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読書推進

 読解力の低下が話題になっています。中高生だけではなく、大人世代にも共通する社会問題です。

 読解力の低下が読書の習慣がないのと相関関係にあるというのはおそらく事実です。文字だけの情報から発信者の意図をくみ取るのには、経験が必要です。特に文章を構造的に把握する力は纏まった本を読むことで培われるものです。では本を読みなさいというだけで事態は解決するのかといえば、そんなに簡単なものでもありません。

 私たちは興味のあることには時間を忘れて熱中することができます。読書に熱中するためには興味のある内容を読ませる必要があるのです。読ませたい作品があるのは事実であり、それが一定の効用を持つのが明かでも、読書を押しつけるだけではならないのです。

 興味のある本を選ばせて読ませる時間をもっと与えなくてはならない。そのための工夫も必要になるでしょう。

自由に学ぶ

 学びを行うときに何かに囚われたり、制約を受けたりするとうまくいかないことがあります。学ぶ際には自由が必要です。

 とはいえ、全くの足かせなしではなかなか学びは発動しない。何か目標を持つことで学習の意欲が生まれます。何でもやっていいとだけ言っても、結局何もやらないということになりやすい。教育の場においてはやるべきことがあります。

 学びだすまでのきっかけをいろいろと作ってゆく。それが中等教育の第一の使命だと考えます。そして、自由に学び出す動機づけをしていく。そのための基礎学力や学び方を教えていく。それがやるべきことなのです。

記述式もやめるならば

 来年度実施の大学共通テストは、英語の外部試験の中止に加えて国数の記述入試もやめることを検討しているという報道があります。記述試験には出題形式や採点方法などに多くの疑問がありましたが、これもやめるとなれば新入試はあまり意味のない改革になってしまいそうです。

 ただ少し気になるのはすでに走り出している学習指導要領の改訂にともなって国語分野では文学作品の学習が軽んじられる可能性が高いことがあります。共通テストの国語問題のサンプルでも契約書や図表などを参照しながら解く実用的文章と称するテキストが問題文となっており、国語能力の育成とは程遠い内容になっていました。記述式をやめ、問題が実用性の高いテキストを読む問題になるならば、ますますこの国の国語教育は衰退に向かうような気がしてなりません。

 共通テストの国語は基礎的論理思考能力を試す問題と位置付け、問題をもっと簡潔にしてしまうのも手であると私は考えます。国語の問題を全国の受験生に均等に出そうと思うと無理がある。ここでは一定水準の文章が読めて、理解ができるかだけを問えばよいのです。記述試験のような判定が困難なものは二次試験に回すべきでしょう。

 記述式をやめるならばせめて国公立大学の二次試験は思い切った改革をするべきです。面接や論述試験の度合いを高めて、学部ごとに自分たちがとりたい生徒の学力を測っていくべきでしょう。大学学部によってどのような記述力が必要なのかは違うはず。それをそれぞれの学部の判断で「主観的」に選べばいいのです。全国一斉テストの役割と個別試験の役割はこのはっきりと分けた上で、2次試験を重視する方法をとっていくべきだと私は考えます。

説明できること

 何が正解なのかは分からないけれども、それが正しいであろうと他者のほとんどに説得できることが大切になっていると考えます。

 決まった答えはないというと、何でも答えになるかのように受け取られ、ならば考える必要はないとまで考えてしまう。しかし、答えはないのではなくてやはりあるのです。それが何であるのかいまのところは決められないというだけです。

 決まった答えがない問いに対しては、自分がこれこそは正解だと考える答えを考え、それに同意してくれる人を増やすことができるのかが肝要となります。そのスキルこそこれからの社会で必要な能力です。

 読解力の低下がピサの試験で明らかになりましたが、人に自説を説得する能力は読解力と表裏の関係にあります。危機感をもって教育にあたる必要を感じています。

夏休みまで待てるか

教員の長時間労働を法的に容認するかのような法案が国会で可決しました。超過勤務を認める代わりに、夏休みなどの閑散期にまとめて代休を取得できるようにするというものです。あまり教育現場に詳しくない方が考えられたのでしょう。

 閑散期的なものとして思い浮かぶのが夏休みなどの長期休暇です。授業がないので教員は暇なように感じる方もいらっしゃいますが、教職員は夏にいろいろな仕事をしています。部活顧問であれば、練習の監督、指導、試合やコンクールへの引率、合宿あれば二十四時間労働になります。研修は自主的なものが多いのですが、教育としての技能を高める大切な機会です。

