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伝統的価値観

 古典作品を読んでいるときぶつかるのが現在との価値観の違いだ。文法や単語の意味が分かってもこれが分からないとしっくり来ない。

 たとえば極楽往生を目指す僧侶の話ではなぜ死が幸福に繋がるのかが分からない。そしてただ死ぬだけでは往生できない。様々な手続が必要なことも分かりにくい。

 前世の因縁をいちいち持ち出すことも理解を越えるはずだ。何かにつけて運命だという考え方は現代人には不思議である。消極的な生き方のように思えることもあるだろう。

 身分制度が当たり前の人間観も納得しにくい。血筋がいいだけで全人格的尊敬を゙受け、身分が低いと下品と分類される。これもかなり理不尽である。

 古典を読むときに現代の価値観では理解できないことが多い。一度過去の価値観を知り、それに基づいて世界を見直す必要がある。古典教育の目的の一つはここにあるはずだ。何も暗号読解のように古典を解読することばかりに集中すべきではない。

漢字の練習

 手書きの生活がなくなると漢字が書けなくなりやすい。私は学校で教える立場なので手書きで文字を書く生活が続いているが、それでもこのブログをはじめとしてキーボード入力の方が増えている。だから例えば板書をしながら文字を忘れてしまい生徒に笑われる(心の中で)という経験を何度もしている。

 漢字のリテラシーを保持することに関してはやはり手書きする生活を守らなくてはならないと思う。このブログをお読みくださる方はおそらくかなりの文章を読むことには抵抗がない方だろう。私のような生硬な文章を読んでくださる方は残念ながらそう多くはない。文字ばかりの画面を見て、しかも常体のぶっきらぼうな文章を読み通せる人が少なくなっているのは残念ながら事実だ。こうした日本語の文章表現において欠かせないのが漢字の知識であり、読めればいいなどと高を括っていると次第に書けなくなり、書けなくなると読めなくなっていく。

 いまさら漢字の問題集を広げる必要はない。何かメモするとき漢字で書くようにすればいいだけだ。分からないときはスマホや電子辞書で調べてもいい。でも、手書きで書くことを最終段階に持ってくると忘れない。字を忘れないことは日本人にとっては実はとても大切なことであることは脳科学の方面でも様々に言われている。健康対策にもいいのかもしれない。

短歌を教える

 授業で短歌を教えることがある。古典和歌ではなく現代短歌をおしえるときには文学性はもちろんだが、もっと違うものを引き出すことを考えている。

 国語の授業は最近ますます情報処理の方面に近づいている。書かれていることを正確に読み取り、それを短くまとめるという能力だ。実用的な文章においてこれは大切であり、必要不可欠な要素であることに相違ない。ただ、これはいわば機械でもできることだ。ちなみにChatGPTに短歌を中高生が学ぶ意義を尋ねたところ、

 日本語の美しさを学ぶことができる:短歌は、五・七・五・七・七という音数の制限の中で、豊かな表現力を持った日本語の美しさを表現することができます。短歌を通じて、日本語の響きや表現力に触れることができるでしょう。

 感性や思考力を養うことができる:短歌は、短い詩であるため、それぞれの言葉が持つ意味や表現力が重要となります。そのため、短歌を書くことで、言葉をより正確に選ぶ感性や、自分の思考を深める力を養うことができるでしょう。

 文化や伝統を学ぶことができる:短歌は、日本の伝統的な詩形であり、古くから多くの人々に愛されてきました。短歌を学ぶことで、日本の文化や伝統を理解することができるでしょう。

 創造力を発揮することができる:短歌は、自分の感性や思考力を活かして、自由に詩を書くことができるため、創造力を発揮することができます。

OpenAI

 以上のような実に模範的な回答が得られる。しかし、実際に短歌を作ってほしいと頼んでみると即座に「木漏れ日 きらめく枝先に 小鳥の 歌声響く 春の息吹」という作を披露してくれた。残念ながら短歌ではなかった。定型が守られていないのは存外として、これでは詩としての感動がない。春に小鳥というよくある取り合わせを並べたものに過ぎないのだ。

