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次を考える

 積み立てNISAを始めて経済の成り行きにも関心を持つようになりました。いまはコロナウイルス流行をきっかけとする世界的な株安が発生しています。日々目減りしていくこづかいの額にため息をつく毎日です。

 ウイルス騒ぎは社会のあらゆる局面に多大な影響を及ぼすています。中には明らかに行き過ぎな点もあります。ただ、縮小する経済の未来を予見する機会を見せてくれているのだと考えるならば、この時期を体験する意味があります。事前に対策を立てるシミュレーションなのです。

 生産人口が減少し、流通の規模が縮小したり、人手不足が慢性化する状況は最近の社会の実態と似ています。そうした中で何ができるのかを予測して行くことが求められます。いまあることを前提とせず、次の状況を常に考えて生きることがこれからはますます重要になってくるのでしょう。

粘り強さ

 自分にかけているものを数えあげていると憂鬱になるほど時間が掛かりそうですが、その中の最たるものの一つが粘り強さであろうと自覚しています。これは多くの事柄に通底する大切な能力でしょう。

 すぐには解決しないことを考え抜きやり抜くことは容易ではありません。しかし、それができることこそ成功の鍵なのだと考えます。便利な検索機能を使えば何でも分かったつもりになれる環境がかえって考えぬく習慣を奪っているのかもしれません。私たちはインスタントな知見で満足せず、その上を目指さなくてはならない。そのためには未知の領域に踏み込んで迷っても、簡単には諦めない強さがいるのです。

 粘り強さを生み出す精神力は机上では生まれないのかもしれません。いろいろな経験を積むことが大事なのでしょう。

やってやろうじゃないか

 先生は漢検の級もっていないんですか。生徒に聞かれたとき用意している答えがあります。私が高校生の頃、漢検がなかったんだと。

 大抵はここで引き下がるのですが、時々このバリアを突破されます。それならいま受けたらいいじゃないですかと。これも苦笑いでかわしてきたのですが、どうも後味がよくない。そこで一念発起することにしました。来年度中に準1級に合格しようと思います。ブログに書くのは公約のつもりです。

 準1級は実用レベルを越えた漢字の知識が問われます。ほとんど使われることがない文字や熟語が大多数を占めます。デジタル時代では入力できる文字が少ないので、このレベルの文字は使えないことも多い。漢文学の知識も要るようです。

 目標は大きい方がよい。ならばやってやろうじゃないか。いまはそんな気持ちになっています。

形から変えてみる

 形から変えてみることも大事です。膠着状態を破るきっかけの一つにはなります。

 現状の打破がなかなかできないときには内容よりも外見を変えてみるという手もあるのではないでしょうか。外見が変わればそれに伴う環境に多少の変化をもたらすことができます。付け焼き刃でもしばらくは効果があります。そのうちに中身が追いついてくるかもしれない。それを待てばいいのでしょう。

 長らく使った衣装を着替えることは勇気が要ります。これまで培ったイメージを捨てることになるかもしれない。それでも次の段階を目指すためには、場合によっては評価を一変させる手段が必要になるのです。

顔のない人物像

 先日、美術館で見た展覧会の絵の人物像にはなぜか顔の表情がはっきりと描かれていないものが大半でした。全体的に幻想的な画風であり、抽象絵画の趣さえ漂う筆致のため、さほど不自然ではありませんでした。顔のない人物像の持つ可能性を考えました。

 私たちは他人の感情、精神状態を視覚を通して判断することが多いのですが、そのかなりの部分に顔の表情という情報があります。喜怒哀楽は全身に表れますが、やはり表情ほど雄弁な部分はありません。その表情という重要な要素を敢えて省略することは画家にとっては大きなハンディのはずです。微笑んでいるひとを表情なしで表現することの難しさを考えるだけでもそれが察せられます。

 しかし、その負荷を敢えて負うことで拓けてくる可能性もあります。表情がない人物像を描くためにはボディランゲージに敏感にならなくてはなりません。また人物以外の要素、背景とか構図とかその他の要素に鋭敏になる必要性があります。そこで磨かれる表現力は大きな芸術性をもたらします。

 さらに、絵を鑑賞する側にも同様の効果があるはずです。不完全な描写の中に何を感じとることができるのかは見る側の想像力によります。その裏付けとなる人生経験そのものが問われることになります。

 表情を敢えて描かないという選択は画家にも鑑賞者にも大きな挑戦であり、可能性を秘めているのです。