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落葉

 紅葉が盛りを迎えている。そしてすでに落葉が始まり、ほとんど裸木になったものも出てきた。今朝のように雨の翌日は落ち葉が湿って最後の色彩を発揮する。やがて乾燥した関東の風がその彩を奪い、箒ではかれるか風に飛ばされるかして消えてゆく。落葉はエコサイクルを回すための戦略と聞く。土に帰って他の生き物の食料となり、様々に巡って再び樹木の養分となる。そういう姿の典型を見ているのだろう。

年賀状の準備

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 年賀状の印刷の受付を知らせる広告が出始めた。印刷されたはがきもすでに店頭に並び始めている。今年はどうしようか。

 虚礼だなどといわれて減り、ネットの普及とともに年賀状は過去の遺物になりつつある。それでも実物のもつ意味は消えないはずで、本当に挨拶をしたい相手にはやはり紙のはがきがいい。本当は手紙の方がもっといいが、さしあたり安否を伝えるだけでいいのならばはがきがいいのだ。

 私はあまり多くの枚数を出さないかわりに、すべて手書きで行ってきた。しかし、今年はどうしよう。もう出さないという手もあるし、印刷してとにかく送ってしまうという手もある。日々疎くなりつつある旧知の人々に、せめてまだ生きていることを伝えることで、自分自身の存在理由を確かめられるのなら、やはり出しておこうか。

 悩んでいる。

欅紅葉

 このところ暖かい日々が続いていたが、今週からは冷え込み始めるらしい。すこし足取りを緩めていた季節の進行も紅葉は着実に進んでいる。植物ごとに紅葉の仕方もいろいろあって、それを見比べるのも楽しみの一つだ。私がその中でも注目してしまうのが欅の紅葉である。

 欅は同じ種類でも紅葉の仕方が様々だ。さらに、同じ幹でも枝によって紅葉の仕方がさまざまなのも面白い。赤くなるものもあれば黄色が濃いもの、その中間のものとバリエーションがある。

 なぜこのような複雑な紅葉の仕方をするのかは分からない。日の当たり方とか、枝ごとの遺伝子の違いとか、いろいろ想像するがよく分からない。ただ、単に鑑賞する身としてはこれほど楽しみなものはない。

 紅葉した欅の葉は日に透かすと美しさが際立つ。美しい秋の風景を演出する。このきれいな紅葉も枝を離れて落ち葉になると、急速に干からびて同じような枯葉色になってしまうのも不思議だ。あれほどきれいだったのに、落ち葉としては個性のないものになってしまう。あたかも土にかえるのに余計な色はいらないとでも言っているかのような潔さを感じる。

 今はなき卒業した中学校の校章が欅の葉をデザインしたものだった。表参道の欅並木からとったという説明を聞いたことがある。その時は欅がかくも美しいものだとは気がつかなかった。紅葉の美しさを知るには自分も歳を重ねなければならないのかもしれない。

まぶしい季節

お天道様

 急速に秋は深まり、もはや冬も近い。近くの商店街はクリスマスのデコレーションを始めた。考えてみれば一月半くらいでその季節になる。これからはまぶしい季節になる。

 気温も低く、風も冷たいのだがこれからしばらくは毎朝晴れた日はまぶしい。日の出時刻が遅くなり、北よりに変わった太陽の道は、通勤の道の正面に当たる。強い朝日を正面にして進まなくてはならないのだ。

 乾燥したこれからの季節の中で、陽光は嬉しくもあり、厄介でもある。ただ、寒さに打ち勝つためのエネルギーを送ってくれていることに感謝しながら歩くことにする。

イヌタデ

 イヌタデはこの辺りではどこでも見られる野草で、いわゆる雑草と呼ばれる類の植物である。赤紫の花が印象的で赤のまんまともいわれる。俳句の季語としては秋季で、確かに今、写真のような房状の花があちらこちらで見られる。