 法案の問題点として休みをまとめて取れば事態が解決するかのように考えていることがあります。総体的に労働時間の問題が解決されたとしても運用していくうちに必ず問題が発生します。果たして長期休暇まで休まなくてもよいのか。私たちは日々の過労に耐えられるのかということです。

 実際にはほとんど存在しない閑散期と、非現実的な休みだめ策は、現場の実状から著しく乖離しています。教育のことを考えるならば、教科教育担当者と、生活指導担当者、教育経営担当者を分業してそれぞれの技能を高めるとともに労働時間を限定することの方がうまくいく気がします。

期待感の演出

 私たち教員にとっては毎日必ずしも理想的な生活ができているとは限りません。メディアで報道されているほどブラックな職場ではありませんが、残業や休日出勤が当たり前の職場環境であることは確かです。ただ他の業界と少々異なるのは強制されてやるというよりは自主的に行っている人が多いということでしょうか。もちろんそれは私の職場だけの現象かもしれませんが。

 そんな中で生徒諸君に君たちの未来は明るいぞというのにはちょっとした覚悟と工夫が必要です。先生になりたいという人がどんどん減っているのは、教員の仕事がいかに大変かを目にしているからであり、ある意味なりたくない職業の手本となってしまっているのかもしれません。教員だけではありません。働くこと全般に対して、人生を考えることに対して現在の日本社会では悲観的な側面で語られることが多いような気がしてなりません。

 それでも教育者たるもの、やらねばならないことがある。それが期待感を演出することです。生徒に勉強をさせるための手段は数々ありますが、もっとも有効なのは自分の将来に今の学習が何らかの形で役立つという実感でしょう。今はやりたくない宿題をやっていても将来はそれが基礎となって役立つときがくる。そう実感できたときにやる気のスイッチは入るのです。そのスイッチをいれるのは教員の大きな役目なのでしょう。

 私のように数学が苦手で、中高時代には苦しみぬいたものでも、いま成績処理やちょっとした表計算ソフトの関数などを組み立てる時に数学的な思考が利用されていることを実感します。もう少し数学的思考ができれば人生の損失も少なかったのではと思う場面も多数あります。論理的に物事を考えるということに数学は必要です。英語はいまだによくできませんが、職場でも英語話者と仕事をするようになり、必要な時には使う場面があります。これももう少しやっておけばよかったと思うことが多い。なによりも英語が理解できれば、英語でしかとらえることができない世界をもっと受容できたはずだったと思うと無念ですらあります。そのほかの教科についても同様のことがいえます。

 このような後悔を生徒に話すのも手だとは思いますが、それに加えて将来に学習がどう結びつくのかを具体的に示すことも大切だと思います。普段から、日常生活の各場面において過去の勉強がどのように役立っているのかを言葉として子供に示すことが大切なのでしょう。私たちは自分のやっていることをいちいち分析はしませんので気づかないことが大半なのですが、たいていの活動は中学生くらいの知識をベースにして行っているのだと思います。このことを大人はもっと子供に語る必要がある。これは教員でなくてもできることです。

 われわれといまの中高生との大きな違いは、将来の職業観に決定的な差があることです。昭和世代の学習目標はよい大学にいけばすばらしい人生が待っている、ということに集約できました。学歴がかなりの度合いで人生を決めていた時代だからでしょう。でも、いまの若者は常日頃から次のようなことを聞かされています。「今ある仕事の大半はなくなる」と。

 AIが発達し、やがてシンギュラリティが訪れるといまある常識はほとんど通用しなくなる。勉強することも意味がなくなるのではないか。無理して漢字を覚えなくても、英単語を学習しなくてもいい。計算練習なんて無意味だ。みんなコンピュータがやってしまうのだと。

 そういう時代が来るのは避けられないとしてもやはり基礎的な学習はしなければならない。精巧なロボットができてもそれを操るのは人間でなくてはならない。操られる側になってはいけないんだという危機感を生徒に伝えなくてはならないと考えるのです。期待感というよりは危機感になってしまいますが。

 整理します。生徒の学習動機を促進させるさせるために教員や親、社会の人々全体で、子供たちの未来への期待感を演出していく必要があるというのが今回の趣旨です。大事な後継者を育成するためにも大人がへこたれていてはいけない。いまある基礎学習を大切にして、次の時代きり開く叡智を生み出すきっかけにしてほしいというメッセージをさまざまな形で出し続ける必要があるのです。

