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東京大空襲の日

 1945年3月10日に東京の現在の墨田区や江東区、墨田区を中心に広域にわたる空襲が行われた。何度かあった東京への空襲の中でこの日を大空襲と呼ぶことが多い。死者数は10万人を超え、その多くは非戦闘員であった。交戦中の国への攻撃とは言え明らかに戦争法違反の行為である。このことを忘れてはならない。

 戦争という事態は人々を異常な精神状況にさせるらしい。いま、日本は暫く戦争とは無関係な日を送っている。戦争の恐ろしさも抽象的なものとなってしまった。何が本当で何が嘘なのかも分かりにくくなった。

 空襲にしても死傷者の数や被害のあった土地の面積といった数で表現され、その当時の人々の感情は伺い知れない。これでは戦争の恐怖は十分に理解できないのだろう。

 人々が戦争の害悪を知りながら、繰り返してしまうのは実感の保存が完全にはできないからという原因もあるに相違ない。せめて今何ができるのかを考えるべきなのだ。

強者の論理

 アメリカの最近の政策を見るに強者の論理がまかり通っているように思えてならない。アメリカが世界の中で政治的経済的に抜群の位置にあるのは周知のとおりである。しかし、昨今の情勢をみるにその威力にはかなり陰りが見えている。それを知るアメリカの上層部は必至で対面を保とうとしている。それでも止まらないのは強者の理論である。

 強いものは弱いものを統治すべきであるという基本的な論理はアメリカの歴史そのものである。アメリカ国内でそれが伝説となるのはよいが、それを他国にも無理に当てはめると様々な問題が生じる。結局は価値観の押し付けだ。相手が中国のときはそうした声が出やすいのだが、アメリカになると黙してしまう人が多い。

 例えばアラブ地域の歴史をみるに、古代から他地域の干渉を受け、そのたびに歪みが生じている。ローマが衰退すると中世のヨーロッパ諸国が介入し、モンゴル帝国の影響も受け、近代になると英仏に支配される。冷戦注文も、東西の影響を受け続け、その後アメリカがイスラエル支援や対イラクなどで関与した。

 ヨーロッパに近く、民族や宗教は違う。なおかつ、統一的な権力を持ち得なかった地域の運命と言えばそれまでだ。しかし、それを他の地域の大国が自分の利益のために恣にしてきたことは間違いない。

 その大国がいまはアメリカである。自国の利益を最優先し、自らの利権のために振る舞うことが正義のように自認する大国が、自らの論理を振りかざす現実に強い危惧を禁じ得ない。同盟国であっても意見すべきときはするべきではないか。

 

停戦協定

 イスラエル、ハマスの間で停戦協定が結ばれる運びになった。第2段階として終戦への道筋も考えられているというがいかがだろう。

 ガザの戦いはハマスの越境攻撃に端を発したという。ただそれに対するイスラエル側の反撃は執拗で多くの非戦闘員が死傷している。街の大半が破壊され、復興の糸口すら見つからない。

 停戦にはアメリカ大統領の交替などの外部要因もあると言われている。中東は常に外国からの干渉に影響され、分断を繰り返してきた。今回の停戦が究極的な解決にはならないという見方が大半だが、何とか平和の道を模索してもらいたい。人類の限界をまざまざと見せつけてくるこの地区の動向に注目している。

人間の限界

 イスラエルやパレスチナの問題に触れるたびに、人間の限界を痛感してしまう。相容れない民族が近接するときにいかに危機を逃れるのか。それが現生人類には解決できないのである。

 理解できない相手がいる場合、戦いを選択するのは非常に愚かな手段だ。双方が傷つき、禍根を残し末代まで争うことになる。争うことを生き甲斐にし、同胞の死をも快感とするのなら話は別だ。そんな民族は実はいないはずだ。でも、主義、宗教、信念などの違いで簡単に争いが始まり、勝敗を決めることが自己集団の目的であるかのように振る舞ってしまう。争いは争いを呼び、その間に起きた憎しみは新たな憎しみを呼び出す。

 そのような闘争を目にすると、戦わないことがあたかも悪のように思えてくる。結果として無駄な殺戮を繰り返し、多くの悲劇を生み出す。戦わずして自らの利益を守る方法を人類はまだ獲得できていない。ために結果的に同乗する船を傷つけ合い。やがてその船そのものを沈め、全体の死を迎えることになってしまう。こうした見通しは誰にもできるのに、結果として避けることができない。

