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ズートピア

 先日、ズートピア2を観てきた。前作も映画館で観たが、それから9年も経過していたとは驚きである。ディズニー映画らしい分かりやすさと、ある意味予定調和の安心できるストーリーは大衆受けするものである。日本アニメとの違いはこのグローバルな後味にあると痛感した。

 原作もそうだが、この可愛らしいアニメーションの世界は多分に暗喩に富んでいる。現在のアメリカ合衆国で進む分断に対する提唱とするならばかなりラディカルなメッセージが込められている。前作では肉食動物と草食動物の対立がテーマであったが、今回は哺乳類と爬虫類という対比がなされている。ズートピアという理想的国家には実は様々な格差があり、それを認めることが難しい状況にある。個々人が幸福を追求する競争社会において多様性がどのように受け入れられていくのかは現実社会の抱える問題点そのものだ。アメリカという移民によって建国された国家が根源的に抱える問題である。

 日本においてこうしたダイバーシティに関する知見は少しずつ定着しつつある。でも、いざ有事になると分からない。日本には差別なんてありませんよ。そんなふうに思い込んでいることが実はもっとも深い問題なのだろう。

 

多様性を認めるためには

 見逃せないことは息苦しさに直結する。最近、正義を語ろうとするあまりに多様性を蔑ろにすることが増えているように思う。印象で評価された事実が無批判で支持される。それが本当に正しいか否かは考えられず、時々の多数意見で物事が判断されてしまう。

 同調圧力の大きい我が国の国民性は、うまくいけば自律的な社会を形成するが、大抵の場合衆愚に陥りやすい。そうならないために常に教育というサポートが不可欠なのだ。

 しかし、それが最近機能していない気がしてならない。多数意見が必ずしも正しいとは限らないという批判精神を今の教育システムでは伝えにくい。与えられた公式に当てはめて、効率的に正解にたどり着けとしか教えない。だから、同調することへの親和性は高いが、それを検証することは難しい。

 だから、常識人であればあるほど既存の価値観に沿って物事を判断し、逸脱しているものには容赦ない非難を浴びせる。彼らはそれを善行と信じているから、自分が他人を傷つける行ないをしたという自覚はない。自分の価値観に合わないものは劣勢なるものと決めつける。その結果出来するのが自警団に監視された日常である。

 世界は多様であり、価値観も多岐にわたる。それを考えて言動を決めるべきだ。それが今の時代に求められている本当のスキルなのた。

多様性が大切ということは

 国連で活躍されていた方のお話を伺う機会があった。いろいろな話題の中で、多様性こそが大切であり、異質であることへの寛容な考え方が求められているというご意見が印象的だった。

 紛争当事国や貧困で苦しむ民族に、自分たちの成功体験に基づいた助言をしてもうまくいかない。例えば民主主義や男女平等の理想をすぐに実現させようとしても、旧来の社会制度や生活習慣との乖離が大きすぎればかえって混乱を招き、さらに悪い状況に陥るという。国や地域に応じたやり方があり、それを間違えれば良薬も毒薬と化すのは考えてみれば当たり前だ。

 世界には、身の回りには、様々な価値観があり、そのどれが優れているのかを判断するのは難しい。ある状況では絶対の真理と思えても、別の局面ではそうならないことも多い。物理学の世界でさえ、万事に通用する方法はないという。まして形而下の不規則な世界の中でこれこそが真実、正義と言えることは実際はない。その都度この場面では何が最適解なのかを考えるしかない。

 この多様な世界は厄介なだけかといえばそうでもないらしい。多様性の中で、次なる策を見つけることが新しい価値観を生み出し、現状を打開する方策を生み出す。生物学の世界で、ある環境に特化した種が絶滅しやすいことは証明されている。常に新種と接触することが次世代へと繋ぐことができる条件なのだ。

 多様性を推奨するのは容易い。ただそれには異質なものへの寛容さが裏打ちされていなくてはならない。自分の周囲に習慣も価値観も異なる存在がいたとき、それをどのくらい許せるだろうか。私自身のことを推し量ればかなり覚束ない。排除まではいかなくても、距離を置いたり無視したりしないか。その反省から始めなくてはならない問題なのだろう。

スーツにスニーカー

 業界の人ならすぐに見破られてしまう格好というものがある。いわゆるスーツを着ているのになぜか運動靴を履いていたらかなりの確率でそれは学校の先生だ。特に中学校か高校の教師が怪しい。我々はよく自嘲気味にこの話をする。

 着せ替えパズルに失敗したかのような格好をするのは訳がある。教員という仕事はよき整容を説きながらもやることが多く忙しい。その中には荷物を運んだり走ったりすることも含まれる。だからスーツのような服を着ることと、スニーカーで走り回ることの両方の要求を満たすためにこの滑稽な姿が出来上がるのだ。もちろんもう一つファッションの呪縛がかかりすぎていない人物であるということも加わる。