 この花はよく見るととても美しい。花の色彩がいかにも秋の野を彩るのにふさわしい感じがする。実は夏からも咲いていたのだが、そのころはほかの色鮮やかな花に紛れて目立たない。秋になって風景が落ち着いてくると目立ってくる気がする。

 イヌと名がつくものの多くは、まがい物とか品落ちるものといった意味がある。イヌタデも本当の蓼より劣るものという意味だ。蓼というのは植物学上はヤナギタデというそうで葉に辛みがあることから薬味として使われてきた。イヌタデはそれに姿が似ながら辛みがなく役に立たないという意味の命名らしい。食用には向かなくてもこの「雑草」は秋の野を彩るものとして大切にしたいものである。

紅葉

ムサシノケヤキの紅葉

 昨年も書いたが近隣の商店街に植えられたムサシノケヤキがいつの間にか紅葉している。ライトに照らされると実に鮮やかな色合いになる。

 足元を見るとすでに落葉した葉が散乱している。ついこの前まで汗をかいていたというのに、もう紅葉そして落葉の季節なのだ。

 秋来りなば冬遠からじ。今年は厳冬の長期予報が出ている。

変装ではなく変身を

 ハロウィンが近い。このところコロナ自粛が続いていたが今年はどうなるのだろう。単なる乱痴気騒ぎならばやめた方がいい。

 ハロウィンはアメリカを中心に行われている子供の祭りだ。収穫祭と祖先崇拝とがその根本にあるという。原始的な宗教が背景にある。それがなぜか日本では大人が参加する変装大会のようになってしまった。死者のふりをして町を練り歩くというのは、日本の祭りにも通底する何かがある。ただそれを意識することは少なく、先にも述べた仮装パーティーとなっている。

 大人が喜んで変装をしようとするのはなぜだろう。もうそこには信仰的なものはない。自分のために変装をしている。現状に甘んじてがんじがらめになっている状態をなんとか打破したい、という想いは変装という行動で晴らそうとするのだろう。実際は顔に何を塗ったところで状況に変化は起こらない。

 本当に必要なのは一時的な変装ではなく、変身することだ。それにはかなりのエネルギーがいる。今と違うなにかに変わることを目指していればいつかは変われるはずだ。それができてこそ、自己肯定感が得られる。とりあえず覆面してみて、そのうえでもっと大きな変化を期待し続ける。そうすればいつかは変身もかなうはず。そのように考えている。

厳冬予報

 気象庁や関連会社が出した長期予報によれば次の冬は厳しいものになるという。天気のことゆえどうなるかは分からないがもしこれが当たるならば気をつけなくてはなるまい。

 猛暑の次の冬は大雪が降りやすいという。これも統計的な真実を掴んでいる訳ではないので無責任に書いているのだが経験上はそうかもしれないと思う。雪害のことを思うと不安になる。

 農村にタワーマンションが建設されたというニュースごあった。理由は除雪をしなくてもいいからということだ。それほど雪は生活の大問題なのだろう。

 ぜひともほどほどの降雪を。誰にも頼めないことではあるが。

木星

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 このところ木星の輝きが印象的である。秋に入って木星は一段と輝きを増している。位置的にも見やすい場所にあり、明るい恒星が並ぶ冬の星座も出始めているがまったく他を寄せ付けない輝きがある。土星も見えており、とても鮮やかだ。このところかなり冷え込んできたが、空が澄むのはよい。ホルストの楽曲を流しながら見てみたい。

冷え込み

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 寒気が南下して気温が下がっている。今日は15度前後までしか上がらないという。薄いコートを着て出勤することにした。

 上着が増えると困ったことがある。ポケットに何でも入れてしまう私はそれがどこに行ったのか分からなくなるのである。今年はコートのポケットには何も入れない、入れるとしてもひとつの場所だけと決めることにする。

 まるで小学生の誓いのようだが、私にとっては結構切実な問題なのである。