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2026始まる

 2026年はどんな年になるのだろう。私にとってはまもなく人生の節目を迎えることになる。最後の仕上げの一年だ。といっても、やれることは限られているし、それをとにかくやってみるしかない。毎年、年始には大風呂敷を広げ、勝手なことを抱負として述べることにしている。

 今年はこれまでにやってこなかったことを始めたい。その多くは地味で詰まらないことかもしれない。それでもいい。何もしないよりずっといい。恐らく始めた分だけ、いやそれ以上に失敗があるはずだ。その屈辱や挫折も含めて人生に彩りを加えてみよう。

 その一端はブログにも書いてみよう。恥をかき、かいたものを書く。そんな1年にできたらいい。

存在していることを確認するために

ブログを書くのはなぜですか ?

 内容の質は低いが毎日文章を書いているという事実だけは自らも誇りとしている。参加賞狙いの毎日である。

日記を書くのがなぜ続かないかと思ったら、それは読んでくれる人の存在の有無であろう。私のブログはアクセス数がかなり少ないのだが、それでも頻繁に読んでくださる人もいる。流行りのこととか、有名人の話とか、特別な情報などはないこのブログにお付き合いいただける方がいらっしゃるだけでもありがたい話だ。

これからも思ったことを思いついたままに書いていくから、繰り返しも、矛盾も、誤謬もあるだろう。ただ、文章を書くことによって自分の存在を自分自身が確かめるという営みとしてこれからも続けていきたい。

妄想不足

 学生の頃、小説のようなものを書いた。いま考えても愚かな内容だ。日常にあるきっかけで変化が起きる。それまで出来なかったことが急にできるようになり、それゆえに世界観が激変するという内容だ。

 ただ、自分だけ変わっても結局何もできない。その無力さに気づくと持っていた能力が失われてしまい、虚しさに苛まれるといった筋である。当時よく読んだ小説の二番煎じだ。味付けを当時の生活に引きつけて書いたので、それなりにいいとは思ったが、もう原稿はどこかに行ってしまった。

 同じような内容を今書こうとしたら無駄な注釈をたくさん入れてより理屈っぽいものしかできないだろう。最近、感じるのは妄想ができないことだ。創作にとって大事な一歩目が踏み出せない。

 だから、このブログのような短いエッセイしか書けていない。それでも書けるだけまだましと自分を励ましている。突飛推しもないことを書くのはしばしば創作の代替行為である。嘘は書いていないつもりだが、事実でもない。妄想したいができない自分の苦しみの跡なのだ。

とにかく書くこと

 自分の考えをなんでも書き出すといいという意見に時々出会う。私にとってのこのブログなどはその目的で続けている。質より量というか、継続である。自分で言うのもむなしいが、ほとんどがどうでもいい記事である。ただ、私の場合は毎日何とか続いているので、過去にこのようなことを考えていたんだということを思い出すよすがにはなる。

 これは悪いことではないらしい。私たちの思考は言葉によってなされるが、それがまとまった文章になって初めて思考というものが形成されるようだ。あれこれ思っていても形にしなくては定着しない。だから、無理やりにでも言葉にすることには価値があるというのだ。思いつくまではもやもやとして何も始まらないが、ノートにメモしたり、キーボードをたたき始めると意外にも次から次へと言葉がつながることがある。これは言葉のもっている文法というか自然の流れというものが、思考を育てる手助けをしてくれるからなのかもしれない。

AIが生成したイメージ

 作家とか文筆業の人の中に多作の人がいるが、この最初の思い切りができる人なのだと思う。あいまいでゴールが見えていないのに、書き始めると自然に次の道が見えてくる。それが達人の技なのだろう。とにかく行ってみるのが冒険家だという話をどこかで聞いたが、文章家もそれに近いものがあるのだろう。もちろん、いろいろと調べたり、経験を積んだりすることが必要なことは言うまでもない。それがなければ語る内容が薄くなるはずだ。でも、経験豊富であれば文章が書けるというものでもない。やはり最初の一歩を踏み出す勇気があるかどうかなのだと思う。

