学んでいいのか分からない。だから、先人の教えが必要なのだ。

 日本的な基礎を固める方法も、個の応用に賭けるやり方もどちらも必要である。先人の教えを手っ取り早く実践できるのは型の模倣だ。もちろん外面だけの摂取ならば実効性は期待できない。型の模倣にはその精神の体感を゙伴うことが期待されている。

 この方法は見直されてもいい。身の丈に合わないことでも敢えてやってみる。やった後で得られる何かが単なる模倣をそれ以上のものにするのかも知れない。コピーしきった時には本家を超えることもあるのだ。

 学び方に王道のようなものはない。一時的な批判にぶれることなく、信じた学び方で貫くことが成功の扉を開く。今日のように情報過多な世情ではあれこれ考えているうちに学びの機会を逃してしまう。学びには一種の愚直さが必要だ。

知識を詰め込む学校は不要なのか

 知識を詰め込んで何になるという話は昔からあった。社会に出てから使うことがない知識で人間を秤にかけるのはおかしいというものだ。いま、ネットでなんでも検索できる(ような気がする)時代となり、学校で学ぶ知識は意味があるのかという問いが立て直されている。

 この疑問には考えるべきことがいくつかある。まずは知識の多さがその人の価値と当価値になっていたことは今までもなかったといえる。博覧強記は一種のあこがれであるが、それが人間の価値かといえばそれは違うといえるだろう。知識の量ではなく、それを生活にどれだけ使うことができるのかという運用力の方が実は大切だ。

 人間の記憶力には限界があり、何かに記録しなければどんどんなくなってしまう。それをとどめたのが文字であり、その集まりの文章である。紙面が発明された後は、記憶の蓄積量が飛躍的に増えた。巻子本から冊子へと変化し、印刷技術が発達すると小さな紙面に大量の情報が載せられるようになり、しかも大量のコピーができた。それがデジタル化したことでさらに飛躍的な情報量が蓄積され、高速の検索技術によって情報を取り出すことははるかに容易になった。だから、今となっては単に情報を記憶するだけならば機械に任せればいいということになる。好きな時に好きな場所で情報を取り出すことができる。そんな錯覚を持てるのが現代の情報環境だ。

 最初の話題に戻る。このような情報化社会においていちいち学校で学ぶ価値はあるのかということだ。過激な意見を持つ人は学校に行く価値などないという人もいる。知識や情報はインターネットから取り出せばいいというのだ。おそらく人の気を惹くためのレトリックだろうが、本当にそう信じているのならその人の将来が不安になる。

 情報をインターネットから引き出すための基準はどこにあるのだろう。おそらくばらばらのパズルのピースを個別で取り出しても組み合わせることは難しい。どんな絵が描かれているのかが予め分かっているか、その類型的なものを知っていればかなりのヒントになる。猫の写真のパズルだとすれば、猫がどのようなものなのか、どんな特徴があるのかを知っていることがピースを取り上げるのに大いに役立つ。学校で学ぶのはそうしたヒントになり得る前例を知ることにあるのだろう。

 人間の思考が言葉によって成り立っている以上、言葉の技能を高めることはその人の思考を向上することにつながる。言葉は他人と共有するものであり、個人の専有物ではない。インターネット上に広がる様々な情報も言葉によって表現される。その言葉の力を磨くのも学校の役割だ。ネットを活用するのには機械のスイッチの入れ方やソフトの立ち上げ方を知るだけではなく、情報を読み取る力が欠かせない。

 言葉の深い運用力、概念構成の在り方、様々な知識の基本的な型のようなもの、過去の歴史、研究史の把握などがあって知識は自分のものになる。学校に行くことは意味があると私は確信する。そこで習得する知識の量や質に関しては見直さなくてならないのも事実である。ただ、学校に行かなくても情報検索すればすべて理解できるというのは大きな錯覚であることは確認しておかなくてはならない。最近、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人たちが学校教育不要論を言う人が多い。そういう人の多くは高学歴で自らは学校教育の恩恵を受けているのに、若者にネットさえできればいいといっているのは無責任であり、無教養人を制御しようとする陰謀ではないかと思えるほどだ。そこまでの目的もない脳だろうが。現在の学校教育にはさまざまな問題はあるが、学校自体が無意味なのではなく、運用の仕方を改善すべきものなのだ。