 中東だけの問題ではない。人類の知恵の段階として、こうした不幸は今のところ避けられないようだ。民族の利益のために人類全体の運命を想像できるほど進化はしていないのだ。それを思い知らされることに痛切な悲しみを感じざるを得ない。

 私の人生のスパンでこの問題は解決しそうもない。未来はどうなのだろう。未開な21世紀は無駄な争いをしていたと後生に嘲笑されるならばよいが、この愚を繰り返し、全体の終焉に近づいていくシナリオが待っているとしたら残念でならない。

終戦記念日に思うこと、今何ができるのか

 終戦記念日である。79年も前に日本が連合国との戦争に降伏した。人の一生涯ほどの長さの年月が流れ、戦争を体験した人は年々少なくなっている。亡父でさえ終戦時には小学生であり、その時の体験はあまり話さなかった。目前で焼夷弾が炸裂したときの恐怖を何度か聞いたことがある。原爆の標的候補だった町で育った父が生き残ったのはある意味偶然であった。

平和への祈り

 私も当時の感覚で言えば老齢の域にあるというのに、戦争体験という点においては皆無であり、父以上に戦争について語れることは少ない。日本が平和である限り今後ますます戦争とは何かが分からなくなり、観念的になっていくはずだ。それは当然のことであり、そうでなければならないことでもある。ただ、戦争が実感のないものになると誤った道に進む確率も上がる。国際摩擦を武力によって解決しようとする者が必ず出てくる。現に世界中の各地でそれが起きている。

 戦争の恐怖と悲惨さ、無意味さをどのように伝えていけばいいのだろうか。核兵器はいうに及ばず、それ以外の手段でも戦争において多数の人を殺害する技術は年々高まっている。遠方からミサイルを撃ち合い、無人機でピンポイントの攻撃をする。病原菌を拡散し、地雷を瞬時に敷設して人の住めない大地にしてしまう。それらがリアルに起きる可能性がある時代になってしまった。

 戦争で勝ち取った領土や資源は、侵略された側からすれば恨みの対象となり、いつか再び所有権の強奪がなされることになる。その時、その場所に住むわずかな人々の利益のために、広範の地域の住民が犠牲になる。場合によっては地球そのものが傷ついてしまう。

 終戦記念日があることがせめてもの救いかもしれない。この国が経験した悲惨な経験や、加害者として多くの人たちを傷つけ、自らも傷ついてきたことを思い返すきっかけにはなる。焼夷弾を怖がった父の話だけでも伝えることができたなら、私が曇天のため原爆を投下されなかった町に住んでいた小学生の子どもであることを伝えられたら、少しは役に立つのかもしれない。

アメリカのふるまい

 中東におけるアメリカのふるまいが世界を動かそうとしている。伝統的に親イスラエル、反アラブの立場をとるアメリカが、ヨルダンにおいてイラン系の組織から無人攻撃機の攻撃でアメリカ兵が死亡した。これに対する報復が行われ、少なくとも45人が死んだと報道されている。

 これとは別に紅海などで民間の商船などに海賊行為を行っているイエメンのフーシ派の拠点に対し、米英および豪、バーレーンなどの陣営が攻撃を行っている。この方面に関しては日本郵船が運航する貨物船の拿捕、略奪されている事実があり、当事者になる。このフーシ派の後ろ盾がやはりイランであるようなので、話は複雑になる。

 アメリカは間接的ではあるがイランに対して敵対関係であることを世界中に表明したことになる。これまで様々な局面で対立してきた両国だが、オバマ大統領の融和政策以降表面的には対立を避けてきた。それがいままた民主党の大統領であるバイデン氏により覆されてしまったことになる。

 中東の問題に欧米が絡むとこじれるのは歴史上繰り返されている。今回もまた同じ結果になりそうだ。ロシア、中国や北朝鮮などの国々もこの対立を巧みに利用しようとしている。日本は資本主義陣営でありながら、中東とは独自の関係を築いてきた。油田の取引など経済的な利害関係は大きい。第3の立場として何か貢献できることはないのだろうか。国際平和に置いて我が国が果たせるのは軍事的なものではない。交渉の専門家を育てることが国としての責務といつも考えている。

理だけでは人は救われない

 イスラエルのハマスに対する執拗すぎる報復に日々驚くばかりだ。テロリストを根絶するという大義名分のもと一般市民ごと根絶しようとしているかのようだ。戦争とテロの違いがよく分からなくなっている。大義は双方にあり、その利害が正反対にあるだけだ。非戦闘員を巻き込んでも仕方ないと考えているのも同じように見える。

