高校1年の漢文の教材に「雑説」がある。韓愈による名文とされる批判書といえる。世の中には名馬はいつもいるのだが、それを見分けられる伯楽はいつもいるとは限らない。才能があってもそれを見抜けず、結果としてその潜在力を無にしてしまうというのだ。
漢文の常としてこれは馬の飼育方法の話ではないことは明らかだ。才能があってもその才を発揮する機会を得られなければ世間には現れないままだ。だから、人がその才能を発揮するためには、それを認め、引き出してくれる存在が必要なのだ。それが伯楽であり、今でいうなら師匠であり、監督であり、コーチである。企業で言えば上司がそれにあたる。
この話の要点は人を育成するには個々のタレントを評価する能力がいるということなのかもしれない。日本では若い頃に人生を仕分けることに対して、大きな抵抗感がある。実際には生まれた環境によって、個人の人生はかなり決まってしまうものでありながら、わが国の教育は個人の努力の成果を強調する。ある程度のステータスの昇降は個人の努力の成果だと言って憚らない。
結果としてステータス上昇のための学歴が偏重され、それが絶対の尺度のように扱われることもある。業界によっては学歴以外の基準がある。しかし、それも個人の能力の一端を可視化したものに過ぎず、本当の人物評価に資するのかといえば、疑わしいものもある。人間の可能性など他人には簡単に理解できない。それをあたかも人事の秀才のように振る舞う人は、あくまでその人自身のものの見方が当面うまくいっているのに過ぎない。
伯楽は常には有らずという事実は考えてみれば深刻な事態だ。いや、それなら自分から世界の現場に飛び込んで非難と批判に曝されながらも、やりたいことを連呼するしかない。我は駿馬なりと臆せず語ることができるのか。現代社会は伯楽がいないときは自己責任でアピールせよという。理にかなってはいるが何とも殺伐としている。
思うに他人の才能を見出せる人物になることは大事だと思う。利己的にしか考えられなければこの発想は出ない。自ら伯楽になる志を持つことが肝要なのである。
