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膜のような

 言葉にならないのだが、私の最近の日常は何か膜のようなものに覆われている気がしてならない。直接触れることができないし、その介在物によって実体が歪んで見えている。

 その膜がどこにあるのかは分からない。実体に貼りついているのか、空気中にあるのか、あるいはソフトコンタクトレンズのように感覚器を覆っているのか。分からないがどこかにそのようなものが存在していると感じている。

 もちろん、これは文字通りの錯覚だ。そんなものがあるはずはない。誰がなんのためにそんなことをするのか説明がつかない。それでもやはり何かを感じている私がいる。

英雄中毒

 トランプアメリカ大統領のパフォーマンスを英雄信奉精神の表れと評す人がいる。コロナウイルス罹患を敵に見立てそれを克服したかのように見せかけるスタンドプレーに辟易した人も多いだろう。ただこれはアメリカ人の基本的な思考の一つであり、個人の問題ではなさそうだ。

 英雄は危機的状況においてもっとも目立った仕事を行う。逆境に負けることなく、力技で形勢を逆転する。弱みは見せず立ち向かう姿勢こそが英雄の資質なのだ。その結果、多くの人が救われることになる。

 ただ、英雄は正義の名のもとに破壊行為も行う。正義の行動に巻き込まれて死傷した人は尊い犠牲なのだ。場合によっては彼らも英雄チームに加入させられ、不合理な結末が隠蔽される。そして多くの人がそれに見事に騙されてしまうのだ。

 アメリカは英雄信仰が強い国民性を持っているのかもしれない。少なくともそういう思考経路をとる人が一定数存在する。ただこれはアメリカだけのことではない。呼び方は様々であっても、英雄信奉の考え方はどこでもあり、多少の濃淡はあるが、共通するのは自己目的達成のための犠牲を無化しようとする発想だ。

 かくいう私もヒーロー好きな子ども時代を過ごした。今でも心躍るものがある。ただ、最近はウルトラマンが怪獣退治のためにどれほどの建物をなぎ倒し、何人を踏みつけて圧死させたのかが気になるようになっている。

見たいものしか

 見慣れた風景を何らかのきっかけで写真にとり、後から見直してみると思わぬ発見があることが多い。毎日見ている風景にも関わらず、ここにこんなものがあったのかと発見し驚いてしまう。

 私たちの知覚は多分に選択的で自己中心的だ。結局気になるのものしか見ていない。視角に入っても意識されなければ映像として感知されない。

 絵を描くときにそれを実感する。描きたいもの以外は省略してしまう。あるいは描きたくないものは意識から抜けているといった方が事実に近いかもしれない。見えているのが風景なのではなく、見ているのが風景なのである。

 このことを考えると、視覚による記憶というものがいかに恣意的なものであるかを再認識できる。百聞は一見に敷かず、されど真実にはあらず、である。

視覚

 見た目で人は判断され、第一印象は大きな影響をもたらす。いろいろな機会にそのような内容の言説を耳にする。経験上もそのようなことは確かにある。

 だが、視覚は見事に騙されることもある。いわゆるフェイクの技術は日進月歩であり、厚化粧はリアルだけでなくバーチャルの世界でも容易にできるようになった。デジタル加工に一定の時間がかかっていた頃はまだ身構える余裕もできた。それがリアルタイムで行われるともう区別はつかなくなる。

 自分の皮膚の上にホログラムを貼るデジタル化粧を幻想してみた。スイッチを入れると自分の容姿が瞬時に変わるという夢だ。肌の状態だけではなく、部品のプロポーションまで変更可能だとすれば、もはや変装そのものである。世界に美男美女が溢れ、おかしなキャラクターが歩き回る。そんな妄想だ。

 そういう事態が一般化したあと、私たちの視覚に関する概念はどうなるのだろう。百聞は一見に如かずが通用しない時代はすぐそこに来ている。

避難

 避難訓練の後の講評で同僚の教員が話したことはかなり印象的なものだった。哲学に達するものかもしれないと感じた。

 津波のような差し迫った脅威が予測できるとき、人はいかに行動すべきだろうか。テンデンコという教えはまずおのれを守れということと理解している。いくら肉親を救うためといっても引き返してはいけない。失う命が倍になるだけだという訳だ。それも正論だ。