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 これだけの戦闘を続けられる資金力があることも不思議だ。双方にはそれを支援する国家や組織が存在している。アメリカはユダヤ人社会への配慮として伝統的にイスラエルを支援し、中東の一部やエジプトはムスリムの仲間としてハマスにおそらく相当な支援をしている。だから、いつまでも終わらない。イスラエル建国に関してイギリスがとった不適切な外交策がこの地域の混乱の原因であるというのは歴史上の常識だが、現在に至るまで地域外の利害関係が絡んで戦争が続いていることになる。

 人類にとって大きな皮肉なのはこの地が宗教的な聖地であるということだろう。本来、人間を救済すべき宗教が人々を分断し、戦わせる原動力となっている。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教ももとをたどればつながっているのだという。クルアーンの中にはイエスが預言者の一人として登場しているらしい。これらの宗教について共通するのは一神教であるということだろう。つまり神は一つであり、排他的な考えを持っているということだ。自分の神以外は信じないだけではなく、認めず排除しようとする。これは歴史上繰り返されている真実だろう。

 多神教の国が平和であるかといえばそうでもない。ヒンドゥー教を信奉するインドが多くの民族紛争を経験していることはよく知られている。カースト制などの分断を許容する信仰の体系が問題なのかもしれない。多神教国家として世界的に特異な位置づけにある日本も太平洋戦争の当事国であり、他国への侵略も行った。でも、この時代はよく考えると天皇を神に見立てた疑似的一神教を国家として作り出そうとしていた。戦国時代の武将たちも、何か一つの神や仏を自身の守り神に見立てたり、徳川家康のように自らが神となることで幕府の求心力を保とうとした。どうも一神教は権力との親和性が高く、また戦争の際のイデオロギーにも転換されやすい。

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 同じく長く戦争を続けるロシアとウクライナの戦争においても、先日クリスマスに関して興味深い報道があった。同じくいわゆる東方教会の流れをくむキリスト正教会を信じながら、ウクライナはこの派が行うクリスマスをユリウス暦に基づく1月7日ではなく、グレゴリオ暦の12月25日に変更して祝祭を行ったという。明らかにロシアに対抗する姿勢をみせたということだが、信仰を同じくすることが戦うことを阻害する要因の一つであることを示す例だともいえる。

 宗教が苦難の人々の精神に働きかけ癒しや救いを与えるという点においてはおそらくほとんど共通するのだろう。ただそれが体系化されていく中で組織としての論理が働く。組織を維持するために排他的にならざるを得なかった歴史を経て、それが定着して戦う理由になってしまっている。これは人間の悲劇とでもいうべきものだろう。神を信じられることは人間の叡智だ。神を捨てると人間は勝手なことを始める。科学技術が地球環境を破壊し続けているように人間の力を過信してはいけない。それを思いとどめさせる制御装置として神は不可欠だ。ただ信じるために勝手なルールを人間が作り出してしまっては恩恵は得られない。

 中東の戦争は私が生まれる前から続いており、その遠因は古代に遡る。分断してしまった民族、宗教をどのように繋ぎとめればいいのだろう。兵器に金を使うのはもうやめて、この方法を考えることに投資をするべきではないか。荒廃したガザの風景を報じたニュース映像を見てそう痛感する。そしてこれは中東地域だけの話ではない。世界中で起こりうる未来の姿なのだ。

The ongoing relentless retaliation against Hamas by Israel is alarming. The distinction between war and terrorism has blurred. External interests perpetuate the conflict, rooted in historical and religious complexities. The irony of religious conflicts persists, as faith becomes a divisive force. The need to address root causes and invest in peaceful solutions is imperative.

