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止まっていると

 最近できなくなったと感じることに沈思黙考がある。かつては私の得意な思考法でこれでいろいろなことを解決してきた。雑音から隔絶してひたすら自分の世界に引き篭もる。それによって新しい考えが生まれ突破口が見えてくる。そんな経験を何度もしてきた。






 しかし、最近はこれが機能しない。まず沈思黙考できるだけの体力と気力が欠けているのかもしれない。世間から隔絶するとすぐに睡魔が襲う。慢性的な睡眠不足と極度のストレスの蓄積が集中力を一気に奪い去る。だから、最近は気づいてきた。私には一人でじっくり考えることはあまり期待できないと。

 ならば、雑音の中に身を晒して、その中でアイデアを捻出するしかあるまい。人真似なのか、オリジナルなのかよく分からないが、とにかく考えたことを言葉にして、運がよければ理論化する。この方法で何とか生き残るしかあるまい。じっくり考えればいい考えが浮かぶという段階を私は過ごしてしまった。流れに身を任せてその中できらめくものを掴み取るしかないのだ。

 集中力が保てないのは自覚のなさのせいだと考えてきた。それもあるが、それ以上に自分の能力的な問題もあったのだ。ならば先に進むしかない。衰えた集中力を補いそれ以上の実績をもたらすための行動だ。私はそれを妄想ができる力と考えている。根拠のない空想をどれだけ言語化できるのか。それが私に残された善後策である。突飛なことを臆せずいう。それが老兵の戦い方と心得るのである。

教師の人を見る目は当てにならない、でも、

小学校の時に受けた知能テストであまりいい点数ではなかったようで、担任が親にあなたの子供は問題があるといった意味のことを言ったようだ。転校したばかりで消極的になっていた当時の私を親としても心配していたようだが、その担任の言葉に大いに憤慨したようで、私にも先生を見返してやりなさいというようなことを言っていたことを覚えている。

 私は自分で言うのもなんだが努力型のタイプで才能がきらめくという人材ではない。何度も失敗してそれをなんとか克服していくという次第で、再度知能テストをやっても顕著な結果は望めまい。ただ人がとうに飽きた頃にまだやっているという経験を繰り返しているうちに、なんとなく頭角を表したように見えるだけなのだ。

 だから当時の小学校の担任を私は恨んではいない。多くの教師がそうであるように、そしていま自分も教師になって分かるように、人を見る目がなかっただけなのだ。少なくとも保護者にあなたの子はおかしいという神経は過去のものとしなくてはならない。それがこの先生から教えていただいた重要事だ。この記事を読んで思い当たる教師がいたら、いますぐ考え直していただきたい。あなたの人を見る目は間違っている可能性があることを忘れないでいただきたい。

 人の将来は誰にも分からない。最近はデータベースに照らし合わせて、ある傾向を提示してそれが事実のように述べる人が多いが、彼らのいう外れ値があるのが現実の人生というものだ。教員であるなら、その例外的なデータこそ指導の目標とすべきなのだ。君は確かに偏差値幾つというデータを出し、この成績ならばこういう進路の可能性が大きい。でもね、それはあくまで可能性であって君の運命ではないんだ。そういうふうに、心から言える教員がほしい。

 彼らの多くは現実の厳しさに打ちのめされるはずだ。ときには本人やその家族から詐欺まがいの非難を浴びるかもしれない。確率的には統計学上の結果になることがはるかに多いのだから。

 でも、コンピュータがこのような確率であなたの未来を予測しているから、あなたはこのように生きなさい、というのはもはや教師でもなんでもない。単なるコンピュータのオペレーターだ。一面的な測定すぎないテストの結果に囚われ過ぎず、あくまで本人のやりたいことを刺激して、結果として未知の才能を導き出すのが指導者なのではないだろうか。この役割こそが人工知能に代替されない教員の仕事だと考えているのである。

自分とは何か

 自分とは何かという問いは誰もが一度は行う。容易に答えが出ないので、多くの場合は思考停止となる。そんなことは分からなくても日々の生活に困ることはない。むしろどうでもいいことをあれこれ考える方が時間の無駄ということになる。

