タグ: 人生

磯野波平は54歳

 サザエさんの父親の波平は54歳の設定である。そう聞くとかなり驚く。65歳くらいだと感じている人が多いのではないか。

 ただ当時の男性の平均寿命は60歳くらいであり、ならばあの風貌は当然だ。余命は10年をきっているのだから。

 源氏物語において光源氏は四十の賀を行う。平安時代において40歳は後期老齢者の仲間入りをする年齢であった。光源氏はここから柏木による不倫により、転落の人生を始める。現代の40歳は中年と呼ばれるかもしれないが、中にはかなり若々しい人も多い。少なくとも老齢ではない。

 人生のスケールが過去と現在では大きく異なるということだ。現在は幸いにも高齢化が進み、人生をゆったり構えていられる。歴史的にいえばこれは偶然であり、今後さらに長くなるのか、短くなるのかは分からない。

 波平さんがあの容貌なのはおかしいということの解釈が、老けすぎなのか若すぎなのかは、時代によるということになるのだ。個人的には波平よりも高齢な己が彼ほど存在感がないことを焦るばかりである。

法則を見つけたがる本能

 人間らしさの一つに物事の関係性を考え、そこに一定の法則性を求めると言うことがある。普遍的な法則があることを期待してそこに何らかのルールがあると考えるのだ。これは人間の癖というしかない

 本当に自然界にルールがあるのかは分からないが私たちは自分たちの利益のために、何らかのルールを作り、それに従おうとする。法則性を発見すればものごとがスムースにすすみ、失敗がなくなると言うのだ。科学の基本もそういうことにあるはずだ。

 人間の能力で考え出したもっとも可能性の高い考え方が、数学の方法を使って法則という形にまとめられる。科学者の解くそういったものは現代社会を作り上げている根本的な要素だ。絶対的なものでその意味では神に近い。

 ただ、哲学者や一流の科学者はそれを認めた上でさらに俯瞰的立場で語る。現在、絶対的なものと考えられているものも様々な条件下に限定されたものであり、実は違う姿をしているのかもしれないというのだ。その立場では暫定的にいま法則として成立しているものを我々は前提にしているのに過ぎないということになる。

 本当は何があるのか予測もつかないのが真実のあり方かもしれない。素数の分布がいまだに数式で表せないのと同様に、この世の中の大半はそんなに簡単にはまとめられない。でも、仮にまとめてみることでカオスの恐怖を乗り越えてきたのだろう。

方針転換

 私の中で健康を気遣い無理をせず無難に生きるという人生観が揺らぎ始めている。長生きをして何になるのだろう。長生きを最終目的にするのは間違っているのではないかと思うようになった。

 大切なのはいま何ができるかであり、自分のやったことがどれだけ他者の幸福に寄与するかということなのだ。長く生きることはその結果であり目的ではない。

この歳になってようやく気づいた。今やれることを少し背伸びしてでもやるべきなのだ。おそらく理想通りにはできない。ただ、できるかできないかの二択ではなく、どれだけやろうとしたのかが大事だ。結果を出さなければ人は評価しない、そこに名誉や利害関係が絡むと話は一層複雑になる。でも人の評価それ自体が相対的であり流動的なものなのだ。やったけどできませんでしたは、何もやりませんでしたよりはましだ。もちろん他人に迷惑をかけないという条件は守らなくてはなるまいが。

歩行速度

 歩く速度で老化の度合いが分かるという。たしかに高齢者の歩みは遅く危うい。杖を突きながら長い横断歩道を渡り切れるのか心配になる方もいる。若者の足取りは軽く、その中間の年令の人々の足取りは人それぞれだ。

歩き方は人それぞれ

 歩行速度に年齢が出てしまうのはどうしようもない事実だ。私は自分では足が速い方だと思っていた。よく人を追い越していたからだ。しかし、最近は追い越されることが増えている。これを歳をとったから仕方がないと考えるか、負けずに後を追うかで老化の具合いは変わるのかもしれない。

 私が歩行速度が落ちているときには視線が下向きになっている。意識して上を見るようにすると、速度は落ちない。姿勢も良くなる。夏季は鞄をザック式にして担いでいるのだが背中の荷物が背骨に当たる感覚を大切にしたい。

 犬の散歩をよく見かけるのだが、犬の歩みにも年齢が出るらしい。駆け出しそうになるのを制されている若い犬もいれば、トボトボと歩き飼い主が歩みを待つ老犬もいる。犬用車椅子を装着して歩くものもいる。人同様歩くことは犬にも老化のバロメータであるようだ。歩くことは生物に取っては生存の基本であり不可欠な条件だ。いつまでも変わらずにというのは叶わぬ願いだが、せめて老化を早めることのないよう歩き続けるしかあるまい。

反面教師

 教師と人から呼ばれる職に就いている私にとって反面教師という言葉は決して名誉な言葉ではない。だが、私は反面教師にもならなくてはならないと思っている。

 私の場合、人の範たる存在になることを目指して教員になったわけではない。自分の好きなことを追求していくうちに自然と教員になってしまったというのが正解だ。この件については様々な言い逃れを考えているのだが、真実を簡潔に述べるならば先に述べた通りの事実となる。私のやりたいことがたまたま教育と親和性が高かっただけのことである。

 教師になりたいと思っていなかった私が教師になった結果、かなり中途半端な存在になってしまった。本当は成績なんかどうでもいい、自分のやりたいことをやれと言いたいのに、小手先の点数を上げる技術ばかりを話すようになってしまった。それで進学率が上がるのだから他人からは褒められるし、成績が上がらなければ叱責される。よく考えてみればそれは本人次第だ。生徒を騙して名門大学に入れたところで、本当にその生徒は幸せになれるのだろうか。エビデンスなど何もない。