 ただ、ごくわずかな可能性にかけて人命救助に走る人は愚かなのだろうか。無謀という括りで纏めてよいものだろうか。それには大きな疑問がある。

 容易には決められない選択を私たちはいつも迫られている。正解は分からない。

見え方

 自分の視覚や聴覚を真実の姿と考えるのかについては太古から議論があります。人によって感覚に微妙な差があることが証明されるようになると、この議論は様々に展開されました。

 たとえ物理的身体的な条件が同じでも対象をどのように捉えるのかは均一にはなりません。個人の経験に加えて文化的なバイアスも加わるために感覚は無垢ではありえないのです。

 そもそも私たちは過去の経験と照らし合わせて現実を認識しており、その時点で皆が同じものを見ることはほぼ不可能であるといえます。ことばの力によって、実は多様な現実をいくつかにまとめあげパン、小異を捨てて共通項を見る習慣を獲得したために混乱は起きません。

 ただ、見えているものが違っているという事実は忘れてはならないことであると常に思い返しているのです。

考える基準

 自由に考えてもいいと言われても私は困惑するばかりです。自由に考えるというのは無から何かを生み出すくらい難しい。

 何かを考える基準として例えば宗教的な知の枠組みとか哲学者の言葉とか、歴史的事実とかは確かに役に立ちます。さらに身近な人たちの言葉も大きく影響しているのは事実です。

 なんらかの基となる言説があって私たちは自分の考えをまとめることができる。まとめるまでは無数の試行錯誤の繰り返しです。それをある言葉にまとめあげたときに、さらなる命名前の体験に挑戦できるようになるのでしょう。

すべて一期一会

 自らの体内組織が刻々と変化している現実を考えるならば、感知した現実もまたその時限りのものということになります。すべてのものが一期一会なのです。

 自分という視点が不動の座標軸の原点であると考えることができれば、かなり単純な数式で世界が捉えられるかもしれません。また日常的にはそのように考えています。時空を目盛において起きた現実を同一の平面に投影しようとします。大体のことはこれで事足りるのです。

 ところが実際は原点自体が常に移動しており、揺れながら対象を見ているのです。手ブレを補正するカメラのように巧みに対象を見続けてもその限度を超えるともはや同じものを見ているともいえなくなる。私たちの見ている世界はこのように変動的なのです。

 変わってしまうことを前提として物事を捉える視点を私たちは常に忘れてはなりません。昨日そうだと確信しても明日は違うかもしれません。そういう心の余裕と、世界観はこれからの現実を生きる上でかなり重要だと感じるのです。

色のイメージ

 国旗に使われる色にはそれぞれ込められた意味があるといいます。フランスやイタリアなどのように色彩に託されている意味が深いものはそれを知ると強い説得力を示します。

 ただ色彩が惹起する印象が民族によって異なるのも確かです。欧米の一部の民族では緑に嫉妬心を読み取るのだそうです。この感覚は私にはありません。見ているものが同じでも感じることは異なるという事実はいつも意識していなくてはなりません。

 色の分節についても共通していると思いこんではいけないようです。日本の古代では青の指す範囲はいまより広いようですし、虹が何色かという国際比較にも興味深い結果が出ています。通時的にも共時的にも色彩の区分は様々です。細かいことを言えば色覚の個人差も考える必要があります。同じ世界を見ているというのは幻想なのかもしれません。

 色分けは日本語では分類そのものを表す言葉でもあります。その色分けが極めて個人的な判断によるものである事を再認識しておきたいのです。

変わらないことへの感動

 一つの仕事を実直に続けている人をみるとさまざまな感慨に包まれます。どうしてかくまで情熱は絶えることがないのか。何が彼を動かすのかと。

 一つのことを継続することは年々難しくなっています。社会の変動が激しく、その影響に飲まれてしまうからです。とどまりたくてもとどまれない、大きな流れの中に私たちは置かれているのです。だから変化しないのは停滞ではなく、かなり能動的な行為であることになります。

 変化していないかのように振る舞い、変わらないための懸命の努力を怠らないことこそ、人を感動させる何かを醸し出す源泉なのかもしれません。