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伴走様々

 視覚障がい者などがマラソンなどのコースが不定形なレースに参加するとき、ガイドする人を伴走者ということがある。ランナーの目となるためにはその心理を察し、様々な配慮をする必要があるという。視覚障がい者は歩幅が自然に小さくなるが、アスリート級になるとそれもなく、伴走する人もそれと同等もしくはそれ以上の走力が求められる。

 この伴走という概念は比喩的にいろいろな場面に使われるようになっている。私の業界では教員は生徒の伴走者であるべきだという表現が理想として語られる。走るのは生徒であり教員は牽引するのではなく、あくまで伴走するのだということだ。instructorやteacherではなくfacilitatorであれというのと同じような比喩であるといえる。

 理想としては素晴らしいのだが現実には伴走はかなり難しい。本人がやる気を出さない限りそもそもスタートしないし、その人の気持ちを察することは困難だ。それができると言う人は多いが実は自分の考えを押し付けていることが多い。伴走には徒労が多く、効率とか生産性といった物差しでは測れない。

 私はそろそろ引退するから好き勝手にいうが、伴走者になるなら覚悟しなければならないと思う。ランナーが成果を発揮できなくても、それは仕方がない。伴走者としてやるべきことをやったならそれで満足すべきなのだ。ただレース後にランナーにいうべきことがある。今日のレースの結果は途中経過に過ぎない。次のためにまた練習しようと。ランナーにエンディングを見せないことこそ伴走者の務めなのだろう。

苦手なものは誰にもある

 人には適性というものがある。オールマイティと言われる人もよく見れば苦手なことがある。彼らはその苦手なことを目立たないようにするのが得意だ。だから、何でもできる人のようについ思ってしまう。

 私のようにいろいろな面で難渋している者には、言う資格はないのかもしれないが敢えて言おう。苦手なものがあることは個性であってそれ以上ではない。できないことがあるのは当たり前で、その点だけ取り上げて非難するのは間違いだ。そういう君もできないことがあるはずなのに、何を偉そうにと私などは思ってしまう。直接言えないが。

 最近、ある局面だけで他人を見下す人が増えているように思えてならない。恐らく見下す人もどこか自己肯定感を持てておらず、他人をけなすことでようやく自己を保っているのかもしれない。哀れだがこれは互いを低め合う悪行である。本当に相手を貶す意味はあるのか。自己満足のために他人を巻き込んでいないかは考えて見るべきだ。

 人間は集団の生物であり、ある意味互助で進化の過程を切り抜けてきた。その精神が失われたとき、弱い生物に転落するのだろう。残念ながらいままさにその過程にある。

 自分の不完全さを知り、同族に助けてもらえる知能を獲得できていることを思い出す必要がある。援助をAIに求めるならば、人間はますます分断されていく。私の人生の尽きるまではそう間がないが、その間にヒトの生き方を思い出す機運ができればいいと思う。

 

本を読む時間

 最近、本を読む時間が不足している。自分の仕事を能率的にするほど、わたしの場合は読書から離れてしまう。物事をテキパキこなすことと教養を蓄えることとは違う回路が必要なようだ。

 残念ながら、いまは日々の仕事をこなすことに手一杯だ。それには教養は要らない。雑念を捨てて作業をこなすことだ。今の世の中はこれが求められているから厄介だ。自分を仕事の機械にしていく。それで満足している人があまりにも多いのは不思議だ。

 いまは耐える局面と心得ている。生産性という大義名分の元に犠牲になっている生き甲斐というものを取り戻す準備をしていこう。面従腹背、わたしは性格がよくないのである。

デクレッシェンドしてゆく意味

 自分が人生の後期を迎えていろいろと困ったことが出来しているが、最近必ずしも悪いことばかりではないのかもしれないと考えるようになった。若い読者には理解が難しいと思うが、身体機能が少しずつ、継続的に減退するのを実感するのはなかなか辛いものがある。思ったことが思ったようにできないのは、焦りを超えた恐怖が伴う。

 ただ、そういうことを感じ取る機能もまた劣化している。深刻な失態を犯しても、その深刻さを認識する度合い自体が低下している。物差しが緩くなることで、実際の機能低下を甘く見積もっているというしかない。

 でもこれは生きるうえでは大切なのかもしれない。最盛期の基準で戦っていたら、今の連敗は許しがたいだろう。負けを許せる能力だと考えれば今の体たらくを受容するしかない。

 デクレッシェンドしていく自分の能力を優しく包むのが老化というものなのかもしれない。まだ諦めるつもりはないが私はいまの状況に合った生き方をするしかないと考えるようになっている。

