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教育ロボット

先生はアンドロイド

 ロボットが教育現場に必要だとしたらどんな場面だろうか。現状で考えられることを挙げてみた。

 すでに取り入れられていることに採点作業がある。マークシートのような人間の方が機械に合わせたような仕組みはかなり早くから行われている。最近は手書き文字を判別して採点することはある程度はできる。悪筆だと誤判定するのでここでまた字は丁寧にという指導が入ることになる。結果を分析したり個々人にコメントしたりするのはコンピューターの得意分野だ。これをロボットと言えばすでに教育現場にロボットは不可欠だ。

 おそらく大半の人がロボットと言っているのは、人や動物などの形状を持ち、ある程度自律的に動く、もしくはそのように見える機械のことだろう。こうなるとまだ導入例は限られている。癒しを目的としたペット型ロボットは低学年の情操教育にある程度効果があるかもしれない。本当の動物のようにはいかないが。動物が飼える環境のある学校は少ない。

 もっと教育内容に関係する使い方はあるか。またプログラムのレベルに戻るが、個人の習熟度に合わせて教材を提供し続けるシステムはすでに実用化されており、有料サービスとして展開している。これは人工知能が入力された解答の傾向を分析し、それぞれにあった次の教材を提供するシステムである。

 これを運用している会社は必ず指導員を配置する。機械の操作方法の支援というよりは生徒の学習態度の監視役である。叱咤激励するのは今のところ人間の砦らしい。

 教育ロボットはこの砦を必ず切り崩しに来るに違いない。感情制御のパターンを認識すれば人間の牙城は崩れることになる。人嫌いだがロボットになら話ができるという子どもが増えるのを考えるとぞっとするが、コミュニケーションが苦手な現代のニーズは高いかもしれない。

 先を述べすぎた。いまでも教室にもうひとり教員仲間がいてほしいと思う場面は多々ある。ティームティーチングを行う人材も準備時間もないならば、ロボットにもうひとりの自分を演じてもらえれば助かる。自分が二人いるというおぞましい状況は、やりよう次第では効果的な教育になる気がする。なんとか教員の地位を守りたいという願望のなせる幻影かもしれない。

音読のすすめ

昔から言われていることだが、音読には一定の効果がある。受験生の頃を思い出してほしい。頭の中で記憶しようと思ってもなかなかできないが、声に出してしかも声量をあげて読むと頭に入ることがあっただろう。これは個人的なものかと考えていたが、どうも科学的にも証明されているらしい

国語の教員の立場でいうと受験世代の古典学習にはとくに音読をお勧めしたい。古典文法は覚えるまでは結構面倒だ。なに活用のなに形かなどという試験を出されて嫌になってしまうことがあるだろう。それで古典を嫌いになってしまったならばもったいない。文化的には国家的損失だ。

声に出して読もう

文法の約束を覚えることはもちろん大切だが、その前に音読を繰り返しておけばある程度は感覚的に読むことができる。口と耳が覚えてくれるという比喩は言い過ぎではない。英語学習でも聞くことと話すことが大事だと言われる。それと変わらない。英語はその気になれば街中に溢れているし、メディアからも流れてくる。古語はどんなに探してもそれを話す人は周囲にはいないだろう。ならば自分が発声するしかない。

受験の必要がない私のような世代の方々にも日本語の文章を音読することをお勧めしたい。特に名文と評価されている文章や、古典文学の文章の音読は意識的に行っていただきたい。日本語のあり方を考える基準になるだけではなく、自分の表現方法を見つめ直し磨き上げる良い方法だ。その他、いろいろな効果があることは先に引用したサイトの情報を参照されたい。

手元に中学や高校の教科書があればそれがいいと思うが、それがなければ好きな作家の文庫本でも一冊買って音読するといいと考える。古典に関しては個人的には読みやすく面白く、平安文法でもその後の時代の文法でもなくいわゆる日本の古文の標準の文体を持つ「徒然草」がいいのではないか。細かい意味は分からなくてもいいので、声に出して読むことだ。昔の言い方で言う素読をおすすめする。