内戦の国、シリア

 FIFAワールドカップ予選で日本はシリアに勝利した。この試合の中継は日本のメディアによってはなされなかった。法外な放映権を要求されたことが原因という。ネット上ではこの事態に関して日本のサッカー協会の判断をおおむね支持しているようだ。相手の言いなりにはならないということをピッチの外で示せたという評価だ。

シリア

 この放映権料がもし支払われたとしたら、何に使われたのだろう。想像に過ぎないが、シリアで今起きているのは内戦である。それも多極化したまさに戦国時代のような様相だ。追い打ちをかけるようにトルコ地震の被害もあった。放映権料はインフラ整備よりも軍事費に充てられたに違いない。その意味においても今回中継を断念したのは好判断だったといえるのかもしれない。

 シリアの国情は調べるほど複雑で、宗教、宗派、民族、外国政府、隣国の状況、歴史的ないきさつなどが複雑に絡み合っている。もつれた糸をほどくのはかなり困難で、むしろ米露仏などの介入で被害を拡大しているともいえる。パレスチナ問題もしかりだが、中東地域はさまざまな問題が多い。これをどのように治めるのかは世界の課題といえそうだ。

 サッカーは圧勝したが、相手の国情を知ると素直に喜べない。平和な状況で対戦すれば、そして自国で開催できたならもっと強かったのではないか。いろいろあるが日本がスポーツに専念できる人を持てていることには感謝しなければならない。そして、世界平和に貢献できる人材を輩出しなくてはならないとも思った。

多様性が大切ということは

 国連で活躍されていた方のお話を伺う機会があった。いろいろな話題の中で、多様性こそが大切であり、異質であることへの寛容な考え方が求められているというご意見が印象的だった。

 紛争当事国や貧困で苦しむ民族に、自分たちの成功体験に基づいた助言をしてもうまくいかない。例えば民主主義や男女平等の理想をすぐに実現させようとしても、旧来の社会制度や生活習慣との乖離が大きすぎればかえって混乱を招き、さらに悪い状況に陥るという。国や地域に応じたやり方があり、それを間違えれば良薬も毒薬と化すのは考えてみれば当たり前だ。

 世界には、身の回りには、様々な価値観があり、そのどれが優れているのかを判断するのは難しい。ある状況では絶対の真理と思えても、別の局面ではそうならないことも多い。物理学の世界でさえ、万事に通用する方法はないという。まして形而下の不規則な世界の中でこれこそが真実、正義と言えることは実際はない。その都度この場面では何が最適解なのかを考えるしかない。

 この多様な世界は厄介なだけかといえばそうでもないらしい。多様性の中で、次なる策を見つけることが新しい価値観を生み出し、現状を打開する方策を生み出す。生物学の世界で、ある環境に特化した種が絶滅しやすいことは証明されている。常に新種と接触することが次世代へと繋ぐことができる条件なのだ。

 多様性を推奨するのは容易い。ただそれには異質なものへの寛容さが裏打ちされていなくてはならない。自分の周囲に習慣も価値観も異なる存在がいたとき、それをどのくらい許せるだろうか。私自身のことを推し量ればかなり覚束ない。排除まではいかなくても、距離を置いたり無視したりしないか。その反省から始めなくてはならない問題なのだろう。

戦争の残すもの

 「戦争は女の顔をしていない」というドキュメンタリー作品を読んでいる。第二次世界大戦においてナチスドイツと戦ったソ連の女性たちの戦争体験を聞き書きしたものである。かなり大部であるが、惹きつけるものが大きすぎて非常に印象的だ。

 ソ連軍には多数の女性兵士やその支援部隊がいた。あまりにも多くの犠牲者がでたソ連軍は女性の動員もせざるを得なかったのだ。ただ、この作品を読む限りかなりの女性は自ら志願して戦地に赴き、中には最前線で戦ったという人もいる。多くは死に、生き残った人たちもその心身が傷ついた。悲惨さは文章からは完全にわからないはずだが、それでも心に迫るものがある。

 女性たちを戦地に向かわせたのは家族を殺された憎しみもあるが、当時の指導者の国民の洗脳も大きい。国家のために戦うことを子供の頃から教えられ続ければ、兵士になるのは当たり前だ。このあたり我が国の歴史に共通するものがある。

 生き残った女性たちの証言は様々でそれが戦争の悲劇を多方面から証すのである。男以上に戦果を上げた兵、同僚の命を何人も救いながらも、同時に多くの死を看取った衛生兵、敵に辱めを受けても屈しなかったパルチザンもいれば、敵兵を憎みながらも怪我の治療をした人もいた。

 戦争はさまざまな悲劇を同時多発的に発生させ、憎しみの連鎖を巻き起こす。敵国だけではなく同胞の仲間からも排除されることもある。だから、やはり戦争は避けなくてはならないのだ。

 この作品の当事国であるロシアがいまも戦争をしていることは大きな皮肉というしかない。現在も多くの悲劇を生産し続けている国があることを傍観するしかないのだろうか。