大学受験と学びの本質を考える

 大学入試も大詰めである。私は大学受験に関しては結果的にはうまくいった。第一志望は地方の国立大学だった。運よく合格できたが、結局都内の私立大学に進んだ。親の希望もあったが、要するに一人暮らしをする覚悟が足りなかったのだろう。

 受験生のときは自分にとっては目標志向型の生活ができていた。参考書を何度も読み、自分なりにストーリーを作り覚えた。インプット重視の受験勉強には対応できたのかもしれない。高校2年生まではふるわなかった成績が受験というフレームの中ではまずまずの出来だったのだ。結果として大学に滑り込むことができた。いまから思うに受験とはいかに大学に行きたいかと思う志向性と、それを実現するために努力を続ける愚直さの合わせ技で決まる。持って生まれた賢さがある人には理解できないだろうが、凡人は自己暗示と単純な作業の継続力が大切だ。

 受験生の頃はそれがうまくはまった。しかし、その後の学生生活はそういう受信型な学習ではどうにもならないことを知る。高校までの授業のように大学進学という目標があって、それに対してすべての教師が表面上は様々なあるが結局同じ答えを導くように教えていく。対して大学の教授陣にはその意識はなく、自分の専門領域をひたすら開陳する。特に私が進んだ文学部ではそれが顕著だ。世の中の役に立つ学問は偽物だと言い切る先生もいた。勝手に講義が進み、教員によって結論に齟齬があることが普通にあった。その学派ではそうかもしれないが、実は間違っているなどと。

 大学生になってからは自分自身に目的意識がないとうまくいかない。当時の学生が講義にあまり出なかったのは怠惰だけが理由ではない。与えらた情報をとにかく記憶し、試験という決められた時間内で要領よく吐き出すことしか教えられてこなかった人たち、特にその方面では素晴らしい才能を発揮してきた人たちの多くは大学進学以外の目的意識がなかったのである。ある程度の大学を卒業すればそこそこの就職ができると信じられていた時代である。入学時点でほとんどの目標が達成され、あとは落第せずに卒業すればいい。持ち前の要領よさだけが発揮され、学問への傾倒は期待できない。

 それでは高校までの受信型学習は無意味なのかといえばもちろんそうではない。物事を考える前提となる知識や技能がなければその先の展開は期待できない。漢字の読み書きができ、語彙力があり、基本的な読解力をもち、方程式が解け、幾何の問題を解く作法を知り、過不足なく証明を書く技能は成績がどうであれ、実は現在の行動の根本にある。理科・社会で学んだ知識は丸暗記だったが、それが現実と照合したときに生きることがある。英語は話せなくとも外国語を知ることで自国語の特徴に気づく。実際に英語で仕事をする人は中等教育で受けた授業が基本になっているはずだ。

 受験生の頃は大学に進学する手段としてしか勉強を考えていなかったが、今になって考えると人生を豊かにし、他者そして社会を知るきっかけを得ていたことが分かる。いま教える側の立場になって、職業上の任務として大学合格者を多数出すという不動の命題はやはりある。いかに効率よく最短距離で成績をあげ、合格通知を生徒に受け取らせるのか。それが目的だと考えている同業者は多い。しかし、従前の自分の経験に照らすと、それに加えて学問をする目的も少しずつ考えさせた方がいい。ときに生徒を混乱させるかもしれないが、なぜ学ぶのかを考えさせた方が結局その後の彼らの人生に資することになる。

文学的視点の復権を

効率化が大切だという人の多くは、実は人間生活を答えのある法則性の中だけで捉えている。なんでも数値化でき、その中で演算をするから効率などという数字を持ち出す。そもそも世の中の多くは定量化できず、不規則で予測不可能だ。そのような方面を注意深く無視して、数えられる現象だけを取り上げて計算する。効率化の多くが自然から乖離しており、それゆえにその矛盾に人々は苦しむ。

