タグ: 平和

長崎忌

長崎は忘れない

 何度か書いたことがあるが長崎忌には個人的に思うところがある。

 1945年8月9日、原子爆弾を積んだ爆撃機は八幡を目指していた。製鉄所のあるこの地域はかねてから潰しておきたい場所であるあったはずだ。ところが目標地点の天候が悪く、投下に適さないと判断した。あるいは八幡製鉄所の工員たちが煙の出るものを燃やして妨害したのだともいう。

 結果的に第2目標であった長崎にB29は向かい、厚い雲間に見えた浦上の上空にプルトニウム爆弾が炸裂することになった。瞬時に多数の命が奪われ、長年に渡る後遺症を残す惨事になった。

 その日、子どもであった父は八幡で暮らしており、第1目標地点に投下されていたとしたら間違いなく犠牲になっていたはずだ。当然私も存在し得ない。いま生きていることが偶然の結果であると痛感するのだ。

 もちろん、あらゆる局面において人生は偶然の産物である。ただ、その運命を人間が変えてはなるまい。長崎でその日になくなった人の未来を奪う権利は誰にもなかったはずだ。

 長崎には何度も訪れている。そのたびにもし北九州がこの運命を背負うことになっていたらと考える。犠牲者に心から哀悼の意を表したい。

広島平和祈念式典

 広島の原爆忌である。平和祈念式典の中では松井一實広島市長は、トルストイの言葉を引用しながら、戦争の無意味さを述べ、ロシアを念頭に核兵器を使用することで勢力を維持しようとする考えが間違っていることを訴えた。また日本のNPTへの参加を要望していた。

 今回の式典では広島出身の岸田首相の発言が注目された。被爆直後の悲惨な状況が詳細に述べられたのは異例であった。それとともに核兵器のない世界を目指すことを述べた。ただ、核兵器禁止条約については触れらえず、思い切った日本の立場の主張には至らなかった。広島出身の首相でさえも踏み越えられないものがあるということが分かった。

 グテーレス事務総長は核兵器を保有する国への強い訴えがあった。核を持たない国に対してそれを使用したり、使用することをちらつかすことはあってはならないと明確に述べていた。

 ウクライナ侵攻が続く中で、日本としてできるのは平和の意味を訴え、その具体的な方策を示すことだろう。どうもその役割を十分に果たしているとは思えない。

 なお、中継の音声にはこの式典を妨害しようとする団体の騒音がかすかに拾われている。平和を願うことすらかなり難しいということはこの事実だけでも明らかだ。我々はよく考えなくてはならない。

Photo by mododeolhar on Pexels.com

割に合わない

 戦争が終わらない。なぜここまで戦い続けるのか分からない。核兵器や化学兵器を使わないところには一抹の正義は残っていると見るべきなのか。

 様々な歴史の教訓で戦争は割に合わないことは周知の事実だろう。破壊した分だけ修復に費用がいる。何よりも憎しみという負の遺産は数世紀にわたって禍根を残す。それが大きな損失に繋がる。

 対立が感情的な要因によるのならばそれを制御する必要がある。怒りや恨みでは何も解決できない。功利的な目的ならば他の方法を探すべきだ。戦争はあらゆる面で割に合わない。

やめ方を指南する

 

やめ方にも方法がある

 その名をなんと呼ぼうと戦争という最悪の事態が継続していることは残念でならない。武力による状態変更は次なる暴力と結びついている。止めるのも難しい。

 反対することは大切で決して怠ってはならない。ただ、それだけではどうしようもない。喧嘩のやめ方を提案しなくてはならない。そういう方法を伝える専門家の育成も必要だろう。戦争を起こし、敗戦し、復興した日本には多くの経験と記録がある。個々の事例は普遍化できるものではないが、何かしらの参考にはなるはずだ。日本に平和交渉研究の拠点があってもいい。