 なぜ(いまのところ)機械と人間との創作に差があるのかと考えれば、やはり意味の理解の差にあるのかもしれない。私たちは言葉の背景にある意味を考え、その言葉が取り合わされたときに生じる意味も考える。「春」に「小鳥」が「枝先」で「歌」うのは統計的に非常に多いものであり、それを短歌にしても感動は生まれない。でも例えば先ほどの短歌を、

 木漏れ日のきらめく枝に小鳥らの歌声響くことのない春

とすると、趣が変わる。なぜ春なのに小鳥は鳴かないのか。疑問とか不安とか正体は分からないが作者の一度限りの感情が読み取れてくる。

 おそらく短歌の教育で教えたいのはこういうことなのだろうと考えている。詩という形式が何をもたらすのか。それは論理的な読解だけでは表現できない、情動なり空気なりをぎりぎりの段階で言葉としてつかみ取る方法なのだということを気づかせたいと思う。

読解力のために

 おそらく国語など役に立たない科目だと思っていた人こそこれから後悔することになりそうだ。日本人だから今更日本語の本を読んでどうする。それより理数を学んだ方がいい。国語は学ぶ必要などあるかと考えていた人は多いのではないか。そして今でもそう思っているのならばかなり危うい。

 情報化社会になってもっとも求められるのは読解力と表現力だ。それは機械任せにはできない重要事項である。それなのに簡単な文章が読めなかったり、説明の方法が悪くてよく伝わらなかったりする。また人の気持ちが読めず、文章や発言の奥にあるものが分からないこともある。これらは実は国語力と深い関係にある。母語のちからは論理的思考のみならず、感情や情緒に深く影響する。だからこれをおろそかにすると痛い目にあう。

 もちろん科学も技術も工学も数学は大切だ。しかし、それらを支えるのが豊富な母語の力であることを再認識しなくてはなるまい。成功者のほとんどが表現力の大切さを強調し、余暇に多くの本を読んでいる。その基礎が中等教育までで学習する基礎的な国語力であることを確認していただきたい。これからの国語教員はこの国の人材の才能を下支えする役割を果たしていることを自覚して仕事をするべきだと思う。

この文章誰が書いたんだ

 AIの発展は著しいものがある。音声入力に感動していたら、今度は自動文章作成能力まで獲得していた。これからの人間は何をすればいいのだろうか。

 定型的な文章の作成ならば、機械に代替できることは予想がついていた。国語の時間に生徒に教える作文の授業は大体型で教えるものである。たとえば、第一段落は自分の言いたいことを疑問文にして問題提起の形にする。第二段落では一般的によく言われている事例を扱い、通説を確認する。第三段落ではそれを超える自説の良さを訴える。第四段落は第一段落の疑問に答え、言いたいことを明確に言う。こんな指導をしている。

 この指導である程度格好がいい文章になる。うっかりすると名文のように思ってしまうことさえある。この思考の型は理解しやすいからだろう。

 しかし、型はあるが内容はないという文章になりがちだ。それでいいのかと言われればやはりおかしいと言うしかない。でも、このあたりまでの作文であればコンピューターが達成してしまうようだ。

 私たちがやらなくてはならないのはその上と言うことになる。今のところAIは意味の世界までは踏み込めておらず、統計的に可能性の高い組み合わせを提示しているに過ぎない。ならば、人間がこの意味の世界で生き残るべきなのだろう。

 意味もしくは価値を創出することは機械が苦手な分野である。ならば私たちは積極的に価値の創出に力を注ぐべきだろう。それこそがこれからの作文術ということになる。

音声入力

 今回は音声入力を利用してブログを書いている。 音声入力の精度はかつてと比べるとかなり良くなっている。 ただ日本語には同音異義語が多いために、なかなかうまくいかないことも多い。

 音声入力をしている場面はかなりおかしい。スマホに向かって独り言を言っている。 かなりな変人だ。それでもこれからはそういう場面に多く出会うだろう。

 ここまでの入力で、同音異義語や句読点が出てくるたびに引っかかっている。でも、それ以外の入力は比較的うまくいっている。私のようなだみ声で滑舌が悪くても入力できている。結構これは使えるかもしれない。