俳句の精神

 俳句はかなり前から続けているが、上手くなろうなどと考えていないから、全く上手くならない。駄作の連続だ。それでもいいと今でも考えている。

 景を以って情を映すのが俳句だと心得ている。切り取った風景を表す言葉にすべてを託す。言葉足らずでも、読者の想像力に任せて作品を投げ出す。それがこの文芸の根本である。

 この歳になって細かな細工ができなくなるとかえって俳句は都合がいい。文学としての俳句はもちろん、様々な点において俳句的発想や、行動が今の状況には適している気がする。

連休

 今年の大型連休は前後に分断されてしまった。中には間を休める方もいらっしゃるのだろうが。私のような職種は暦通りしか休めない。

 でも、いまの自分にとっては長すぎる休みは調子を崩す要因にしかならない。適当に休んでまた仕事をする生活の方がいい。変化よりも安定の方がいいとは我ながら残念である。

 恐らく退職したあとも私は何らかの仕事をするはずだ。収入があるかどうかは分からないが。そういうふうに生きてきてしまった。

万緑

 電車から見える坂道の桜の街路樹の花はすっかり終わってしまったが、若葉が次々に芽生えてくる様は、また美しいものがある。桜だけではなく、いろいろな緑が輝く季節となった。

万緑は往古の詩人や歌人によって表現されてきた。強い生命力を感じるからだろう。命の力は万物の根源だ。かつては意識することがなかったがいまはいちいち気になる。生きることにはエネルギーがいる。

老兵の戦い方

 多くを望まず自分のできることを恬淡として行うことがこれからの生き方の目標である。それはある意味後退であるが、撤退ではない。最前線には立たないがしっかりと事態に立ち向かう。体力や気力の減退はいかんともしがたい事実であり、それを前提としてやれることを粛々と行うしかあるまい。

 最近の自分の行状を省みるにエラーが多く、十分な貢献ができていない。私は全く手抜きをしていないのだが、それ以上に気力体力の減退の方が大きい。進もうと思っても足が動かないといった感じである。もがくが足掻くが前に進まない。そんな感じである。

 この様な状況になることはなんとなく予想はしていた。しかし、いつその段階になるのかは分からないし、仮に分かったとしても何もできないだろう。加齢という宿命に関して私たちは無力である。敵は見事なステルス攻撃を仕掛け、いつの間にかに本丸まで侵入してくる。そして一気に首を取に来る。

 だから前線で戦うのはもうやめて、後方をしっかり固めることにしよう。老兵にはそれなりの戦い方がある。消え去る前にやれることをやっておこう。

脳の老化に

 誠に悔しいことだが、脳の老化を自覚することがある。まだ幾分意識がはっきりしているうちに、いまの焦燥を記録しておく。

 一番、このことを痛感するのはマルチタスクができなくなっていることだ。例えばパソコンで作業中に別のことをやろうとすると、さきほど何をやっていたのかが分からなくなる。これは悲しい事実だが今は毎日経験していることだ。私は研究職をしていた時期があり、自分のペースで作業をすることには慣れていたが、今の職場のように臨機応変を重視する環境には全く馴染めない。その最たるものがパソコンによるマルチタスクである。

 脳が認知に果たす役割は大きい。認知される世界が変わるとならば世界観価値観のパラダイムシフトも起きる。つまり老化がもたらすのは世界の縮小化、歪曲化である。見えるものが変わりかんじることが変わってしまえば総体的世界観も大きく変わる。

 本当に見ているものと脳が捉えるものとに差があるならば、いかにすればいいのか。そのような問は無意味で、私たちは脳というフィルターを通してしか世界を実感できない。だからそのフィルターの調子か変わることは一大事なのである。

 親の老化を見て痛感している。誰にも避けられない脳の老化がある。そうなってしまうともう感じられない何かがある。すでにかなり進んでしまっているが、今の状態で何ができるのかを考えてゆきたい。

芝居じみた表現

 演劇の表現には生活に応用できるものがある。芝居は限られた時間と空間の中で本当はありもしない世界をあたかもそこに存在しているかのように見せるものである。虚構であることを観客も承知しているから、嘘が堂々と演じられる。

 日常生活で舞台上の所作をそのままやるとおかしなことになる。わざとらしい行動は違和感を越えて不快感になる。何ごとも程度なのだが、ある程度は芝居じみた行動をすることが必要なこともある。

 そういうときは今は悪役を演じているときなのだ、と割り切れるといい。演じていると考えられるならば悩む必要はない。あくまで演技なのだから。

 自分という役を演じているという事実が認識できれば思いきってできることは増えるはずだ。