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外見と中身

 自分のことをよく分かっていないことが私にはしばしばある。自分がどのようにみられているのかは結局のところ自分ではわからない。だから、自分像は想像の産物だ。その想像が現実と食い違うことがこの原因である。

自分は他人にとっては他人である。自分が他人のことをある印象でとらえるように、自分もまた誰かによって特定の印象で捉えられている。それがどのようなものなのかは分からない。自分の存在を意識するのは、他人に見られているときである。人前だと緊張するのは、他人の目があることを意識することで強く自己を意識するからだろう。その意味では他人に見られることで自分というものができあがるといえる。

鏡に映ったあなたは誰

脳科学の世界には鏡像認知と呼ばれる考え方がある。鏡に映った自分の姿を自分だと認知する能力のことである。人間の場合2歳児になるとこの能力が備わるのだという。逆に言えばそれ以下ならば鏡に映っているものが何者かわからないということになる。脳の発達とともに、おそらく他者とのふれあいの中で自分を認識できるようになっていくということなのではないか。

 鏡に映った自分を、これは自分だと認識し、今日はさえないとか化粧のノリがいいとか悪いとかいう場合、その映像を自分としてとらえるとともに客観視していることになる。鏡に映った像を別の鏡が映しているのを見るとさらに話は複雑になっていく。自分は何者かに写されることによって存在感を増すが、それを観察している自分はその実態を客観的にとらえている。

自分を客観的にとらえるということは実際の自分を別の自分が描写することなのだろう。すると、その描写の仕方によって自意識が変わってしまうことになる。私がしばしば味わう、思っている自分と実際の自分の大きな違いはこんなところに原因があるのだろう。

名付けの効果

 ものに名をつけることは対象の分節化であるが、今回はその話ではない。つけられた名前が対象の捉え方に大きな影響を与えることを再認識したという話である。

 例えば植物名などが分かりやすい。特定の形状と生態をもつ花に、名前をつける行動は命名者の恣意的な選択によるものだ。しかし、それが認められ、権威を有するものとなるとその名を基準に対象が見られることになる。そしてそれが定着するともうその印象は揺るぎないものとなる。

 ある本で読んだが、日本各地にもっとも多く分布するウグイスは、小笠原諸島だけに生息するハシナガウグイスの亜種なのだそうだ。分類上は離島に棲む少数派の方が上位にあり、我々が普通春告鳥としてもてはやす雅語ともいえる鳥の方は下位に位置する。学名ではそれがはっきりとわかるのだが、通称では逆に思える。名付けというのはこんなふうに対象の見方を変えてしまう。

 だから対象を見つめるときには名前を頼りにしすぎてはならない。まずはそのものに向き合わなくてはならないということだ。当たり前のことなのにこのことを私はしばしば忘れる。

確かに私は

 世の中が何でも数値化できるという幻想をどうして多くの人々が信じているのだろうか。数は大小を顕在化できるので、対象を比較し序列化できる。どちらが優れていて、また劣っているかなどが可視化できるのだ。

 ただ、こうしたものさしの危うさは誰にもすぐ分かる。ある数値が良いからと言ってそれが絶対的に素晴らしいとはいえない。基準が変われば序列など簡単に変わってしまう。ところが、ものさしを設定した人に権力がある場合は厄介だ。そのものさしの中で設定者は絶対に損はしない。そしてそれに従う一般人は見事に序列化され苦楽を味わうのである。

 私たちが優劣を感じているものの大半はこうした権力者が設定したものさしによっている。知らないうちにそのものさしに見合う価値観を強いられ、その枠組みで生活することになる。

 こうした考え方では結果的に自分の生き方を生きられない。他人が設定した尺度に従って、そうかもしれないという感覚で生きる。

 大抵はこれで何とか生きられる。中には幸福に過ごせる人もいるかもしれない。自分を消滅させることに成功すれば、他者の用意したよくできたルールに従う方が遥かにスマートに思える。でも何か違う。

 違和感に気づいてしまえば後戻りは難しい。いつまでも他人の価値観に従ってはいられない。とりあえず独自のやり方を模索する。そしてそれは簡単ではない。しばしば挫折する。それなら既存の価値観に戻ろうかとも考える。