 とにかく書くことが大切なのだが、日々を忙しく過ごすうちに日常の路線から少しでもはみ出ることにためらいを感じてしまう。それが新しい考えをすることを拒み、日常の繰り返しに甘んじることにつながっているのだろう。これは加齢もある。年齢を重ねることは経験を豊かにするが、同時に失敗を恐れる臆病さも獲得してしまうのだ。なんでも思いついたことを書くノートは常にカバンの中にあるが、最近何も書けないことが多い。もう一度考え方を改めて、最初の一歩をたくさん踏み出したい。このブログもそのための一つだ。

まずは考えてみること

 今日は書くことがなかなか思いつかない。こういう時は天気の話を書くのだが、それも最近多すぎる気がしている。書くことが思いつかなくなった原因の一つが深く物事を考えなくなったことである。これまでの経験に照らし合わせて、書く必要性を感じなくなってしまっているのだ。これは大きな思い違いであることは分かっている。

 自分の体が日々変化し、細胞レベルではどんどん入れ替わっているというのに、昔考えたことがいまでも当てはまるとは思えない。やはり変わっているのだ。だから、同じようなことを繰り返して書いてもそれには意味がある。それを忘れてはならないのだろう。

 なんでも効率的に無駄なく、冗長性を排除するという考えに染まると自由な発想ができなくなる。すでに自分より有能な人が考えて結論を出していることを自分が考えても意味がないなどと考え出すと、結局何も考えないことになってしまう。これは私だけではなく、現代人にある意味共通している現実のように思う。さらに相手がコンピューターになると無力感が甚大なものとなる。

 稚拙でも準備不足でも自分で考え、そこにあるもので解決を試みることが何よりも大切なのだろう。

ブログを書く人工知能

 このブログのアイコンは先日始まったWordPressのアイコン生成AIサービスを利用して作ったものだ。瑠璃色、別荘などとプロンプトを並べたらできた。タイトルを決めてくれたり、要約を書いてくれたりもする。これらも使ったことがある。何なら本文も書いてしまう。整然とラベリングとナンバリングを施した文章を立ちどころに書く。これだけは採用していない。その椅子を取られたらもう私の居場所がなくなる気がするからだ。

 人工知能は音声入力にも反応するようになるらしい。反応速度も人間並みになり、多言語の同時通訳も実現が近づいてきた。昔、中国の映画で役者が自国語で演じ、あとから中国語を当てて作ったのを見たが、それが実現することになる。日本語と中国語で会話しながらイヤホンでは同時通訳された声が聞こえているというふうに。

 言葉の世界に人工知能が踏み込んでくるほど、人間はその能力の高さに圧倒されそうになる。そして著しい無力感が伴う。これから英語を勉強する意味なんかあるのだろうかなどと考えてしまうのだ。

 よく考えればAIのしているのは瞬時の記号の置き換えと確率的に高い組み合わせの合成であり、個々の意味を理解している訳ではない。言葉にはその場に応じて使い分けなくてはならないものがある。機械にはそこまでは判断できない。言葉は音声や意味を表すだけではないようだ。

 ならばやはり私たちは母語の知識や運用力を挙げなくてはならないし、外国語の学習も不可欠だ。人工知能に何でもお任せという訳にはいかない。

 このブログは今のところ私がスマホで入力して書いている。毎日ネタがなくて苦労している。いっそ今日のブログを書いてと人工知能に命令したくなるが、この苦しみだけはやはり譲りたくはないと思い返すのである。

最初の一歩

 毎日文章を書いていると、何を書いていいのか分からない日がある。そんなときは天気の話題でごまかしているのだが、実は書くことが決まると次々に書けるものである。換言すれば最初の一歩さえ踏み出せればなんとかなるということだ。