 分断が進んでいるとも言われる世界情勢に何らかの提言ができる人材は必要だ。

個別に判断を

平和のために

 世界中に反ロシアの動きがある。ウクライナ侵攻に対する抗議の一環として経済封鎖がなされている。スポーツ界でも対露試合の放棄やロシア人選手の参加拒否などが相次いでいるこれらは意義を考えて行うべきだ。

 世界経済圏の中にある国にとって、金融資産の凍結や取引拒絶はかなりの打撃を与える。ロシアは国土に様々な資源を持つので、通商停止が直ちに軍事力低下には結びつかないだろう。親露国との連携もあるはずだ。ただ世界的な信用の失墜は大きな打撃となることは変わりない。

 スポーツ等の文化交流については私は慎重であるべきだと考える。あからさまにプーチン大統領を支持する選手もいる一方で、戦争反対を訴える選手もいる。政治と文化は別に考えるという理想を、今回は無効化しつつあるように感じられる。

 文化レベルの交流を保つことが和平への糸口となり、交戦国の国民に何らかのメッセージを送るチャンネルにするべきではないか。嫌なものはすべて締め出すというのでは次の段階がない。

 大変難しいが個別に判断していくことが求められている。世の中のことは大抵同じことが言えるはずだが、分かりやすくまとめすぎる傾向がある。

戦いの扉

Photo by cottonbro on Pexels.com

ロシアの侵攻が止まらない。その中で我が国でも本格的な軍備をすべきだという議論が出てきているようだ。人類の歴史は時に振れが大きくなる。平和の反動で戦争が起こることもある。それが恐ろしいことだ。

無責任に軍拡を唱える人はおそらく戦場に立つ勇気はない。人殺しが公認される戦争は私たちの想像を超えている。誰もが戦うことは恐ろしいと考えるのに、戦わざるを得なくなるのが人類の進化上の限界なのか。

戦いの扉はいとも簡単に開かれてしまった。扉の向こうから強烈な吸い込みが起きている。いろいろなものが戦場に引き込まれていく。高みの見物を決め込むはずが、いつの間にか関係者になっている。戦争というものの吸引力は凄まじい。

戦争に対して私は無力だ。せめて、反戦の気持ちを書くことで、密やかな抵抗を試みる。この戦いはすべての人を不幸にする。どちらも敗者になる。ロシアのような大国が戦争をしてしまったことが残念でならない。

叡智を

 ウクライナの内線に乗じて戦争が始まろうとしている。この手法は太古以来の伝統的なものであり、回避すべき策を探さなくてはならない。

 この戦いの背景にあるのは双方にある被害者意識だという。いずれも過去に侵攻され、多くの犠牲が出ている。その恨みが解消されないまま、現代に至っている。容易ではないが、まずはこれを直視するしかない。

 ウクライナ戦争の動向は今後の世界情勢に影響するという識者もいる。武力行使による現状変更が許容されれば、世界各地で同様のことが起こりうるというのだ。第三次世界大戦ご始まると煽情的な表現をする人もいる。

 戦争は政治的にも経済的にも割に合わない愚挙であり、それ以前に殺人が正当化される事態が出来することはなんとしても避けなくてはならない。過去の歴史が示すようにこれは後世に残る深い傷となる。

 平和交渉に係る叡智を集めるべきだ。日本は近代戦争を経験した国として、この方面に活躍する人材をもっと輩出すべきだと考える。

戦争回避を

 ロシア軍がウクライナに侵攻するのではないかという憶測が出ている。オリンピック終了がその機会であると具体的に考える人までいる。ロシアがウクライナの領土を求める理由はいくらもあるというが、それも逆から見れば別の論理になる。どんな釈明が成立するのだとしても戦争は回避すべきだ。

