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狐の役どころ

漢文の授業で「戦国策」にある「虎の威を借る」という件を扱う。虎に捕えられ絶対絶命の狐が、天命によって百獣の王に任ぜられたものと偽ることで危機を逃れるというあの話である。

 弱い者が機知によって強者に勝つという話のように思うが原文に当たると話の目的が異なることが分かる。隣国から送り込まれたスパイのような者がこの話を語るのだが、その中では虎は王の比喩であり、狐は実力者である重臣を例えている。そして、重臣が王の権威を蔑ろにして、自らを王の力を持つものと僭称しているというのだ。王と臣下の信頼関係を貶めるための話ということになる。内紛を狙った工作の話は他にもあるから、その一つであることになる。

狐はあくまでも狡猾な立回りをしたまでで、機知を賞賛する気分はなかった。絶対的な王制の時代に王臣の関係を覆すことが推奨されることはないだろう。現代人が狐を賢い者と捉えるのは、既成権力にも知恵を使えば立ち向かえると考えるからだ。反面、権威に対する敬意を失っているとも言える。

 現代人が社会で行っているのは狐の知恵なのだろうか。

漢文を教える

 漢文は国語の中ではもっともテストで点が取りやすい分野なので、いわゆる受験のための学習者にとっては大切だ。ただ、問題は学習の意義を見出せない人が多く受験のための手段として割り切ってしまえるかどうかで道が別れるようだ。

 ただ、私のような立場のものにとってこの考え方は実に苦々しいものだ。漢文が受験以外に役に立たないとはなんたる謂だ。現代の日本語は漢文訓読の影響を受けて成立している。単語レベルでは、蛇足、傍若無人、四面楚歌、羊頭狗肉など漢文由来のものがいくらでもある。そんな言葉は使わないという人も、完璧は使うはずだ。もっとも完全な壁と考えている人も多いようだが。

 漢文教育不要論者にはいくらでも反論できるが、今回話題にしたいのは漢文訓読のことである。返り点や送り仮名をつけて外国語である古典中国語を無理矢理読んでしまうのは古人の知恵の賜物だ。中国語は日本語とはかなり異なる文法でできている。例えば「無」は「なし」と読んで形容詞のように扱うが、どう考えても動詞の役割を果たしている。下に目的語を置いて、それが存在しないことを表す言葉であり、日本語とは役割が異なる。逆の「有」は「あり」と読んで動詞の扱いだが、どちらも中国語としては同じ役割だ。漢文訓読は本来全く異なる言語の構造を巧みに乗り越える工夫がなされている。

 この芸当ができるのは表意文字である漢字を共有しているからである。英語に訓点をつけてもさっぱり分からないのは、literatureが文学だということが直感的に悟れないからだ。文学なら少なくとも文に関する学びだと想像できる。

漢文訓読は異文化をどう消化し摂取するかを体現したものとして日本文化理解に欠かせないものだろう。変化することは変化しない日本文化の特徴の一つとして知っておいて損はない。テストなんかに出すからその価値が分からなくなると実は言いたいのだ。もっとも出題しなければますます学ぶ人が減るのだろうが。

自分事として読む

 いわゆる読解力というのは書かれていることを自分の問題として捉えられる力ではないか。単に字面を追っても意味は分からない。さらにもう少し文法的な理解ができていたとしても、結局他人ごととして捉えている限り、書かれていることの意味はつかめないということだ。

 国語が苦手という人にするアドバイスの一つに、読んだことを自分の言葉で誰かに話してみてほしいということがある。これは実はかなり難しい。筆者が書いたこと自体は複雑で多岐にわたるメッセージであり、その論述にたどり着くまでの幾多の苦難を乗り越えた結晶なのだから無理もない。ただ、難しいことをそのまま丸呑みしようとしても、結局理解できなことにはならない。

 そこで完全は無理として自分はこのように読み取ったということを自分なりの表現でまとめ直すことを進めている。私の授業ではノートのページの半分をあえて開けさせて、授業内容を聞いたあとにそれを自分の言葉に直す欄として指定している。これを繰り返すことで理解は深まる。注意しなくてはならないのは教師なり、講演者の言葉そのものを羅列したり、矢印などを使って図式として書くのではなく、あくまで文章にすることだ。できれば誰かほかの人に読んでもらい意味が通じているか確認してもらうとなおいい。