コロナの時代で声に出すことが忌避される風潮にあるが学習に関しては声出しは意味があると信じる。社会的距離を保った上で音読する学習者が増えることを望む。

環境の提供

 リモート学習の評判は概してよくない。効率、品質などあらゆる面でリアルの授業よりも劣るからである、この事実を踏まえて次の改革はなされなくてはならない。

 うまくいかない原因の一つは技術的な問題である。社員が話し合えばいいだけのリモート会議とは異なり、学校の授業は教員が伝達する場面が多い。また、1対多の局面では個人差を常に配慮しつつ進める必要があるが、現況ではそれが難しいのだ。

リモート学習は効果が上がらない?

 通信教育はリモート学習が始まる前から同じようなことをしてきた。通学困難な生徒にとっては通信教育はありがたい学習機会の場であり、勤労学生の支えでもある。そして、一定の効果をあげている。ただそれが学校の授業と置き換わったときには話が変わってくる。

 学習カリキュラムを人工知能が個人別に判断して、個個別別の授業をするというプログラムもある。こうなると現場に教員はいらず、自分にあった内容を自分のペースで進めることができる。理想的なようだが、実際に行っている人に聞くと、効果を発揮できる人とそうでない人に分かれるという。また、まったく教員がいない状況で運用すると効率が低下するらしい。

 つまり、技術的な問題が解決すればコンピュータを介した学習方法は効果的だが、単にハードとソフトを用意すれば事足りるという訳にはいかないのだ。

 学習という行為が多分に感情や情緒の影響を受けることを再確認しなくてはならない。リモート学習が嫌いだという生徒の意見には仲間がいないとやる気が起きないというものがある。至極もっともだ。仲間は仲良しとは限らずときにはライバルであるかもしれない。それも学習意欲の亢進には不可欠なのだ。

 すると学校の役割は学習意欲を掻き立てる環境を提供することになる。環境といってもものだけではない。雰囲気であったり行事であったりする。一人では決してできない集団の行動を用意することが学校の役割なのだろう。

 いわゆる一流校と呼ばれるものは、それが備わっている。授業は実は他校とそれほど変わらないか、場合によってはいい加減であったりする。それでも結果を出すのは学習行為を発動する要素があるからなのだろう。

 学校関係者はこのポイントを外せないし、受験生も偏差値ばかりに気を取られるべきではない。

教員不足

 一部の地域で教員不足が深刻化しているという。この問題はかなり以前から予測されていて新しい問題ではない。表面化してきただけだ。

 結局、ほとんどなんの効果もなく結局廃止してしまった教員免許更新制度は多くの潜在的人材を無にしてしまった。何よりも教員という職業に魅力がなくなってしまったということが第一の問題だ。他にもいろいろな要因が絡んでいる。

 私も教員だが、確かに楽な仕事ではない。しかし、世間で言われるほどブラックでもない。極端な事例はどこにでもある。だから惑わされてはいけない。教育立国にとって教員は不可欠なのだから。

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紙芝居

 自宅のWindowsパソコンが急に壊れてしまった。どうも物理的な損壊らしく修理に出せば直るかもしれない。恐らく原価以上の請求になりそうなので諦めざるを得ない。最近は授業もPowerPointで行っており、少なからず家で作っていたところもあるので大いに困ってしまった。

 もちろんかつてのようなチョークアンドトークに戻ることも可能だ。ただこれは色々な意味で非効果非効率だ。書くことに生徒も教員も集中してしまうと、大切なものがぼけてしまう。見ればいいことだけは映写で済ませ、大切なことだけをメモさせたい。

 自宅には更新期限切れのChromebookがある。使えるには使えるが国語教員としては致命的不足がある。縦書き編集ができないのだ。裏技で縦書き風に見せることはできてもそれをいちいち作ることは無駄な時間を費やす。