 確かに私はこう考えましたということは意外にも難しい。

時間の長さ

 時間の長さの考え方は非常に相対的なもので、同じ1分が長く感じる時も短く感じることもある。これは若い頃の時間は長く感じ、歳を重ねると短くなるというのもある。しかし、私のように毎日をいい加減に過ごしているとかなり短く感じてしまう。気が付いたらもう何時間も経っていたということがある。

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 時間の感覚は様々な要因の複合のもとに決まるようなので一概には言えないが、一つには時間という概念をどのように意識しているのかが関係していることは言えそうだ。時間がないと焦っているときは時間は短く感じる。また、散漫になり、意識がもうろうとしているときも時間は速く過ぎる感がある。逆に時間以外のものに気持ちが傾いているときにはなかなか過ぎない時間を悩ましく思うこともある。やることが多すぎて、しかもそれがなかなか終わらない場合も時はゆっくり過ぎる。

 絶対的な時間を計る時計を常に身近に置きながら、このような柔軟な時間の概念を持っている事実を考えると、おそらく哲学的には時間は絶対的なものではないのかもしれない。

 

法則を見つけたがる本能

 人間らしさの一つに物事の関係性を考え、そこに一定の法則性を求めると言うことがある。普遍的な法則があることを期待してそこに何らかのルールがあると考えるのだ。これは人間の癖というしかない

 本当に自然界にルールがあるのかは分からないが私たちは自分たちの利益のために、何らかのルールを作り、それに従おうとする。法則性を発見すればものごとがスムースにすすみ、失敗がなくなると言うのだ。科学の基本もそういうことにあるはずだ。

 人間の能力で考え出したもっとも可能性の高い考え方が、数学の方法を使って法則という形にまとめられる。科学者の解くそういったものは現代社会を作り上げている根本的な要素だ。絶対的なものでその意味では神に近い。

 ただ、哲学者や一流の科学者はそれを認めた上でさらに俯瞰的立場で語る。現在、絶対的なものと考えられているものも様々な条件下に限定されたものであり、実は違う姿をしているのかもしれないというのだ。その立場では暫定的にいま法則として成立しているものを我々は前提にしているのに過ぎないということになる。

 本当は何があるのか予測もつかないのが真実のあり方かもしれない。素数の分布がいまだに数式で表せないのと同様に、この世の中の大半はそんなに簡単にはまとめられない。でも、仮にまとめてみることでカオスの恐怖を乗り越えてきたのだろう。

足るを知る者は富む

 景気の話であまりいいことはない。正確にはうまくいく人と、いかない人に分かれつつある。問題は後者の方が多そうだということだ。

 個人的には多少つつましく生きる方がいい。今の生活は何でも手に入りそうな気配は見せるが実際には手が届かないということが多い。だから無理して買い求めて貧しくなっていく。これは現代社会が仕掛けた巧妙な罠なのだろう。

 子供の頃を思い出してみると、必ずしも満たされていなかったのにも関わらず、何かがなしとげられたときの喜びはとても大きかった。そして何かが足りないときは自分で代替品を作った。それもブリコラージュで大体は済んだ。見た目は悪くても本人にとっては素晴らしい宝物になっていた。

 へたに安価な既製品が手に入るようになってその努力をしなくなったのは残念な展開だ。ただ、一度金を出せば買えることを知った者は、すべての幸福の素を財力に求めようとしてしまう。そして、いま経済の不調が多くの人々を貧しくし、貧しいのにかつての財力第一主義から抜け出せない。

 

足るを知る者は富む

 貧すれば鈍する現状から脱するにはどうすればいいのだろう。古人は貧の中に楽を見出すことを勧めている。物質ではなく、精神的な楽しみを見出そうとするのである。足るを知る者は富むとはよく言ったものだ。これからの生き方は足るを知ることを目指すことにしたい。

熟考すること

 何かをするときにその意味を深く考えるということは大切だ。意味を考えずにやることはときに大きな失敗を招くばかりか、周囲に多大な損害を与える。それは分かっているが実際には考えずに行動することの方がはるかに多い。