 でも、自分を失うと厄介なことが起きる。現代のように常に他者の発信する情報に囲まれていると、果たして今の判断は私のものなのか、流行りの意見に迎合したのかが分からなくなる。迎合の意識があるうちはまだいい。自己判断を停止したままで周囲の環境に自動的に合わせて、それに違和感すらなくなっている人にとっては、最早自分の判断というものが消えている。彼らに自己責任を問うことはたやすいが言われた方には戸惑いが起きるだろう。私は決めていない。流行りに従ったはずだ。多分そうだと。

 こういう時代には自分が他者に操られる事態を起こしやすい。最近の流行語であるインフルエンサーは、他者への影響力が強い者という意味と心得ているが、この語が流通しているのは真のインフルエンサーが本当は少ないことを意味している。でも、多くは動かせないがいわゆるクラスタクラスの影響はあることになる。

 もし強力な影響力を持つ存在が権力の野望を持って登場すれば、容易に独裁者になれる。現代はその下地が整っていると言える。自分とは何かという厄介な問いを後回しにしているうちに事態は予期せぬ展開をするのである。

 多くの人が是といっても何かおかしいことがあればそれを指摘できる気概は保持しておくべきだ。多くの人にそれは変だけどと言われても、変と言っている貴方が変だと言える自己にならなくてはならない。情報社会において自己を保つのは難しい。でも、それができなければ危険な未来が待っている。

 

不器用な現実

 結果的にうまくいくということもある。それはそれで評価すべきだと思う。最近は完璧な展開から理想解に達することを求め過ぎている気がする。実社会はもっと不器用なものであり、不規則でもある。

 情報化社会に人工知能の技術も加わって私たちは効率化とか省力化とか、そういう無駄を排除する考え方に染まってしまっている。どこかの成功例を検索してその通りにやろうと思っても、条件がいろいろ違う自分の人生にはそのまま援用することはできない。できないとあたかも自分の能力が劣っているかのように考えて、ますます惨めな気持ちになっていく。

 手本を知らない誰かに求めるのはやめた方がいい。いろいろ違うのにその通りにできるとは考えない方がよいということだ。向上心は身近な目標に求めるべきなのだろう。そして自分を含めた私たちを幸せにする方法を追求するべきなのだ。

 他者を出し抜き自分だけが優位に立とうとするやり方をこのところの社会は奨励してきた。自分の利益になることは徹底的に求めるくせに、対立する考えは無視したり攻撃の対象にする。これではその場では勝てるかもしれないが、結果的に幸福感は持てず、周囲の人も不幸にしてしまう。このやり方に違和感を覚える人が私の感覚だと少しずつ増えてきている気がする。

 目先の利益で行動することが結果的に何をもたらすのかを分かってきたならば、安易に他者と比較したり、非難したりするのが得ではないことに気づく。不器用な現実に立ち向かうならば、それなりの覚悟と寛容さが必要だ。失敗を重ねてその結果ようやくたどり着いた解答が間違っているかどうかはそんなに簡単に評価できるものではない。

何に注目するのかは人によって異なる

 私たちには都合の良いところだけを見るという能力がある。私たちの眼前に広がるのはさまざまなバリエーションの一つに過ぎないのに、ある側面だけをフォーカスしてその優れた面を中心にして評価の対象にする。美女美男というのが典型的で、美しさという極めて流動的な基準をその場で設定して、あたかもそれが絶対的基準であるかのように論う。美意識というのが普遍的なように見えて実はかなり流行に影響されることはいろいろな歴史的な知見から伺うことができる。

 逆に他者にとってはどうでも良いことに悩んだり、劣等感を持つこともある。他の人にはほとんど気がつかないし、気づいても決して非難の対象とはなり得ないものに、異常に執着して動けなくなることがある。髪型の一部が少し崩れているとか、よく見ないと見つけられないほどの服のシミを気にしたりとか、自他の関心度の格差が大きい場合はこの種の問題につきあたる。気になっているのは自分だけであり、他者にとってはどうでもよいこと、というより思慮の枠組みにも入らないことがある。それでも本人にとっては一大事であり、それを乗り越えなくては何もできない。