こうしたことに気づくためには、やはり文学のような他者の心情や行動を考えるものの考え方が必要だ。実際の社会は決して法則的ではない。外れ値だらけの現実をそのまま受け入れる感性も必要なのだ。

 昨今の風潮はこの大切な流れを忘れているように思える。なんでも方程式に当てはめようとする態度は人生の機微を無視してしまう。こんなことをいうと感情論であり無意味だというが、はたしてそうなのだろうか。不規則な毎日に無理矢理物差しを設定し、測れないものはなかったことにするという考え方自体が無意味だと反論できる。

 学校教育における文学的文章の軽視は現代社会で誕生したエリートたちの犯した大きな間違いだろう。少し後の時代の人々が21世紀始めの社会を批判することになる。あの頃は科学だけで何とかなると信じていた時代だったと。文学的な視点が軽視された不幸な時代だったと。

小学生に説明して

 私は授業の中で文中の用語や、表現を説明させるとき小学生でもわかるように説明してほしいという注文を出す。5年生くらいを想定している。何がいいたのかといえば、難しいことをいかに分かりやすく置き換えるかが大事ということだ。ただし、易しくしすぎて元の意味が分からなくなってはならない。あくまで言い換えでなくてはならないのだ。

 ご存じの通り、現代文の設問の大半は「~とはどういうことか」か「~であるのはなぜか」である。前者は文脈に沿って意味をとらえ、それを別の分かりやすい表現に言い換えよという意味である。多くの生徒は文中のことばパッチワークのように組み合わせ解答を作るが、中には出来上がったものが何を言っているのか意味不明のものもある。大半は本文の表現をそのまま切り取ってきているため、ピースを組み合わせると非常に不自然になるのである。この種の問題が求めているのは文中の語の組み合わせではなく、結局何が言いたいのかを表現を変えて説明することだ。

 小学生に説明してほしいとは過剰な要求かもしれない。まず述べられていることを解釈し、自分なりの表現に変換してさらに相手の語彙レベルとか認知のレベルを考えて調整しなくてはならないのである。相手が小学生ではなくて自分と同等の人に話すという前提でもよい。大切なのは自分ではない他者に自分の観察したことを適切に伝えられるかということである。

 多くの教育関係者の文章に「知ることとは何か」というテーマがある。それらを読むと単語として丸暗記し、それを試験で一気に吐き出すという行動は勉強の質としては高くないという。極論すれば意味のないことを丸暗記して、一定時間後にそれをアウトプットするだけでは知的行動にはならないということだ。個々の用語がほかの語彙と結びつき文章となったとき、そこに一定の意味を生じる。それが分かることが「分かった」という境地だというのである。小学生にも分かりやすくするというのはこの自分なりの概念を構築を求めるからである。

 難しいことを難しく語る人は実は良く分かっていないという人もいる。本当の賢人は難しいことを分かりやすく語ることができる人だという。私自身もそれを心がけていたい。

教育ビジネスの隘路

 教員生活を長く続けていてよく言われるのは効率的に短時間で効果を上げよと言うことだ。具体的には模擬試験の偏差値を上げることである。偏差値が少しでも上がれば褒められ、下がると烈火の如く避難される。実におかしな世界だ。

 考えなくてはならないのは、それでいいのかという現状批判だ。私のようなロウトルはある程度好きなことが言える。開き直りと受け流しの技も備えている。その上で言いたいのは、細かいことに拘りすぎると本質を見失うと言うことだ。

 不本意なやり方で業績を上げて意味があるのだろうか。短期的に数字を上げてそれに意味があるのか。私は大いに疑問に思う。数値目標を掲げることは大切だが、短期的な結果だけであれこれ言うのは無意味だ。

 次に何をすればいいのかを考えることが大切なのに終わった記録に拘り過ぎては前に進めない。教育に商業主義が重なったときおかしな誤解が生まれる。教育の専門家なのにどうしてこんなに根本的な間違いを犯すのか。