 意味を考えていたら行動に移せない。出遅れれば制せられる。そこで受ける損失を恐れて考えずに行動してしまう。中には習慣化して行動を半ば自動化していることも多い。訳を考えずに行動することは仕事をこなすスキルともみなされている。

 でもやはり、時々立ち止まることが必要なのだ。無批判に他人の言われるがままに過ごせば、いつか悪意のあるものに操られるかもしれない。そのような前例は歴史の中でいくつもある。沈思熟考のときを設ける必要がある。

死の意味

 死の意味を理解することは難しい。死の痛みは概念的ではなく経験的なものだ。しかも自分の死は経験できない。あくまで他人の死をもってその痛みを知るに過ぎない。

 人の死はいつも悲しいかといえば必ずしもそうでもない。ニュースで報道される赤の他人の死の報道で悲嘆に暮れることはない。死者多数の報道を視聴しながら私たちは普通に食事ができる。だがたった一人の死でも肉親や親しい人の死となると茫然自失となる。死の感じ方には死者との関係性が大きく関与する。

 だから、人生経験が少ない若い世代に死の意味を考えさせることは意外に難しい。すぐに死ねと口走る彼らに本当の死の意味は分かっていない。いや年齢の長幼ではない。本当に死の意味が分かるのは自分の死の直前であり、大抵の場合その意味を他人に伝えることはできない。

 私自身も人生の最終コーナー近くにいる(と思われる)くせにいまだに死の意味を納得していない。恐らくそういうものなのだろうという推理は少しずつできるようになってはいるが。

 若い頃に自分の死の場面を漠然と考えたことがある。その大半は外れ、運良く今日まで生きている。この先は分からない。明日かもしれないし10年後かもしれない。ただ確実に近づく死時を想像可能になった今、死の観念はかなり変わって来たのは事実だ。

 若い世代には言いたい死とは難しいものだぞ。

古典教育不要論者の気づかないこと

 古典教育に対する批判には伝統的なパターンがある。そんなことをやるならばもっと実用的なことをやったほうがいいという考えだ。これをかなりの学識者がいうから騙されてしまう。

 古典不要論者は自らの意見が古典の知識でできていることに気づかないか敢えて無視している。古典を学ばずに過ごせば実用的な人間になれるだろうか。プログラミングを教えろという人は、おそらくそのスキルを習得するのに苦労したのだろう。そして成功し、もっと早くからやっていればよかったと考えたのだ。投資などの金融スキルを子どものときから教えろという人もいる。さぞかし儲かっているのだろう。

 気をつけなくてはならないのは、プログラミングもファイナンシャルスキルも年々習得しやすくなっており、何も小中学校で教えなくても十分にものになるということだ。こういうやり方が決まっているものはコンピューターに代替されていく。

 人工知能の発展は答えのある問いの処理には人間は敵わないことを痛感せしめている。大事なのは非定型かつ意味のある情報をどれだけ持つかであろう。古典文学や歴史から学ぶことは多義性を持つ曖昧なものが多いがそれ故に大切な思考の材料となるものだ。それを学ぶのを止めようというのは自ら進んで機械の配下に降ろうと言っていることと変わらない。いい加減にこのことに気づくべきだ。

相対的

 誰かと比べることに慣れすぎている私は、勝手に基準を設けて自分の幸福度を決めてしまうことがある。こういう相対的価値観はおそらく人間の本性に属するもので私だけの問題ではないだろう。

 ただ、こうした窮屈な評価基準から抜け出す方法はないのだろうか。人を羨むのでも自分が奢るでもなく、必要なものを必要なだけ所有し、消費する。そういう生き方に魅力を感じている。

 できれば余裕がある方がいい。その余剰は周囲に分け与えるのが理想だ。いまはいつ破産するのか分からない恐怖を感じながら、毎日を徒労感とともに送っている。それも分不相応の何かをしようとしているからではないか。

 相対的幸福感から抜け出すための試みを少しずつ始めてみよう。これは禁欲ではない。やりたいと思うことはやるが、やらなくてもいいことは無理にやらないということなのだ。