 私たちの価値観というものが、実はかなり流動的であり、様々な変容をすることに気づくことが最近はとても増えている。でも、そうはいっても細かいこだわりからは解放されることはなく、相変わらず他者にとってはどうでもいいことに悩み、他人の良いところばかりに注目して尊敬したり、逆に劣等感を覚えたりする。その反対に対極から見ればそれほど変わらない他者に対して非難したり差別したりするもの一続きの現象と言えるのかもしれない。

 社会的な動物である人間にとって共時的な価値観に縛られることは仕方がない。他者のふるまいは羨ましいし、逆に疎ましくも憎らしくもある。勝手に定めた価値の物差しのどの位置にあるのか。自分と他者とを勝手にプロットして一喜一憂するのである。インターネットによる高度情報化社会ではそれがネットを通しての空想、妄想に肥大している。物事の良しあし、美醜、価値の有無といったものが、あたかも同時代人に共有されているかのような錯覚をしてしまうのだ。落ち着いて周囲を見れば、だれにでも共通の価値観などほんのわずかしかない。

 何に注目するのかは人によって異なる。注目した対象をどのように扱うのかも人によって違う。例えば日本人なら同じ価値観を共有しているというのはザルの目を粗くすればその通りだが、少しだけ細かくすると結果は全く違う。無理やり一緒だと思い連帯感を結ぶのは場面によっては大事だが、大抵の場合は息苦しさを生み出す。個々人の興味・関心、好き嫌いの好みなど、非常に複雑なグラデーションになっていることを忘れてはならない。

  

自分という存在

 自分を調整することは難しい。私という存在が自分の中心にいるとは思いながら、どこか思い通りにならない。そうすると実は自分は誰かに操られているのではないかという疑問すら浮かぶ。自分の存在が社会や共同体によって規定されているという考え方は哲学の世界では長らく議論されている。実際、私という存在は社会の中である程度決められており、それを逸脱することは様々な苦難を生じる。世間の常識という言葉で納得する様々な決まりごとは、よく考えれば自分の存在をガチガチに縛り付けている。

 ならば好き勝手に生きるのがよいかといえばそうでもない。好き勝手といっても何をしていいのか実はよく分からない。束縛されず自由に生きるというのは聞こえはよいが、この表現の前提には束縛されているという現実がある。そもそも束縛されていなければ自由を感じることもできないし、そもそも束縛とは何かも分からないかもしれない。

 人間が社会的な生き物であることは誰もが理解している。ある種の動物のように、ほとんど個体で一生暮らし、たまたま巡り合った異性と交尾して子孫を残すだけに生きるといった一生をほとんどの人間は受け入れられない。私たちは集団の中で生き、その中で自分の存在を認められ、あるいはほかのだれかを評価するという繰り返しの中に生きがいを感じるのだ。ただ生きていればいいとか、死ぬまで一人だけで好きなことをするというのは空しい妄想であり、実際にそんな機会を与えられたら大抵の人は耐えられなくなる。

だから、自分という存在をどのように扱うのかは実はとても大きな問題なのだ。社会的に生きる選択をするならば、自分の所属する社会の利益にかなった行動をとることが求められる。それが個人の欲望と齟齬があったとしても枉げられない。人間の長い歴史の中で自分という存在がどのように考えられてきたのかを知ることは、今を生きる私たちの息苦しさを解消するきっかけになるのだ。

思考の型

文章作成を指導する上でいわゆる「型」を重視する指導者は多い。私も型は大切だと思う。この型は多くの日本語話者に共有されているから、身につけてしまえばかなりの汎用性がある、いわゆる知識人と呼ばれる人たちはこの性質を利用するのにたくみだから、型に沿った論理展開を前提に持論を展開する傾向がある。

世界の現状はそれほど単純ではない。理屈に合わない展開はいくらでもある、それは当事者の意志とも異なるときもある。私たちは世界の現実を丸ごと受け入れられるほどの度量はないし、かといって無意味な事実の連続に耐えられるほどの忍耐力もない。自らの境遇には自分で釈明したいし、それができない事態は到底受け入れられない。真実でなくてもいい。自らの日常が保たれるほどの何かがあればそれでいいのである。

