先日も書いたが生徒の国語力を上げるには究極的には手書きの文章作成をいかにさせるか。そして、それを継続的に実施し、指導するための評価を行うかにあると考える。デジタル機器の教育への導入で間違っているのは、特に国語教育においては「書く」ことを疎かにしたことにあると考える。
私たちの身の回りにはもはやスマホやキーボードがなければ文章が書けないという人が少なからずいる。紙に書くという行為が億劫だからという理由以前に、考えたことを順序だてて文字にしていくことが難しくなっているのだ。デジタルであればテンプレートがあるし、語彙レベルでは予測変換もする。また人工知能を使えば文章すら組み立ててくれる。マイクロソフトは「下書き」を手伝うという設定にしているらしいが、実際にはほぼ完成形の文書とみてそのまま使う人も増えているのではないか。そうなるとますます文章が書けなくなっていく。
ならばどうしてもデジタル入力をせざるを得なくなる大学生になる前に、初等中等教育では徹底的に手書き文章を作成する訓練を積むべきである。これが冒頭に述べたことである。インターネットで資料を検索したり、図表を作成したりすることは機械任せにしなければならないこともあるだろう。しかし、文書作成能力に関しては譲ってはならない人間の能力である。
そこで問題になるのが、教員側のこの教育に対する対応である。生徒から大量に提出される紙の答案にいちいちコメントを書き入れ、改善点を指摘していくのにはかなりの労力が要る。例えばそれを学期に一度やるとか、月一度は実施するといった程度でも負担感は大きい。そこで外注するという方法が出てくる。でもこれでは返却までに時間がかかることや、家庭にさらなる出費を要求することになり問題点が大きい。
解決案として考えているのは教員側の方はデジタル化で対応するということだ。答案をスキャンし、その上にデジタルで書き込む。コメントはある程度使いまわしも許容し、観点を決めて評価する。そして、それ以外は見ないことにする。例えば、今回は主述の一致をみると決めたら、それ以外の内容的な面は多少目をつぶって採点する。逆に、表現面の工夫については問わずに着眼点だけを採点するといったようにメリハリをつけるというやり方だ。もちろん表現と内容は相関するので結局両方を評価することになるだろう。
また例えば400字以上の作文の添削を継続的に行うのは無理だとすれば、200字以下の文章を書かせる課題を続けることも手である。目的は文章で答えることを習慣化させることなのだから、添削の正確さは実は二の次なのである。大切なのは練習を続ければ文章作成がうまくなっていくことを実感させることで、単なる点数化ではない。
生徒にはあくまで手書きで書かせ、教員はデジタルの利便性を使う。この方法を実現するためにはスキャナーや、タッチペンで入力できるシステムなどが必要だが、生徒の国語力向上を考えればやるべき投資ではないだろうか。生徒が端末を持っているならば、教員の添削結果をデジタルで返却するのでもいい。できれば紙に出力した方がいいが。
ちなみに私も手書きの文章能力の衰えを実感するものとして、ブログを書く前にノートに書きたいことを殴り書きすることがある。この記事もその末に書いたものだが、原型とは全く違う内容になっている。でも、自分の脳と手だけで書くことを先行することには意味があると確信する。