 音声入力で必要とされる能力に文字が正しいかどうかを見定める漢字力、表記力がある。この意味において漢字のテストの役割はまだ終わっていない。音声入力は意味のつながりを考えておらず、単に可能性の高い変換をしているのに過ぎないのだ。

 もう文字を覚えなくてもいいとか文章は機械に任せるとかそういう考えは今のところ通用しない。今後、さらなる技術の飛躍があって、音声入力がほぼ完璧になされるようになったら、次は話したまま、文章として成り立つように文章が組み立てられる能力が必要になるのだろう。

 どこまで行っても国語能力が必要であり、そうである限り文字を書き文章の構成を考える学習は必要であり続けるはずだ。

反実仮想

 「まし」という助動詞を教えるとき、気がついたことを書き残しておくことにする。

世の中にたへて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

 この歌の解釈に反実仮想の概念が必要になる。世の中に全く桜がなかったならば、というのは事実に反することだ。日本人は桜に関する執着が強く、あちこちに植林してきた。虫害に弱く、様々な病気にかかりやすい桜を敢えて植え続けてきた。

 春の人の気持ちはのどかであろうに。この推量が反実仮想の仮想に当たる。そもそもありえないことを想像しておいてさらに想像を重ねるのがこの助動詞の役割りだ。

 私たちはどんなときに想像の翼を広げ、どんなときに幻想の世界に遊ぶのだろう。「まし」の用法を理解するためにはこの疑問を考える必要がある。反実仮想せざるを得ない切羽詰まった状況を考えるべきなのだ。

 機械的に文法の知識を教えるのはたやすい。しかし大切なのは言葉の持っている背景を察してもらうことだ。

「る」「らる」

 古典文法を学ぶときいくつかの難所というべき項目がある。助動詞の用法の識別はその一つだろう。助動詞は日本語を日本語らしくする品詞の一つである。文の細かな意味や感覚を表現するのに助動詞が大きな役割を果たすからだ。現代語と比較しても古典の助動詞は種類が多く、なおかつ細かな使い分けがなされる。それを完全に習得することは難しい。

 国語の教員であれば助動詞についてある程度は説明できなくてはならない。でも、文法のテストに答える程度であればあまり難しく考えすぎない方がいい。また、古文の読解のときにも助動詞の用法を厳密に言い分ける必要はない。多くの場合、いくつかの用法の境界にあり、よりどの要素が強いかというくらいの違いである。

 今回は多義をもち、使用頻度の高い「る」「らる」について考える。

 「る」と「らる」は同じで、いずれも動詞の未然形に接続する。「る」「らる」の直前に「a」の音があれば「る」を使い、なければ「ら」を加えて「らる」とする。だから、「走る」に「る」「らる」をつけるときは「走ら(未然形)」に「る」をつけるし、「起きる」につけるときは「起き(未然形」には「ら」を挟んで「る」をつけて「起き・ら・る」となっている。「ら・る」を一語として考えたのが「らる」という助動詞だ。ちなみに、これは現代語の「れる」と「られる」にも共通するが、現代語では「られる」の「ら」を落としてしまう「ら抜き言葉」が普通に使われており、「見れる」「食べれる」に違和感を覚えない人の方が多くなっている。

 この「る」「らる」には4つの用法(これを文法の時間では「意味」ともいう)がある。思い出していただきたい。①自発、②可能、③受身、④尊敬の4つだ。受験生には「自可受尊(じかじゅそん)」とおぼえさせる。なんとなく語呂がいい。印象的な感想で根拠はないがこの順番で使用頻度が高いとも思うからこの暗記法は無意味ではないかもしれない。

 「自発」は<自然と~れる>と訳す用法で、例えば昔のアルバムを開いて、過去のおのれの姿を見たとき、思わず「なつかしいなあ、あの頃はよかったなあ」などと勝手に感情が湧き出すときのことをいう。文法用語ではこれをそっけなく「自発」という。意図しなくてもやってしまうことである。性格上、感情を表す動詞に付属して使われる。「思ふ」「しのぶ」「泣く」「笑ふ」などと組み合わされる。識別するときにもこれが指標となる。