 この作業をするためには読みを自分事として行う必要がある。他者の文章なり話を自分のことばの文脈に置き換えて新たに表現し直さなくてはならないのであるから。単なるコピーアンドペーストでパッチワークのような文章を書くのとは違う。読解力を高める方法としてはこれが手っ取り早い方法だ。全く同じことが、社会人向けのノートの取り方という種類のベストセラーにはたいてい書かれている。ノートは写すものではなく、自分の考えを定着させるために文章をまとめ直すものである。

AIで文章表現の評価はできるか

 生成AIを私はある程度使う。ただ、私の使用領域に関してはAIの能力はいまだ水準以下でそのままでは使えない。例えば古典文学に関する内容は眉唾物というより虚偽と言えるものが多く、使い物にならない。開発に日本人が関与しないとこういうことになる。

 教育界では生徒に人工知能を使わせることについて批判的な人が多い。ただ、教員が勤務時間の短縮のためならば活用すべきだと考える。たくさんの解答に採点だけではなく機械の力も借りなくてはならない。

限られた時間で採点し、返却まで済ませるのはAIの活用が待たれる。いまのところその水準にはないが近いうちに文章の評価や添削までやってくれる機械が生まれそうな気がする。このとき大切なのは適切に指示ができる国語力なのだろう。機械任せにするためにはその機械よりも豊かな言語環境が必要だ。

読み上げアプリの間違い

 動画サイトなどでしばしば読み上げアプリを使う例がみられる。その中でかなりの確率で読み間違いがあるのは残念だ。文字入力をするだけで読みの検証を怠っているのだろうが、もしかしたら発信者自身が読み方を知らないのかもしれないと疑っているのだ。

 入力された文章を音読する機能はほとんどのコンピューターで実行可能だ。OSに備わっているものが多い。ただ、それは意味とは無関係に文字を音声化しているので、文脈に応じた読み分けはできない。「いきもの」も「せいぶつ」も「生物」と表記できるが、明らかに使用の場面は異なる。表音と表意のハイブリッドである熟語は意味が分からないと読みが決まらない。

 現段階の読み上げアプリにはその判断ができないらしい。ならばそれを作った人間が読み分けを指示するしかない。それができていないのかもしれないのだ。現在の情報環境では文字を自ら書いたり読んだりする機会が減っている。読み間違いは他者とのコミュニケーションを通じて訂正される。その機会が失われると修正ができないのだ。

 憎悪は「ぞうお」であり、険悪は「けんあく」だ。この使い訳ができなくなっている。もっとも、輸入は本来「ゆにゅう」ではなく「しゅにゅう」だ。詩歌も本当は「しか」だったのが「しいか」と読まなければ間違っているといわれてしまう。傑作なのは捏造が「でつぞう」なのに「ねつぞう」だとされていることで、これこそ捏造そのものだ。読みは不安定なものなのだが、それでも最近の読み上げアプリの読み間違えはひどく、若い世代の国語力をさらに低下させてしまっている気がする。

言い換えのための練習

 「~とはどういうことか」という設問は現代文では最も基本的な形式だ。これは傍線部の意味を別の言葉で置き換えて説明せよという要求である。答え方にもいくつかの段階があり、最も基本的なものは傍線部以外の本文の中から、言い換えにふさわしい部分を切り取ってきて形を整えて答えるというもので、一種の抜き出しに近い。この方法が使えないときがある。抽象度が高くて抜き出しでは何を言っているのか分からない場合や、逆に具体例しかない場合も抜き出しでは対応しにくい。そういう時は本文で使われていない語句や表現を使う必要が出てくる。字数が制限されている時もそういう必要が出てくる。

 つまり、言い換えのレベルが幾層かあり、その深層に達するものを解く力が必要なのだろう。そのためには語彙力、文法力、表現力などのあらゆる文章力が求められる。その準備として中学生あたりから、意識して言葉の置き換え練習を始めるべきだろう。今の世代の若者は検索すれば答えが見つかるかのような幻想を持っている。その意味では問と回答が一対一になると考えられており、みずから答えを作り出す作業が飛ばされていることが多い。そこで、まずは自分の力で何とか言い換える練習を積ませることが必要だろう。

