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歩く楽しみ

 私は歩くことが好きな方であると自認している。目的なく歩くこともときにはある。そこで何かを発見したり、それまでとは違うものの見方をできるようになることが楽しい。

 ただ、定期的に襲う膝関節痛が悩みの種だ。今までに4、5年おきに発症し、水を抜いてもらったこともある。その後軽快するが、いつの間にかに痛みが発生する。一昨日あたりからその気配を感じており、またかと落ち込んでいる。

 水を抜かなくてはならなくなる場合と、何もしなくてもよくなるときとある。前回は自然治癒したので今回もそうであることを祈りたい。

 歩くことが楽しみである以上、膝の故障は避けたい。歳を重ねるといろいろな障りがある。それを受け入れながら生きるのが人生というものなのだろう。

人生の特別な場所

 病院に行くことがあった。緊急入院の手続きをする家族の横に嬰児を抱えた若い母親が並んでいた。当たり前のことだが、病院は人生のターミナルである。そこが目的地ではなく、通過する場所であるのにも関わらず、多くの人々が通り過ぎる。

 人生で一度も入院したことがないのが私の自慢であるが、よく考えてみれば生まれたときは病室にいたはずだ。これから何らかのきっかけでお世話になることもあろうし、そこで生命の終わりを迎えるのかもしれない。

 こういうことは日常生活の中ではまったく意識に上らない。緊急車両が目の前を通り過ぎたときでさえ、他人事としか思えない。いざというときになってたち現れすべてを覆ってしまう。人生にはこういう特別な場所がいくつかある。

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脳が見せるもの

 私たちは見たり聞いたりしたことを脳で認識している。普段は意識することはないが、何らかの事情で脳の機能が低減したときにそのことを感じる。

 慢性的に脳の機能は低下していく。これは人間の宿命というべきもので今さらどうしようもない。ただし、自分には無縁と誰もが思っている。あるときに急に気づくのだ。記憶の力が落ちたと。感性の低下で感動することが減ったことも。

 脳が見せるものが現実の世界だとしたら、人間の見る世界は脳の機能で規定されていることになる。私たちが見ているのは脳というフィルターを通して投影されたものなのだ。

 これは考えてみれば当たり前だ。感覚器の機能の中でしか物事は把握できないし、その中で様々な判断がなされる。このことは些かの寂しさも伴う。私たちは世界をそのまま見ているのではないのだ。人間の機能で捉えられるものだけを見ているのに過ぎない。

 こういうふうに考えていくと、私たちが考える真理とか正義といったものが、実は相対的なものであると気づかされる。人間とは違う認識能力を持った生物が見る世界は全く違うかもしれず、その中で生成されるルールやモラルは我々とは似ても似つかぬものなのだろう。

 脳が見せる世界は何なのか。それを考えていくべきなのだ。見ているものが全てではない。私たちは見られるものしか見ていないのだから。

動じなくなった

 歳を取ると些細なことには動揺しなくなる。正確には一々反応できなくなる。そして、何を言われてもすぐに流してしまう。これは利点であり欠点でもある。

 いろいろな失敗を繰り返しているうちに、失敗データベースのようなものができる。過去の経験に照らし合わせ、そのどれかの亜種のように扱う。個々の出来事に向き合っていないのは不誠実だが、そうして過剰な反応をすることを避けている。

 私の目指すことろは別にあると思えば日常の些事にはこだわらなくなる。最低限の勤めを果たせばそれでよい。面従腹背も一度やってしまえば心地よい。

 若い人には私のようにならないようにと言っておきたい。人様に迷惑をかけることは絶対にしないが、やりたいことを妥協しないためにかなり狡猾に立ち回っているのだから。

 私自身は年配の部類になっても遠慮するつもりはない。したたかにやりたいことをやるだけだ。歳を重ねてもこういう変人がいることにはご注意いただきたい。

x年前の私

 グーグルフォトに同一人物の過去の写真と最近の写真を並べてコラージュのような映像を自動的に生成する機能がある。これはアプリが勝手に提案してくるものである。

 他人の場合は冷静に楽しめるのだが自分となると少し具合が異なる。年々容姿が老いてゆくことを認めざるを得ないのである。これはときに残酷でもある。

 最近、鏡でまじまじと己の顔を見ることがあった。いつもはあまり見ない。おまけに視力が少しずつ低下しており、細かな部分は見えなかったのだ。それがいわゆる女優ライトで見ると老化の紛いなき面が浮かびあがった。ぞっとしたがいかんともしがたい。

 過去の写真を時々見せられるのはこういう衝撃を和らげるための予防対策だと理解した。ただ何事も忘れっぽくなっている私は、1時間後にはこのことを忘れている。そしていつまでも心の中では若いときのままだと思い、そのように振る舞っている。だから、多少無理をすることも厭わないし、そうでないとおかしいと考えてしまう。