世界を型で切り取るということは人生そのものが型というフレームの中で考えられているということだ。私たちの日常が数えられる型の組み合わせでできていると思い込んでいるのである。それは個々の事例にいちいち悩まなくてもよい快適さをもたらしている。

それでも中には型にどうしてもはまらなかったり、型の組み合わせの影響で事実から離れてしまうこともある。そういう事態に私は最近よく陥いるのだ。思考の型を手持ちのものだけにとどめないこと、時には型の一部を変形してみることも大事なのかもしれない。

言語化という言葉の真意

 最近よく聞くのが言語化という言葉だ。何かをうまく行かせるために必須の過程だと言われる。確かに形なき思いは応用できず、そのままになってしまう。自分が直面していることに言葉を与えることで取り扱い可能の材料になる。

 ただ、この言語化は言葉にすること以上に大切なことがあることを忘れられている気がする。言語化されていない状態の現実に向き合い、見逃さないという努力である。このことを忘れてしまうと既成の言葉を積み合わせてうまくやろうと考えるようになるだろう。ならば新しい何かは見つからない。

 言語化は形がなく概念すらないものに名付けをすることなのだから、思う以上に難しい。そのためにもまず、もやもやとした現実から目を逸らすことなく、手探りのじれったさから逃げないことが必要なのだ。なんでも検索や人工知能で探し出せると考えてしまう現代人には難しいことである。

 恐らくそれは普段の生活の中にちょっとした冒険の心を持ち込むことで達成されるのだろう。日常から少し抜け出して見ることで当たり前と考えていたものの陰に隠れている何かが見えるときがあるはずだ。

取引というけれど

 アメリカ大統領の言動のために取引ということばが最近の流行言葉になっている。取引というと聞こえがいいが昨今の状況を見ると、対等な立場にある相手との取引は少ない。有利な立場を築いた上で、相手に無理難題を吹っ掛けるのが取引なようだ。しかし、このような意味は本来の取引の意味とは異なっているような気がする。

 一見公平に見えて実は全くの不公平という話はいくらでもある。特に優位な立場の者が仕掛ける似非公平主義は巧妙で露見しにくい。さらに、この不平等に異議を唱えると、まるで我儘を通しているかのように攻撃してくるのだから厄介だ。ルールという不公平を巧妙に作り出し、自身の利益を保とうとする。これは残念ながら国際的な常識のようなものになっている。

 おかしいものはおかしいと言える態度は保ちたい。しかし、それも今は難しい。交通事故を起こしたら、自分が悪くても決してそれを認めてはいけないというのはよく聞く。それと同じだ。ただ、これは日本人の通念とは乖離している。

 高度成長期には勝つことを最優先課題とし、相手を傷つけることも厭わないのが美徳とされた。しかし、いま弱者の悲哀を知ってしまった以上、取引に限りない疑問点を持ってしまう。

役に立ちたい

 少しでも誰かの役に立ちたいという気持ちは多くの人が持っているはずだ。自己の利益に繋がればもっといいが、そうでなくとも構わない。何らかの利益が他人にもたらされば嬉しいという意識は恐らく多くの人が持つではないだろうか。

 これを偽善と呼ぶ人もいる。ただ、偽善もときには役に立つということなのだ。私たちは自分のために何かをすることを日々行っている。自分の幸福追求のために行動することに疑問はない。ただ、それが他人の利益と交錯するときにには躊躇いや滞りが生まれる。自分が利益を得ることは嬉しいが、そのために他人が不幸になることを自覚すると素直に喜べなくなる。

 そのために自己が他者に及ぼす影響について考えないという思考停止の習慣がついている。人のことを気にしないという方法である。この方法で日々を乗り越えたとしても、いつかは矛盾を感じてしまう。他者の窮状を知ると動けなくなる人は多い。私たちは一人だけ幸せになるということを良しとしない傾向がある。

 他者の役に立つことは言うほどたやすいものではない。人のためになると思うものでもかえって害となることも多い。ただ、どこかで誰かの役に立ちたいと考えるのは人類の進化の過程で刷り込まれたものであると考える。