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夏日

 東京は今日も夏日になるという予報が出ている。真夏の酷暑に比べれば大したことはないはずなのだが、この時期に熱中症が発生しやすいらしい。原因は身体が暑さに対して馴れていないことにあるらしい。

 最近の天候は日毎の気温の変化が激しく、さらに一日の中でも較差が大きい。こういう状況がよろしくないようだ。私自身もかつてなら感じなかった疲労を覚えてしまうのは、この気温変動と加齢のせいだろう。

 夏日とは言ってもそのまま夏になるのではあるまい。まだいくつもの紆余曲折が待っている。それに対応できる体力と心の持ちようを保つことが大事だ。

春土用

 立夏の18日前からを春土用というらしい。土用というと夏のものばかりを思い浮かべるが、実は四季の全てにある。

 今年の立夏は5月6日なので春土用が始まったことになる。土用は陰陽五行説の土のエネルギーを獲得する期間とした雑節の一つであり、何らかの食べ物の摂取を推奨する。春の土用は戌の日に「い」から始まる食べ物か白いものを食すののが吉とされるらしい。

 迷信と言われればそれまでだが、身近なもので元気になれるのならばのってみてもいい。

三色すみれ

 スミレの仲間は実は結構強い。万葉集の赤人の歌に詠まれているからスミレ自体はかなり古くから日本人に注目されていたことになる。三色すみれはパンジーのことだが、この可憐な姿に反して結構強い。

 富山にいた頃、冬場の花壇の彩りを保つのはパンジーであり、積雪を経ても生き残り、チューリップの咲くまでの隙間を埋めてくれた。

 東京に帰ってもパンジーの強さを実感することがある。アスファルトの破れ目の僅かな隙間にもパンジーは咲く。こんなところにもと思う。花のサイズを小さくして適応しようとするのは雑草のような強さである。

 パンジーを見るたびに雪国の冬場を慰めてくれたことに感謝している。

シラン

 紫蘭は蘭と名の付く植物の中ではもっとも身近だ。ことごとしい世話はいらないので庭先に植えられる。ある程度まとまって植えられているものを目にする。

 調べてみると原産地は日本を含む東アジアで、野生種もあるらしい。この国の風土に適合してきたということになる。ただ蘭があるというだけで何か贅沢な気持ちになれるのはこの花の良さである。

 すでに開花が始まっており、群生が咲きそろうのもあと僅かだろう。心遣りには最適な花である。

ヒナゲシ

 道路脇の僅かな空間にヒナゲシがこぼれ咲きしている。恐らくどこかの庭から来たのだろうが、それと思われる家は代替わりして園芸には興味がなくなったようだ。花だけが敷地外に生き延びた。

 ヒナゲシは虞美人草ともポピーとも言われ、名前ごとに印象が異なる。可憐で華やかなお花でいかにも弱々しい趣きだが、こぼれ咲きに耐えるだけの繁殖力がある。見た目と異なる生命力に驚く。

 項羽の無念に例えられる草花が存外逞しいというのは意外だ。いやそれ故に悲劇性は増すのかも知れない。

アザミ

 近隣の空き地にアザミが咲いていた。久しぶりに注目すると、つくづく野趣溢れる花である。

 全体的に刺々しい風貌は、自らの身を守るための進化なのだろうか。うっかり掴むと怪我をしそうな感じだ。子どもの頃、痛い目にあった記憶が蘇る。野遊びでもこの植物は注意がいる。

 花も紐のような花びらで非常に個性的だ。赤でも桃色でもない色合いも印象的で代替し難い存在感がある。調べてみるとアザミは食用とされてきたのだという。茹でると棘は柔らかくなり食べられる野草になる。

 あざみ野という駅が通勤電車の駅名にある。本当のアザミの群生はしばらく見ていない。野草を見ない生活を続けているとどこか精神的不調になるのかも知れない。次の休みは散歩に行こう。

黄砂

 黄砂の飛来する季節になった。東京では明日から黄砂が大量に飛来するらしい。洗濯物を外に干さないようにと天気予報で呼びかけている。

 いわゆる西域の砂漠の砂が風に乗ってやってくる。毎年のことであるが、来ると言われると緊張するものだ。電子機器などに障害が発生しないか心配だ。

 グローバル時代などと言われるがこうした自然現象こそ国境など意味のないものだと痛感させるものだ。宇宙から見れば、砂漠は日本列島のすぐ近くにあり、近隣の現象に過ぎない。

 黄砂のように分かりやすいものは意識することができる。温室効果ガスやウイルスなどもつねに世界をかけまわっていることを再認識した。

ゼンマイ

 最寄り駅のホーム横の土手に今年もたくさんのゼンマイが育っている。印象的な新芽は山菜としても知られるものだが、だれもここのものを持ち去る人はいない。食用になるのは発芽してすぐのものらしく、私が見つけたものはすでに大きくなりすぎているものばかりだった。

 東アジアの植物ということだが、他の植物が外来種に席巻されるなかで、文字通り根強く自陣を守り続けている。この駅は大規模な改修があったのだが、以前からゼンマイは発芽し、今もまだ生きている。シダ植物の生命力を感じさせる。

 葉が広がるとどことなく原始を感じさせる姿になる。どこにでも見られる植物だが、それにはこの生命力の強さが関係しているのだ。

ツツジ

 躑躅は万葉集にはすでに歌われている。桜の後に続く花は赤や白、その中間色や混ぜ合わせたような彩りまで様々だ。庭木として植えられることが多いので桜より身近だ。花の奥の蜜を吸ったり、花飾りを作って遊んだりした。

 今朝駅の近くに植えられたツツジが一部開花しているのを見つけた。もう少し前から咲いていたはずだが気づかなかったのだろう。一度気がつくとあちこちですでに花の面積を広げつつあることに気づいた。葉桜の後に出番が来たと言っているかのようだ。

 近縁のサツキやシャクナゲなどもこのあとに続くのだろう。花のリレーがどのように展開されるのか楽しみである。

夜桜

桜に月

 数日前、近くの公園は桜の盛りを迎えていた。すでに散り始めた枝もある。見上げると月が出ていて、その光に桜花の彩りが一層引き立つ。

 恐らくこの光景は数日の後にはなくなる。桜は偶然を痛感させる。実はすべてのものが一度限りでありながら、似たものを見たり聞いたりすることで永遠に繰り返されているような気になってしまう。

 今日の夜桜は今宵限りだ。ただ夜桜なるものは来年もこの場所であるだろうし、この場所でなくても似たようなものはある。一回性か普遍性かそんなことも考えさせる。

 ただ言えることはこの日の夜桜はよかった。これまでの中でもかなりいい部類だということだ。