 「可能」は<できる>の意味になる場合だ。ただし、平安時代までの用例のほとんどは打消しの言葉とともに使われるから、実際には「~れ(られ)・ず」の形で出ることが多い。打消「ず」は非常に不規則な活用をするし、打消の意味を持つ後には「じ」「まじ」などの助動詞や「で」という接続助詞もあるので戸惑うこともあるかもしれない。これは打消しとセットになって、自分ではどうしようもできない状況をいうときに使われていたのだろう。自発の逆に当たる。ただし、鎌倉時代以降は肯定文の例もある。

 「受身」は<される>と訳すもので、この助動詞の大切な役割の一つである。訳すときに「~に」という動作主が想定される場合に使われる。「起こさる」は「~に、起こされる」ということであり、この「~に」の意味が必要な場合が受身ということになる。古典ではこの動作主はたいてい生物であり、現代のように抽象的な語が主語になるもの、たとえば「ストレスに苦しめられる」のような例は少ない。動作主がほかでもない自分自身の感情にあるときには「自発」となるのだ。

 「尊敬」は<なさる>と訳すもので、主語が貴人である場合に使われる。おそらく自分とは距離を置いた存在が、自分の意志とは無関係にものごとをするという意味から自発的な意味合いもあり、その動作を直接的な作用を受けなくても影響があるという点で受身的な意味もあるといえる。

 4つの用法はつながっていて実は自分の意志や目的とは無関係に物事が進行するときに起きる感情を表現するときに使用されていたのではないか。実際の用法の中で様々な変化形が生まれ、多様に使われるようになっているのだ。最初にもふれたが文法的意味(つまり用法)はあくまで便宜的な分節に過ぎない。生徒諸君にもこの点を知っておいてもらった方が本当の古典が理解できるようになるのかもしれない。

古典教育に演劇を

古典劇ではありません

 漠然と考えていることを文字にしてみる。今日は(も)自分のための記事になる。

 古典文学を教えるとき、なぜ教える方は面白いと考えるのに習う方はつまらないと思うのだろうか。その一つの原因は作品の背景に関する知識の差にある。知識というと古典常識なるまた学習者を小馬鹿にしたような言い方が思い浮かぶ。常識と言い張る人ほど非常識なものだ。言いたいのは作品からイメージできる情報、情趣の差だ。これは古文を味わう上で大きく影響する。

 古典を読む際に単なる暗号解読にならないようにしなくてはならない。作品をわがこととして読めるように考えるべきだ。それには演劇的な手法も有効だ。推量の助動詞の使い分けをどれだけ実感を伴って行えるのか。それは古語を使って役を演じる中で獲得できる可能性がある。

 私はショートコントで古典を指導する方法を模索したい。できてきたらご紹介していこう。

読むのを見せる

その本おもしろい?

 読書をしない子どもたちが増えている。読解力がとんでもないことになっている。そういった話は世上に溢れている。そして、現実にもそういう人に出会うことが多い。何とかならないかという話をされることもある。

 国語のテストである程度の点数を取るための技術ならばある。しかし、それは生きるための読書力かと言えばあやしい。難関大合格者の中に国語は要領ですよとコメントするのを読んだことがある人も多いはずだ。そういう人の大半は読書を作業と捉え、学び取る力に欠けているように感じられる。筆者に対する敬意も、批判する精神も薄弱だ。

 普段から読書をし、他者の意見を受容し、ときに吟味して批判する人になるためには、やはり子どものころの読書習慣が影響する。子どもに本を読ませるにはどうすればいいのだろう。これも長年の課題の一つだ。

 もちろん課題図書として課すというのは一つの手だろう。しかし、自主的に本に親しむ環境を大人が提供することの方がより大切である。提案したいのはまず大人が読書する姿を見せることだろう。率先垂範はこの話題にも当てはまる。できれば読んだ本の話を聞かせるのがいいが、ただ読んでいる姿を見せることだけでも効果がある。

 電車に乗るとほとんどの大人はスマホを見つめ、そのうちの大半はゲームをしている。次にソーシャルメディアを読む人がいてほぼそれで終わりだ。スマホで読書もできるが、できれば紙面の本で読むのがいい。子どもはそれを見ている。