 この煮えきらないところはきっと生徒には見破られている。なんであなたは他の先生とは違って成績なんてどうでもいい好きなことをやれ、と言いながら、他の教員と同じようなテストを課すのか。そして点数にこだわるのかと。この弱みについては私は何も反論できない。敢えて言うのならば、人生は必ずしも思い通りには進まない。ときには折り合いをつけることも必要なのだと。

 反面教師として自分を見てくれるならば、それは私の存在価値があったということになる。悲しむべきはそれに気づかない生徒がいることだ。世の中はすべて理想通りに進んでいると信じて疑わない人物を生み出しているとしたならば、それは大きな失敗になる。

 いかに自分がメッセージを伝えられるか。そして、反面教師としての役割を果たせるのか。それが大切なのだろう。

疲労

 昨日体力を使うことがあり、かなり疲労してしまった。ただ、改めて思うのは肉体の疲労は時間をかければ回復するということだ。日常の精神的な疲労は、肉体疲労に比べればはるかに分かりにくいが、回復するのには相当な時間がかかる。どちらが厄介なのかは明らかだ。

 日常から逃れることができたならと考える思考は昔からあった。それが祈りになり、宗教にもなった。ただ、生きていながら脱日常はかなり難しい。そこで折り合いをつけるしかなくなるのだ。

 考えてみれば、肉体的に疲れることは日常を生き抜くための手段なのかもしれない。必ず回復することを体感することで精神的にも救われるのだから。

時代おくれ

 つくづく自分は時代遅れだと思うことがある。そういうときはいままでやってきたことに自信がなくなっている。これまでの道のりが無駄なものであったかのように考えている。こう考え出すと止まらなくなる。

 先日、先輩にお会いすることがありこのことを話した。するとどうもそうでもないという。時流に乗ることは自分を陳腐なものにしていくことに繋がる。だから、周りとは違うやり方でも構わないし、むしろその方が貴重なのだ。堂々と時代を外れる方がいいのだというのだ。

 恐らく落胆気味の私の表情を悟られて激励のつもりで仰られたのだろう。でも、この助言は私にとってはとてもありがたいものであった。やるべきことをしっかりと自分の調子で続けるのが大切さなのだ。

 と言うわけで時代に遅れてしかも意図的に外れて生きることにする。このブログも文字ばかりでよくない例という例に入るようだが、おもねることなく、硬派に駄文を連ねることにする。

僕らの知らない道だけど

 仕事柄、いろいろなことに躓いている人に声をかけることが多い。そういうときに思うのは人それぞれのやり方があっていいということだ。

 同調圧力をかける側の仕事をしておりながら、自己矛盾も感じる。ただ、やるべきことは人によって違う。やり方も人それぞれという事実は忘れてはならない。他人と別のやり方では都合が悪いのは自己利益のために誰かが犠牲になることだ。それは避けるべきだろう。全く何も迷惑をかけないことは不可能だが、それにも節度がある。それを超えるものでなければよいのではないか。

 自分の歩いた道は人にも勧めやすい。少なくともその道でどう振る舞えばいいのかを心得ているからだ。対して自分が経験したことのない進み方をしている人にはついそれは間違っているからこちらに来いと言ってしまう。その人の適性など考えることなく。

 私はそのやり方は知らないが、でもそれがいいならやってみるといい。そういう余裕をもちたい。

もう一つの道

 成功例があると皆がそれを模倣しようとする。間違いではないが総体的には危険だ。もしその方法が間違っていればすべてが水泡に帰す。いまの世の中はそういう選択をしやすい。

 生き残るためには多様性を確保すべきだということは生物学の常識だ。マイノリティグループは大抵日の目を見ない。だが、あるときその選択肢を捨てなくてよかったと思うことがある。私のやっていることはその類のことなのではないか。

 弱者の負け惜しみと言われればその通りだが、しかし全滅を防ぐ役割を果たしているのだと思えば意味のある行動とも言える。残りの人生でこういう悪あがきを展開することは私の夢の一つである。

分断

 いろいろな局面で分断が起きる可能性があると言われている。国際的には超大国の利益が衝突し、世界が分断しつつある。その一国のアメリカでは階層や人種、主義などによる分断が表面化しつつある。一部の欧州の国が独立を目指しているのも分断の兆しだ。そしてこの日本にもその傾向は忍び寄っている。

 経済的な格差は日本ではまださほど顕著ではない。ただ、多くの人々が低賃金で働き、さらに非正規雇用といった不安定な立場にある。すると、経済力の差や雇用形態の差で分断が起こるかもしれない。世代格差もある。若者層の中には今の高齢層が享受してきた繁栄に比べて、自分たちの時代が低調であり、さらに高齢者扶養の責務まで押し付けられていると考える人がある。例の集団自決発言は極論であるが、慎まぬ本音が出たのだとも言える。

 分断を避けるにはどうすればいいだろう。少なくともいまの日本にとって分裂はマイナスの要素しかない。これまで享受していた国家としての市場をさらに小さなものすれば負荷をさらに付け足して走るようなものである。まずは社会的な意識を考える必要がある。スポーツに例えるなら団体戦なのだ。しかもこれは一人勝ちしても未来はない。

 我が国は戦争の反省から、国のために何かを考えることは避けてきた。偏狭な国家主義は危険だが、社会を単位に物事を考えることは見直してもいい。難しい問題だが、こういうものごとの基本的な考え方を見直すことが、今のこの国には求められている。