 ただし言うは易く行うは難し。その最初の一歩をどこに置けばいいのかで迷うのだ。おそらくその一歩を踏み出す前は、それがある程度継続して自分なりの目的地にたどり着くことを考えている。だから目的地のことばかり考えると行き詰まる。最短距離で苦労することなく進んでいこうと無意識で考えるからだ。でも新しいことを考えたり、始めたりするときはその後の展開は予測不可能である。予測できるものであればそれは新しいものではなく、既に経験したものであろう。だからこそ、最初の踏み出しには困惑と不安がつきまとう。

 そういう意味では最初の一歩はむしろなんでもいいのかもしれない。とにかく始めることによって、考える糸口が生まれる。糸口が分かれば紆余曲折はあっても思考が重ねられる。目的地が仮に北にあったとしても、最初の一歩が南を向いても構わない。最短距離ではないが、道中で得られることは多いはずだ。

 私のブログは大抵がとても短い時間で書くので、論理の破綻や無駄が多いかもしれない。それでもいいと思っている。結果的に何も考えなかったことよりも、下手な思考をした方がいい。

Streak1001

 WordPressによると今日で1001日連続投稿になるそうだ。ブログは日課になっているが、よく続いたものだ。根気とか性格とか言う前に、まずは健康を維持できていることと、なんとか駄文を書く環境を保てていることを喜びたい。そして、許してくれる周囲の皆様に感謝したい。

2023年のブログの復習

世間では

 読売新聞の発表した今年の主なニュースをみると、逮捕、トラブル、失敗、不正という記事が多い。これは事件を報道する新聞である以上仕方がないことだろう。それにしても政治家の逮捕や罷免は多すぎる。また東京オリンピック組織員会の談合、電力会社のカルテル、ビッグモーターやダイハツなどの企業の不正疑惑などいろいろ問題が多すぎた。

 信頼を裏切られるのはつらい。マイナンバーカードのトラブルの連続はデジタル社会の脆弱性を露呈した。ジャニーズ事務所の性加害問題はアイドルに対する夢を打ち砕く大問題だった。

 いいこともあった。何よりも新型コロナの5類以降は非常事態からの脱却の糸口になった。社会を覆った不安のもとが取り除かれたのは大きい。いいことなのか分からないが東証で株価が33年ぶりに33,000円台になった。日本の経済に関しては不安要素の方が大きいが、それでもコロナ禍を脱して次に進む気配は見えてきた。

 スポーツは目覚ましいニュースが多かった。何年ぶりの優勝というのがニュースになった。WBCは大谷翔平らの活躍によって14年ぶりに優勝した。阪神は38年ぶりに日本一になった。優勝間隔の長さならば慶應義塾高校の107年ぶりの優勝というのが突出していた。

 そうだ。何よりも印象的なのにすっかり慣れてしまったために忘れていたが今夏の平均最高気温が史上最高だったことも今年の印象的な出来事だったといえる。

 以上は前置きで、今日は自分のブログの復習だ。各月の記事の中から自分なりに一記事選んでみた。中にはほとんどアクセスがなかった記事もあるが、私としては思いを込めたので再投稿する機会を無理やり設けたというわけである。

1月

 1月の記事では「異次元」という言葉を批判した記事をあげたい。岸田首相が連発する刺激は強いが実態のない政策のキャッチフレーズに疑問を呈したのであった。少子化対策に対して使われた異次元とは結局何だったのだろうか。

2月

 今年は生成型AIが大きく普及した。職場にもChatGPTが導入され、事務的文書はそれで書いてもいいというような指導があった。しかし、このシステムには大きな弱点もある。それを「短歌を教える」という記事で書いてみた。このテーマはその後も何度も書き直している。

3月

 スポーツ観戦の仕方もコロナ時代が明けて過去のものが戻ってきた。WBCでのスタジアムの在り方はそれを実感させるものであった。ただ、日本の野球の応援方法にはこの際グレードアップした方がいいのではないかという意見を書いたのが「応援の仕方」だった。