 そこで割り切って、自筆のノートをスキャナーで読み取り、それを映写することにした。ノートづくりはアナログとデジタルの両生類の私がこれまでもやってきたことで苦はない。職場でスキャンしてPDFにしてそのまま映写すればいい。

 手書きだと自由にレイアウトや図案化も可能だ。ただやはり書くのには時間がかかる。コピーやペーストはリアルに行えばいいと考えた。実物を残す必要がないので切り貼りして再利用すればいい。

 気をつけなくてはならないのは字の大きさだ。普通のノートのように書いていたら細かくて読めない。だから少々大げさなほど大きな字で書けばいい。

 これで暫く試してみようデジアナ両生類にはもしかしたらベストな選択かもしれない。

エッセンシャルワーカー

 コロナウイルス感染者が急増して再び世間は自粛モードに戻ろうとしている。オミクロン株の影響なのか今回は感染力が強いらしく、医療機関従事者の感染も多いと報じられている。最近のキーワードにエッセンシャルワーカーというのがある。どうも社会インフラの基盤を動かす人たちのことをいうらしい。

 医療や福祉、衛生関係の仕事についてはこの定義があてはめやすい。警察、消防なども同様だ。他にも運輸、流通なども含まれる。世の中は相互依存の関係にあるので何がエッセンシャルなのかは実は分かりにくい。

 教員も含まれるらしい。確かに教員の罹患はいろいろ面倒なことになる。特に真面目に教育している教員ほど他に替えがたい。学校が止まれば、家庭にも影響するから、社会にも多大な影響がある。

 誰もがエッセンシャルワーカーだとは思うが、教育関係者である以上、健康管理には留意しようと考えている。

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自分で考える面倒な作業

 AIがより実用的なものになった時点で私たちの能力はどうなっているのだろうか。様々な無駄を省き、効率的に物事を進められるようにプログラムされるはずの人工知能に我々はただ従うだけになるのだろうか。

 便利なのものができると得られることと失われることがある。例えば私たちは火を使う際に苦労することはない。ガスコンロをひねればすぐに加熱は出来る。電気式なら炎さえいらない。その代わりガスや電気がなければ火をおこすことは難しい。かつては誰もができたことが誰にもできなくなっている。

 AIが完成しなくてもすでに私は初めて訪れる場所にナビゲーションなしで行くことは困難だ。私だけではなく多くの人たちに共通するはずだ。地図を読む力も落ちている。

 何も考えず、面倒な作業をしないで済むことは幸せなのだろうか。恐らく数知れない利益を齎す一方で、痛切な重大事を見失う可能性がある。先のカーナビの譬えでいえば、ナビに従うあまり、閑静な住宅街に迷い込む経験は何度かあった。確かに近道なのだが、果たして進路としてふさわしかったのだろうかと考えると疑問が残る。近道を選べばいいのではないという選択は今のカーナビにはできないようなのだ。

 どんな時代になっても自分の行動に自分で責任を取ることができる能力を持つこと。取れなくてもせめて自らの判断が幾ばくかの影響があったと考えられるほどにしておくことは大事であり、これからの教育関係従事者の目標となるはずだ。

中学生レベル

 中学生レベルという言葉に初心者、入門という意味を感じるとすれば必ずしも正しくない。義務教育の最終段階である中学校が教えることの内容は必ずしも初級のレベルにとどまっていない。おそらくすべての教科を中学生レベルでできたならばかなりの教養がある人ということになる。

 学校の勉強というのはできなくて当たり前という感じがいつの間にか出来上がっている。テストで60点しか取れませんでしたといえば、まずまずではないかということになる。中学生への励ましならばそれでいい。成長の過程はそれぞれ人によって異なるし、その時できたからといってあとまで続く知識や技能として血肉化しているのかは別問題だ。だから60点だろうが30点だろうが構わない。