 一歩目は要約という作業だ。文章の中で意見と具体例とを分け、意見の部分をつなぎ合わせて文章を短くするという基本から始める。字数を制限せず、自由に書かせるところから、徐々に字数を絞っていく。短くなると文中の言葉のパッチワークではうまくいかなくなる。そこで、同じ意味で別の言葉に置き換えさせる練習が次に続く。そして最終的には100字以下にまとめ、さらには1行の短文にまでする。こうした練習を続けていくうちに置き換え能力が鍛えられてくるだろう。

 要約する力は日常的な生活でも必要だ。最近は人工知能も要約の機能がある。このWordPressにも本文要約機能がある。かなりのレベルで要約をしてくれる。ちなみにここまでの要約をさせると以下のようになっている。

現代文における「言い換え」の重要性が強調されている。基本的な言い換え手法の紹介に加え、抽象的な表現の理解や語彙力の向上が求められる。特に言葉の置き換え練習は中学生から始めるべきで、要約能力も日常生活に役立つ。

 二番目の文は少々あやしいが、大筋は一応できている。ただ、おそらく要約の生成の方法は人間のややり方とは異なるのだろう。我々は意見と用例を分けて考えるが、人工知能は意味に踏み込まず形式的な面から不要なところを丸めているようだ。この人工知能にできない能力こそ国語力の本質であろう。これからの国語能力はここに注目する必要がある。

自分のことばで語る

 自分のことばで語る力はこれからますます必要になる。もっともことばほ本来他者との交換によって成立するから自分のことばというものは厳密にいえば存在しない。他人と意思疎通可能な中でいかに自分なりの工夫ができるかということになる。

 こういうことをいうと必ずもはや人工知能が文章を書く時代だからという人がいる。よく考えてほしい。文章を書くためには他者の書いた文章を理解できることが必要であり、他人の話を理解する力が不可欠だ。機械任せにすれば文章は書けなくなるし読めなくなる。その負のスパイラルが繰り返されれば、私たちの精神生活は貧困に陥る。

 だから、いかに下手であっても自分で説明することは必要なのだ。そのためにはたくさん話し、書く経験を増やさなくてはならない。しかもそれは阿吽の呼吸では伝わらない相手に対してである。

 教育の現場にいる身として直ぐにできることは生徒のアウトプットを増やすことだ。その型を教え、さらにその上で自由に語らせる。性急に正解を求めず、生徒個人内での完結性、生徒同士の意思疎通を重視する。そんなところだろうか。ことばは思考の基本的な材料だ。教育をおろそかにしないことがこの国、世界のためになると信じている。

生徒は手書き、教員は…

 先日も書いたが生徒の国語力を上げるには究極的には手書きの文章作成をいかにさせるか。そして、それを継続的に実施し、指導するための評価を行うかにあると考える。デジタル機器の教育への導入で間違っているのは、特に国語教育においては「書く」ことを疎かにしたことにあると考える。

 私たちの身の回りにはもはやスマホやキーボードがなければ文章が書けないという人が少なからずいる。紙に書くという行為が億劫だからという理由以前に、考えたことを順序だてて文字にしていくことが難しくなっているのだ。デジタルであればテンプレートがあるし、語彙レベルでは予測変換もする。また人工知能を使えば文章すら組み立ててくれる。マイクロソフトは「下書き」を手伝うという設定にしているらしいが、実際にはほぼ完成形の文書とみてそのまま使う人も増えているのではないか。そうなるとますます文章が書けなくなっていく。

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 ならばどうしてもデジタル入力をせざるを得なくなる大学生になる前に、初等中等教育では徹底的に手書き文章を作成する訓練を積むべきである。これが冒頭に述べたことである。インターネットで資料を検索したり、図表を作成したりすることは機械任せにしなければならないこともあるだろう。しかし、文書作成能力に関しては譲ってはならない人間の能力である。

 そこで問題になるのが、教員側のこの教育に対する対応である。生徒から大量に提出される紙の答案にいちいちコメントを書き入れ、改善点を指摘していくのにはかなりの労力が要る。例えばそれを学期に一度やるとか、月一度は実施するといった程度でも負担感は大きい。そこで外注するという方法が出てくる。でもこれでは返却までに時間がかかることや、家庭にさらなる出費を要求することになり問題点が大きい。