 ウクライナの歴史といえばクリミア半島をめぐるロシアの執念が想起できる。世界史の授業でもこの件は大きく取り上げられていたので知っている人は多いだろう。私もその程度の知識しかない。もともとこの地にはウクライナ人のほか、多くのロシア系、ベラルーシ系の人が住み、さらには隣国のモルドバ系の人や、モンゴル帝国にルーツを持ちイスラム教徒のクリミア・タタール人、さらにはユダヤ人もいるという多民族国家だ。だから、ロシアに対しての思いも様々であり、中には独立もしくはロシア併合を望む国民もいるというから複雑だ。

黒海沿岸は複雑な歴史を持っている

Irina KushnikovaによるPixabayからの画像

 どこの国でもそうだが歴史の積み重ねによって多様な人々が同じ土地で同居しており、それゆえのトラブルもある。しかし多様性はその地域の強みにもなり、うまく生かせれば利益を生むことの方が大きい。おそらく、かなり長い年月をかけて現在の国民国家という枠組みはなくなっていくのかもしれない。夢のように長い物語の末の話だろうが。

 戦争による現状の変更は一時的には達成できても長期的には無駄になる。多くの人的犠牲が出るし、怨嗟はいつまでも続いて別の戦いの種となる。それは歴史から学ぶことができる教訓だ。ウクライナは確かに複雑で一筋縄ではいかない。しかし、性急に力による変更を加えてもゆがみが大きくなるばかりなのだろう。関係国の思惑がさらに話を複雑にしている。

 日本人としてできることは少ないが、戦争の不毛さは訴えることができるだろう。この国もかつて戦い未だにその傷が癒えない。確かに経済的には復興できたが、隣国からは時に恨まれ、結果的に大きな損失を受けている。やるべきことは戦争ではない。ほかの方法を考えていただきたい。

クリスマスイブ

 今日はクリスマスイブだ。キリスト教徒でもない私や、多くの日本人がなぜかこの行事は我がごとのようにこの行事を考える。実は私はカトリック幼稚園に通っていたため、年末にキリスト生誕の様を演じる「お遊戯」をしたことを覚えている。ヨゼフ役でほとんど立っているだけだった。

 クリスマスは聖なる日として考えられている。実は聖書には書かれてはいないらしいが、心を清らかにすることができるのならどうでもいいことだろう。今年はウイルスという世界共通の敵と戦う一年であった。英国で報告されている変異種の存在が真実ならばその戦いはもう少し長引きそうだ。いまは人同士が争う場面でない。人智を結集して乗り切ることを考えるべきだ。

 現実の世界はさほど公平ではなく、醜い場面がいくらでもある。利権をめぐって常に小競り合いをしている。そんな世の中だが、せめて聖なる日は身の回りの平和を考えたい。多神教の日本は節操がないといういわれるが、その意味では世界中の聖なる日を集め、暴挙に走ることがない世界を広めたいと考えてしまう。

 

Photo by Aleksandar Pasaric on Pexels.com

首相の言葉の意味

 広島と長崎の原爆記念日の首相の言葉がほとんど同じであったことが話題になっている。過去にさかのぼって調べた記事もあり、実はこれまでもあまり違いはなかったようだ。気を付けなくてはならないのはそのことではない。

 広島と長崎の被爆はアメリカの核による脅威を世界に見せつける目的があったという。形式の異なる原子爆弾を落としたもの実験的な意味があったと考えられている。降伏しない日本軍への決定打として、東進するソ連の共産勢力への威力誇示など様々な意味があったようだ。

 75年の歳月を経て被爆の歴史的意味が様々に解釈される中で、日本の首相の発言の意味は大きい。しかし、それがもはや類型化され紋切り型になりつつあるのは残念だ。被爆国として世界にメッセージを発信できる貴重な機会を無にしてほしくない。

 反戦運動もまたしかり。その精神が類型化してしまえば説得力は急速に失われる。戦争の加害者であり被害者でもあった頃の記憶を失えば、教科書の写真をみるのと同じようなものだ。首相にはそれをさせない行動をとってほしい。来年は誰がやるのかわからないが、期待できるだろうか。