 自分の身体と自分の精神が一致するのは意外にも難しい。でもこの思い違いは案外大事なものかもしれない。敢えて心まで老け込むことは必要ない。暫くは大いに誤解しておくことにする。

元天皇誕生日

 今日は上皇の誕生日である。ご高齢故にお身体にはお労りいただきたい。亡き父とほぼ同年齢でいらっしゃることを思えば、いろいろと思うことがある。いつまでもお健やかでいらっしゃっていただきたい。

 平成時代のこの時期はいろいろあって大変だった。不景気と震災はこの国の凋落を予感させた。いまも状況は変わらないが、我々に耐性ができたことと、イノベーションの期待から最低の気分は脱している。

 うまくいかなかった時間は飛躍のための準備であると信じて腐らずにいたい。私もまた身体的な減退期に入っているが、無責任に夢を語る癖は衰えていない。続けていればなんとかなる。遠くの場合、これは当てはまる。

 上皇陛下にはこの国の復興の様をお見届けいただきたい。

雑念がわくのは意味がある

 何かに集中しなければいけないときに他の様々なことが想起されて思考を邪魔することを雑念ということがある。私はこの意味の雑念の多いたちなのでこれに悩んでいた。ところが歳を重ねるに従いこの雑念が減った気がする。

 集中力が向上したというわけではない。何か別の話題が浮上してやるべきことを妨げることは減った。しかし、何も考えずに茫然としてしまうことがふえたように思う。CMのコンテンツがなく、イメージ画像を流すような感じだ。呆けるとはこのようなことなのだろうか。

 現時点ではいま自分は何も考えず時間を過ごしているというメタ認知のようなものは機能している。これがいつの日にかなくなるときが来るのだろうか。雑念に悩んでいた頃は僧侶のような無の境地を憧憬したが、あるいは雑念が湧くということは大切な生命力のしるしなのではないかと考え直している。

まるまり

 認知症という言葉はかなり強烈だが、人は多かれ少なかれ脳の衰退に向かっている。私は短期記憶の低下を自覚しているのでちょっとしたことでもメモするようになった。これでしばらくは凌げるが、そのうちメモしたのかどうかもわからなくなるだろう。

 脳の皺が知能に関係するというのは本当なのか私には分からない。もしそうならば比喩的な意味において、その皺がなくなっていくのが加齢ということなのかもしれない。皮膚とは反対である。

 四捨五入することを丸めるという人がいる。脳が退化すると無意識的のうちに世界を丸めだすのかも知れない。大雑把に捉えることは知的なレベルで行えば高次元の行為だが、この方面は寂しさ伴う。ただ、詳細にとらわれないことは大切なのかも知れない。世界のまるまりを楽しむような余裕が必要なのだろう。

最晩年を生きる

 1960年の日本人男性の平均寿命は65歳だったという。高度経済成長期の始まりの中で、寿命は伸び始めていたが、この時点で切ると意外にもかなり若い。磯野波平が50代前半であの風貌なのも当然なのだ。かれは余命十数年なのだから。

 もしこの年代に今の年齢であるとすれば、私は最晩年を迎えていることになる。もっともいつの時代にも長寿や夭折はあり人それぞれだ。あくまで平均という数値上の問題として考えていく。

 現在、多くの企業が65歳を退職年齢としている。高齢者の区分もここにある。いまでは企業人か否かの分かれ目が、かつてはこの世かあの世かの分節であったことになる。年金制度などの設計がここにおかれているのはかつてはその通りだったからだ。

 65に区切れを入れると、老後がかなり長くなる。現実的にはもっと後まで労働人口とならねばならない。日本の人口ピラミッドからしても高齢者の区分は上げなくてはなるまい。行政はこれに対応できているのだろうか。

 私自身のことでいえば、最晩年を生きている覚悟をせねばならないと考えている。今のところ健康上の心配はないが、明日みまかるかもしれず、数年後に彼岸にいるかもしれない。そういう覚悟が必要だ。最後の一日まで働いて、ある時急にいなくなるというのが理想ではある。

あり得ない妄想

やり直せたら

 あのとき別の選択肢を取っていたらとはよく思う妄想である。別の選択をすれば関連して更にいろいろなことが変わり、結果として全く別の状況になる。いまとは違う自分がいるはずだ。

 こういう考え方をしているとき、無意識のうちに並行世界を考えていることになる。量子力学理論ではないが世界はいくらでも分岐すると漠然と考えている。

 学問的な裏付けの有無にかかわらず、この考え方は実は妄想のようなものだ。一人の人生では一通りの経験ができず、それを俯瞰的に捉えることはできない。どんなに並行していても見えなければ存在しないことと変わらない。

 それでもこの妄想をすることは楽しい。それは人生を少しでも豊かにしたいという思いによるものだろう。ただ、生きられるのはやはり今の人生しかない。