4月

 コロナの5類以降を間近にして世間ではリモートワークを段階的にやめていこうという動きが出ていた。もっとも私のような仕事はかなり早くからリモートとは無縁になっていた。数年間、避けられていた密集のシンボルである満員電車が戻ってきた。当初はその状態に圧倒されている新入社員らしき人を多く見かけたので書いたのが「満員電車の乗り方」というおせっかいな記事である。

5月

 教員不足が問題化してたびたび報道された。これは10年以上前から予測されていたことであり、はっきり言って行政のミスである。形ばかりで関係業者にとっても迷惑に過ぎなかった免許更新制度の失敗を今ほとんど指摘する人がいないのはなぜだろう。

6月

 生成型AIはマイクロソフトやグーグルという大企業の競争の道具に取り込まれている。いまやEdgeを立ち上げるだけでチャットがいろいろ答えてくれるようになっている。ますます考えなくなっていく人類に未来はあるのだろうか。そんなことを「副操縦士」に書いてみた。

7月

 朝のドラマの影響ではないが、植物に関心をもったのも今年の一面である。道端や公園にたくさん生えているナスによく似た花をつける「ワルナスビ」だが、命名は牧野富太郎であった。この植物は相当なワルらしい。

8月

 デジタル機器が学校に普及して教育が進んだかといえばそうでもない。特に深刻なのが文字を書く機会を奪ったことだと考えている。その端的な現象が漢字能力の低下である。それを「見るだけ学習の落とし穴」で書いてみた。

9月

 とにかく暑く長い夏だった。おそらく将来は四季ではなく二季になるのではとさえ思ってしまった。パソコンの画面下にでる今日は史上最高気温になるといった文字にうんざりしていたときに書いた記事である。

10月

 インボイスという一見合理的だが、実態にはあっていない税制の改革に疑問を持った。たまたまその直接の影響を受ける方とのお話ができたので書いた記事である。私もいまはサラリーマンであるがこの後のことを考えると他人ごとではない。

11月

 世の中は過剰な音楽と光に満ちている。感覚過敏な人に配慮したある商業施設の配慮にいたく共感してこんな記事を書いてみた。いまも時々そう思う。そのBGMいるのか。明るすぎないか。

12月

 実は世間には人知れず善行を積んでいる人もいる。ニュースにでるのは極端に悪いニュースか自分には手の届かないような偉業を達成した人のことばかりだが、身近に利他的な行動を誰にも誇らずに続けている人がいるのだ。自分もそうでありたいと思いながらいまだに全くできていない。

 振り返ってみると、その都度言いたいことを書いてきたが実際に自分が何かを成し遂げたという記事がほとんどない。これがこれからの課題だ。もう人生の後半の後半に入った。体力が落ちないうちにやるべきことをやっておかなくてはならない。

 以上、自分では力を入れて書いたがあまり読まれなかった記事を再投稿した。心ある方はリンクをたどっていただければ幸甚極まりない。それでは皆様よいお年を。あなたにとって来年はきっと素晴らしい年になります。

今年の投稿から

 相変わらず自己満足で書いているこのブログであり、読者のことは考えずに自分勝手なことを書き続けている。だから何度もアクセスしてくださる方には感謝に耐えない。本当にありがとうございます。そしてlikeを付けてくださる皆様にはさらなる感謝を。きっと来年は幸せが訪れますなどと無責任なことを言ったりする。

 さて、アクセスの多かった(といっても本当はとても少ない)投稿からいくつか振り返ってみる。

 4月25日の「不安」はプロンプトにこたえたものだ。不安はよろしくないが適度に不安を感じていることは大切だというようなことを書いた。

 10月22日の「海の異変」は温暖化が原因と思われる海産物の異常を取り上げたものだった。今年も魚の大量死や迷い込みなどのニュースが多かった。

 3月17日の「高層マンション」は建設が進む高層マンションのリスクマネジメントに対して懸念を示した記事だ。

 こう並べてみると不安や心配ばかりだ。他にもいろいろ書いているつもりだが、これが今の自分を表しているのかもしれない。来年は夢や希望を書いた記事が多く読まれることをとりあえず希望してみる。