読み込む

 来年度から始まる大学共通テストへの批判が続出しています。英語の外部委託試験は延期されましたが、国語の記述式問題のアルバイトによる採点もやり玉に挙げられています。

 学習塾や予備校の実施する模試や、通信添削などはすでにたくさんのアルバイトが使われており、人選についても簡単な操作しかなされていません。これまでに示されているモデル問題では、記述式といってもかなりの程度形が誘導されており、多様な解が出ないように工夫されています。もはや記述とは言えない域なのかもしれません。

 問題文や資料、設問数も時間に対して多すぎであり、読解力というよりは情報処理の手際よさを試すものになっているのも残念です。これはAIなどにもっとも代替されやすい能力であり、優先順位は下位にあるといえます。

 作品を深く読み込み、自己の経験と照らし合わせて解答する問題の作成は確かに難しい。ですが、問題数を削ってもその方面を追求すべきです。社会の要請に見合った試験方式への変革はさらに続ける必要があるのではないでしょうか。

やってみせる

 やってみせることが大切をと感じさせられました。ある教育法の紹介です。

 その方は子どもに勉強しなさいとはあまり言わないそうです。ただ英検、数検、漢検にはこだわりがあってすべてを2級以上取得することを勧めているそうです。それだけならよくある話なのですが、この方の場合はご自分も検定に挑戦して子どもとともに勉強していらっしゃるところです。

 あと2点足りなくて合格できなかったと悔しそうに、そしてその割には楽しそうにお話していました。漢字検定の準1級に挑戦していらっしゃるのです。子どもに2級を勧めた以上、その上に挑戦する姿を見せたいというのが最初の目的だったとか。漢検準1級は普段あまり使わない漢字が多数使われ、マニアの域に入るなどといわれます。受検数も合格率も低い。そこに敢えて挑戦していらっしゃる訳です。

 率先垂範の精神に他なりませんが、ご本人自身もまるでゲームの攻略か一種のスポーツのように楽しみながら検定に挑戦されていることに感銘を受けました。やってみせることも大切だと実感したのです。

出力しやすく

 素晴らしいアイディアは天災によって偶然生まれる。確かにそうかもしれません。歴史的がそれを証明するという人もいます。ただ、それだけではないのではないでしょうか。

 何かが生み出されるとき、結局残らなかった失敗作が大量に作られています。その中でとびぬけた何かが含まれるものが画期的な作品になるのです。ということはブレークスルーを生み出すには作品を生み出しやすい環境を作り、多くの駄作を生み出す環境が必要だということになります。たくさんの失敗を許す寛容性が与えられなければ革新的な何かは生まれないのです。

 私たちができることは何か。まずは失敗を恐れずになにかを作り続けることです。もちろん素晴らしい成果を期待して作るのですが、結果的に失敗しても仕方がないと割り切れる気持ちが必要です。次に作品を作ってみようという環境をつくることです。成功しか許さないという雰囲気の中では挑戦者は減ってしまう。厳しすぎる環境下では完全に委縮してしまって何もできなくなります。また、作品そのものへの評価も大切ですが、それに至るまでの行動や方法論などへの評価もなされるべきです。結果だけがすべてではないと考える風潮も大切です。

 失敗の中から素晴らしい成功作品が生まれるためにはたくさんの出力があり、それを支える環境が必要だと考えます。

教員になりたくない

 最近の学部人気傾向として教育学部、取り分け教員養成系の学部の人気が減少を続けているという分析結果があります。

 一方で団塊世代の退職に伴い教員採用の倍率は低下傾向にあり、地方によっては教員不足が問題になりつつあるのが現状です。教員志望者にとってはチャンスなのですがどうして教員志望者は増えないのでしょうか。

 教員の長時間労働はつとに周知されており、仕事内容の多様化やますます困難になる生徒や保護者への対応が過重負担になるという話も知られています。一部の反社会的行動をする教員の失態は連日のように報道されます。許しがたいことではありますが、教育者ゆえにメディアに扱われやすいというメディアリテラシーのもとに実態を把握する必要があるのも事実です。

 かようによくない情報は届きやすく、教員の魅力、理想というのはことさらに論じられない。加えて世間一般が人手不足の傾向で無理に教員にならなくてもいいという雰囲気が瀰漫しているのです。これが志望者を減らし、魅力のない仕事にしています。

 私たちは職員室で仕事をしています。職員の定義はいろいろあると思いますが、専門的な職務を求められている労働者であるとはいえそうです。個人の判断による行動が大きく求められるのも特徴です。その意味で特殊であり、やりがいがあります。次世代のために働くという尊い仕事に興味を持つ人が増えてほしい。