 解決案として考えているのは教員側の方はデジタル化で対応するということだ。答案をスキャンし、その上にデジタルで書き込む。コメントはある程度使いまわしも許容し、観点を決めて評価する。そして、それ以外は見ないことにする。例えば、今回は主述の一致をみると決めたら、それ以外の内容的な面は多少目をつぶって採点する。逆に、表現面の工夫については問わずに着眼点だけを採点するといったようにメリハリをつけるというやり方だ。もちろん表現と内容は相関するので結局両方を評価することになるだろう。

 また例えば400字以上の作文の添削を継続的に行うのは無理だとすれば、200字以下の文章を書かせる課題を続けることも手である。目的は文章で答えることを習慣化させることなのだから、添削の正確さは実は二の次なのである。大切なのは練習を続ければ文章作成がうまくなっていくことを実感させることで、単なる点数化ではない。

 生徒にはあくまで手書きで書かせ、教員はデジタルの利便性を使う。この方法を実現するためにはスキャナーや、タッチペンで入力できるシステムなどが必要だが、生徒の国語力向上を考えればやるべき投資ではないだろうか。生徒が端末を持っているならば、教員の添削結果をデジタルで返却するのでもいい。できれば紙に出力した方がいいが。

 ちなみに私も手書きの文章能力の衰えを実感するものとして、ブログを書く前にノートに書きたいことを殴り書きすることがある。この記事もその末に書いたものだが、原型とは全く違う内容になっている。でも、自分の脳と手だけで書くことを先行することには意味があると確信する。

要約する人工知能

 最近のアップデートでウェブメール送受信のアプリに内容要約の機能がついた。そのことに気づいたので、試しに使ってみると、そこそこ使える。会話体のくだけた文体でも、要点をまとめていた。人工知能にとって要約することはある程度は可能らしい。

 でもそれは、明確な目的意識をもって多くの人が考えそうな結論の文の場合であって、感情の揺れや細かな情緒が含まれると誤読してしまうようだ。当たり前だが機械は文面通りに解釈する。批判精神やアイロニーなどが隠喩などを通して書かれるとそれを逆方向にまとめてしまう。

 そこで国語の教員的には、曖昧な表現を避け、明確な文章を作成しましょうということになる。現代の場面に合わせるなら、AIに誤読されるような文章はいけない。簡潔にして明解、誰にでも理解できる文をかくのですと。

 密かにもう一人の自分が立ち上がる。誰にでも分かる文章なんて価値があるのか。その人しか書けない味わいこそが大切だ。それが書けなくなったらいよいよ人間なんて要らなくなるぞと叫んでいる。ただし声のない叫びだ。

 文章には色々な目的がある。用件や意見を伝える文章はその第一だ。でも、それだけではない。不定形で捉えどころのない感情を何とか言葉にして表すのも文章だと思う。それを忘れると文章は作業のためのプログラム言語に近づくのではないだろうか。容易に機械で要約できない文章にも価値があるといいたいのである。

注の話

 現代文の問題を解く際に、本文を読む前に注を読めというのは受験生にとっては常識のはずだ。もし知らなかったら今からそうすべきである。

 注は何のためにあるかといえば、それを理解できなければ設問に答えることができないだろうと、出題者が考えた上で付けている。だから、逆に言えば注は解答へのヒントなのだ。

 そのような視点で問題を見直して欲しい。何でこのような注釈が必要なのか。大体それは設問の主旨と絡んでいる。論文や文学書の注は、本文に盛り込めない脇の知識であったり、自説以外の考え方の紹介であったりする。だから、大抵の場合、注を読まずに読み進められるし、読むとなかなか本文の読解が捗らない。だが、現代文の問題の場合は逆で、注を読まなくては本文が読めなかったり、作問者の意図を取れないことがある。

 一冊の本を読破するのと現代文の一問を解答するのは、読解力が必要とされる点では共通するが、実際の作法には大きな違いがある。大して読書量がないのに国語の問題はできるという人はこの点が分かっているか、問題読解に偏った才能を持っているのかもしれない。