 私もその業界人なので例えば合宿や試合の引率でこのスタイルをとったことがしばしばある。何度かの反省の上、黒いスニーカーやウオーキングシューズと呼ばれている靴は比較的チグハグさが目立ちにくいとわかり、私の持っている運動靴はみな黒い。

良く考えてみればこのヘンテコな組み合わせは教員としての仕事着のようなものであり、別に卑下するものではない。かつては上着を脱ぐことさえ失礼とされ、夏でもネクタイを外さなかった。時代とともにドレスコードも変わる。だから一流企業の会社員が高級なスーツをきて足元は原色のスニーカーという姿もいつか許されるときが来るかもしれない。だとすればティーチャーズコーディネートは最先端ファッションということになる。

生き残るのは

 非常事態宣言が今月いっぱい延長されることが決まり、いよいよ深刻な経済停滞が起きることが決定的になりました。この情勢で生き残るのはどうすればよいのか。すでにそんな議論が多くなされています。

 政府の発表によるよると非常事態宣言は地域により緩和策がとられます。北海道、東京・神奈川・千葉・茨城・埼玉、愛知・岐阜・石川、京都・大阪・兵庫、福岡は現状の継続が要請されますが、そのほかの県は上記の地域への出入を除いて外出制限をなしとしたり、イベントなども開催可能とすることとなりました。なお、講演や博物館、図書館、学校などは全国的に状況を見つつ再開可能となりましたので、今後は徐々に開いていくものと考えられます。

 今回の事態をうけて、大幅な損益を出している企業や個人は計り知れません。その中で生き残るのは本物だけだという人もいます。どんな事態でも求められる存在だけが生き残るというのです。これは言い方ですが、換言すれば厳しく余裕のない状態といえます。多様性が確保されない極めて危険な状況でもあります。本物と称されるものが挫折した時に多くは滅びてしまうわけですから。

 私は非常時こそ、大同につくだけではなく、常に他の選択肢を模索することが必要だと考えます。無駄なくやりたいという気持ちはもっともですが、それだけでは道は閉ざされてしまいます。人がやらない可能性も考えてみるべきではないでしょうか。

 行動制限が緩和された地域の皆さんはこれをチャンスと考えて、大都市の動向にとらわれない地域重視の活動をしてみてはいかがでしょうか。かつてはグローバルな考え方を重視しすぎて、日本で世界で通用しないものは意味がないなどと言われたこともありますが、どうでしょう。一週回ってローカルなものが他で受け入れられるという現象はこれまでいくつか見てきました。他に合わせて行動するだけではなく、自ら主導権をとって創作していくということが大事です。今はそのチャンスなのかもしれません。

差異

 資本主義の大原則は人々の間に何らかの差異があることだといいます。持てるものの格差が利益を生み出すのがすべての根源にあるそうです。

 格差が無くなりそうになると既得権を持つ人は様々な差を生み出す仕掛けを用意してきます。儲けが続くためには皆が同じものを持っていてはならないのですから。利益を得る人が常に同じであるとき、社会格差が発生します。それが場合によっては社会不安を生み出すきっかけにもなってしまうのです。

 すべての人が同じものを所有し、同等の価値観で生きるという考え方はこの格差をより決定的なものにしてしまいます。実際には多様な生き方があり、求める目標も違うはずなのに社会的同調圧力が巧みにかけられ続けているのです。

 人とは違う生き方、別のゴールを持つこと、それらは現代社会では堅持しにくい目標と言えます。人々を同じ価値観に誘導し、その上で格差を設定するのが現代社会なのでしょう。この頸木から逃れるためには、自分なりの生き方を貫くしかありません。他人からは敗者に見えても自身では幸福だと思えることが大切なのです。

差異を越える何か

 細かな差異が気になる状況においては様々な先天的要因が顕在化します。

 いわゆる差別というものを忌避するように私たちは教育されています。これは社会生活を営む人間の叡智であり、大変尊いふるまいです。ただ、非常に細かいことが気になる状況においては、わずかな相違が気になることがあります。

 差別が発生しないための条件として、先に述べた社会的教育の成果は大きい。さらには、細かな差異が問題にならないような環境づくりも必要になります。色々な局面において余裕を作ることが重要なのです。

 これからの多様性の溢れる社会の在り方が、差異を越える何かを見つけ出していくのでしょう。

多様性を認める寛容性

ものごとの流れが一つに纏まり過ぎるようになったときに危機を覚えてしまいます。多様性を認める社会こそ持続可能だと思うのです。

過去の歴史や生物の在り方を鑑みると、環境に適応した集団なり種族は繁栄しますが、環境の変化が起きると対応できずに一気に絶滅に向かいます。あっけないくらい脆く崩れるのです。

そうした事態を避けるためには、多様性に対する寛容さが欠かせません。気に食わないこと、嫌なことでも排除はしないのが賢い生き残り戦術なのです。最近の世情はこの寛容さが失われているのではないかと心配になります。