 でも、どうだろう。卒業後もそれでいいのかといえば問題がある。私たちは中学生レベルを目指さなくてはならない。せめてすべての中学生向けテストで80点以上取れるように努力しなくてはならないと思う。テストなんて今さら受けるのは嫌だと思う。私もだ。受けなくてもいい。ただ、中学生の学んでいることを知らなかったり、知らないことで平気でいることはやめた方がいい。できないならできないなりに努力したいし、せめてできる人に敬意を持つべきだ。

 念のために言うが中学校で学ぶものには音楽や美術、家庭科、保健体育もある。それも含めて中学生レベルになることを私も意識しておきたい。

古典文学の文庫本

 学生時代は『万葉集』をよく読んだ。国文科の学生であったからそれは教材であり、研究材料でもあったのだが、いまは心の拠り所のようなものである。

 職が変わり日々の業務に忙殺されている間に古典文学を教材としてしか扱わなくなってしまった事に気づいた。文法やその他の知識を生徒諸君に伝達することは教員として大切な役目だ。それを効率的に行うことで仕事の評価がなされることにもなれてしまった。相当な違和感を常に感じながら。

 古典を読む意味は試験に受かるためだけではない。むしろそれは二義的なもので本道から外れる。それに気づいていない教員が多いのはとても残念だが、教員がそうなのだから世間の人々の大半は古典文学は単なる受験の一科目くらいにしか考えていない。

 しかし、古典は様々なことを考える切っ掛けであり、道標でもある。過去の人々の心の足跡に触れることで現状を捉え直すことができることがある。とても大切なことではないだろうか。最近古典文学の文庫本をもう一度開くことにしている。一部は何度も開き壊れそうになっているのでまた買い換えよう。

 相変わらず読んでもわからない部分がある。解釈できない部分さえもある。それでも何度も付きあているうちに読めてくるときが来るかもしれない。それは自分自身の読解力の向上だけではなく、精神の成長に関係するのではないかと考えるのである。


社会を知る遊び

 誹謗中傷をソーシャルメディアに書き込むことに関して、様々な問題点が指摘されている。時に命さえ奪う精神的な打撃を与えることを考えると単に言論の自由という枠組みだけで処理することはできない。本名を名乗らない、遡及不可能な発言はカットすることをやらなくてはならないと考える。

 システムとして特定の人物の発言を不可視の状態にすることはすでに可能だ。信用のおけない相手の発言はそもそも見ないという方法である。しかし、実際には自分の端末でそれを行っても周囲からその情報は入ってくる。自分がどのように評価されているのか過度に気になる状況では、単に見ないというだけでは不安は解消されないのだろう。

 それ以上に大切なのは、精神的なフィルタを確立することである。誰が何と言おうと不当な発言は相手にしないという概念そのものを身につけることだ。これは教育の分野が行わなくてはならないのかもしれない。いわゆるメディアリテラシーだ。

 ただこれも一歩間違うと独善の方向に進んでしまう。正当な反論も聞き入れることができなくなれば、個人として社会としての発展が阻害されてしまう。ネットの存在の有無にかかわらず、集団の中で様々な意見とどのように付き合い、折り合いをつけ、時に自説を述べ、主張し、間違っていれば取り下げる。こういう繰り返しをこどもの頃から身につけることがこうした状況への解決につながるはずだ。

 悪口をいう方も同様なことが言えそうだ。自分の行為がどれほどの意味があるのか分かっていない。その影響力がどこまでおよび、いつまで続くのか。そしてそれが結局自分を傷つけ、時には再起不能のしっぺ返しを受けることになるということを。

 多くの場合、こうした社会性のようなものは遊びの中で習得されると考えられる。しかし、今の子どもたち、今大人になっている世代はこの遊びをしてきていない。それが大きな問題点だ。教育のなかに社会経験を積ませる遊びを導入する必要を強く感じる。