視覚障がい者などがマラソンなどのコースが不定形なレースに参加するとき、ガイドする人を伴走者ということがある。ランナーの目となるためにはその心理を察し、様々な配慮をする必要があるという。視覚障がい者は歩幅が自然に小さくなるが、アスリート級になるとそれもなく、伴走する人もそれと同等もしくはそれ以上の走力が求められる。
この伴走という概念は比喩的にいろいろな場面に使われるようになっている。私の業界では教員は生徒の伴走者であるべきだという表現が理想として語られる。走るのは生徒であり教員は牽引するのではなく、あくまで伴走するのだということだ。instructorやteacherではなくfacilitatorであれというのと同じような比喩であるといえる。
理想としては素晴らしいのだが現実には伴走はかなり難しい。本人がやる気を出さない限りそもそもスタートしないし、その人の気持ちを察することは困難だ。それができると言う人は多いが実は自分の考えを押し付けていることが多い。伴走には徒労が多く、効率とか生産性といった物差しでは測れない。
私はそろそろ引退するから好き勝手にいうが、伴走者になるなら覚悟しなければならないと思う。ランナーが成果を発揮できなくても、それは仕方がない。伴走者としてやるべきことをやったならそれで満足すべきなのだ。ただレース後にランナーにいうべきことがある。今日のレースの結果は途中経過に過ぎない。次のためにまた練習しようと。ランナーにエンディングを見せないことこそ伴走者の務めなのだろう。
