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結果よりエピソードを

 

 オリンピックでも他の試合でもそうだが、私の場合は結果よりそこに至るまでのエピソードの方が気になる。求めているのはいかに試合にたどり着いたかであり、結果はその経過には及ばないと考えてしまう。

 スポーツを見せるときには、このことを考えた方がいい。テクノロジーでよりわかりやすい映像を作成するのはそれはそれで大事だが、選手の内面に迫るエピソードを紹介するともっといい報道になるかもしれない。

 こう考えると私はスポーツに人間らしい何かを見つけ出そうとしているのかもしれない。

オリンピックは分散開催でもいいのでは

 パリオリンピックは運営上の様々な問題を指摘されている。前回、東京大会では無観客だったために表面化しなかったが、国際試合を短期に同じ都市でやることには無理がある。オリンピックは競技を減らして、行うべきだと言うのが私の考えだ。

 伝統的な陸上競技などの競技のほかは敢えて同時期に開催する必要はない。むしろ競技ごとの特性を活かして独自の運営をすべきなのではないだろうか。

 そのように考えたもっとも大きな理由は、オリンピック開催中の停戦という不文律が全く機能していないことにある。オリンピック開催中はあらゆる戦闘を自粛しよう。そういうメッセージが発信されていない。しているのかもしれないが、成功していない。オリンピックの唯一無二の存在意義が果たされない以上、高額の経費を費やしてオリンピックを行う意味がない。

 むしろ、競技ごとに世界各地域を巡回する大会をした方がいいのではないか。スポンサーの獲得とか運営団体の経営手腕の強化など、克服すべき点は多い。でも、その方が結果的に競技のためになるのではないかと考える。

 東京大会はコロナウイルスのために限定的なサービスしかできなかった。でも、運営上の問題点は概ね解消され、他国選手にも評判がよかったと聞く。ただ、閉式後、数々の不正取引が発覚し、この大会を国民として称賛することはできない。残念だが事実である。

 様々な方面で現代オリンピックはすでに限界を超えていると言える。後付けでスポーツマンシップを付け足してもコマーシャリズムの流れからは逃れられない。ならばこの形のオリンピックは止めてもいい。

 よく言われているように、参加国が相応の参加料を支払って競技を行うにとりあえずギリシアを会場とすればいい。ギリシア国家はこの方面の負担はいらない。スタジアムの建設は参加国と寄付金の供託金で行ない、それ以上のことはしない。ギリシア以外に開催を希望する国があればそこでやるのもいい。

 いわゆるマイナースポーツだけ開催されるオリンピックには商業的な旨味はないかもしれない。でも、スポーツにとってはその方がはるかにいい。そして忘れてはならないのは平和へのメッセージだ。オリンピック開催中はあらゆる戦争、紛争を中断すること。それが発信されなくてはそもそもオリンピックをする価値はない。

同じことがあなたにはできるのか

 観客のヤジは度を過ぎると醜いものがある。かつて球場でプロ野球を観戦しているとその類の人がいたが、周囲の目もあり、ある程度の自主規制はあった。中には別の観客から注意されることもあり、歯止めがかかることもあった。

 それと同じことをネットでやってしまうと問題が起きる。誰も止められない。匿名で言いたい放題を言って、誹謗するのは困ったことだ。言った側はそれで気が済むのかもしれないが、言われた側は深く傷つく。

 実は訴訟の対象となればソーシャルメディアの発信源の特定は可能であるらしい。匿名でも様々な方法で特定できてしまう。露見すれば民事及び刑事の処罰対象となる。言っておしまいにならないのがこの問題の根深いところだ。

 スポーツ選手に対する中傷は、敬意の欠落によるところが大きい。同じことがあなたにできるのか。冷静に考える必要がある。

言葉の力

 パリオリンピックで体操男子団体で金メダルを獲った日本チームを支えた萱和磨主将の鼓舞の言葉が大きく報じられている。日本のエースの橋本大輝選手が鞍馬種目で失敗したとき、すかさず駆け寄り「絶対あきらめるな」と何度も鼓舞すると、橋本選手や他の選手も一層の団結を固め、勝利に向かう強い気持ちを高めることができていた。

 ほとんど実力差がない中国のチームとの勝敗を分けるのはミスをしないこと。しかし、そのためには強い気持ちでいかなくてはならない。その気持ちを言葉によって支えたのが主将をはじめとした選手同士の声の掛け合いであった。中継にもその一部が収録されており、こういう状況での言葉の力というものを再確認した。

「あきらめない」という言葉にどこか素直になれない昨今の風潮の中で、今回のエピソードは大きなメッセージとなった。懸命に努力することを軽視しない姿勢は多くの人に感銘を与えたに相違ない。それを支えた鼓舞の言葉を覚えておきたい。


パリの選手村

 パリオリンピックの選手村では前回の東京大会同様、段ボール製のベッドが採用されたという。耐久性はあるが、寝心地というと疑問符がつくらしい。日本のメーカーのものである。

 それより問題視されているのが冷房設備がないことだ。アメリカや日本は簡易冷房設備を自前で持ち込んだらしい。財力の有無が選手の環境に影響を及ぼすのはよろしくない。環境対策というが、これは見直すべきだろう。

 東京大会では様々な規制があって選手の交流も最低限のものになった。今回どのようなドラマがあるのだろう。競技だけがオリンピックの全てではない。

パリ五輪始まる

 オリンピックが開催されるフランスのパリの気温をネットで調べると、最高気温が30℃より少し低いくらいで、最低気温は10℃台の後半の日が多い。東京よりは随分ましだ。

 オリンピックは何事も起きなければいい。早くもサッカーの試合で観客の乱入があったようだ。人が傷つくことがないように、友好の輪が広がるように祈りたい。

 戦闘地域は会期中の戦闘を一切やめてほしい。商業化したオリンピックだがこの基本精神だけはなんとか生き残ってほしい。

ボール競技好調

 バレーボールやバスケットボールなど長らく低迷していた競技の国際試合の成果が最近素晴らしい。こうした競技は体格差が勝敗に反映されやすいので日本チームは不利だと言われてきた。最近の好調にはどんな要因があるのだろうか。

 一つには東京オリンピックを見据えた選手強化の遺産がある。こうした競技は主に実業団のチームが中心だったが、いまはプロ契約をするクラブチームに変わりつつある。極めて狭き道ながら、競技で身を立てることが可能になったことは士気を固める効果になっている。

 二つ目には野球やサッカーなどに比べてマイナー競技とされていたのが、格上げされつつあることにあると思う。それにはこれらの競技を扱った漫画が幅広く認知されたのも無関係ではない。サッカー選手が「キャプテン翼」に影響されたように、「SLAM DUNK」や「ハイキュー」の影響は少なからずある。もっともこれはこれからの世代に関わるのかもしれない。

 プロ化、大衆化は競技ごとの強化には基盤となるものだ。もちろん一番は選手の奮闘努力であり、他には替えがたい。それを支える環境をどのように作るのかと国際試合の成績は深い相関があるように思う。

和製英語

 アメリカの野球中継を見ていると知らない言い方がたくさん出てくる。ヒット・バイ・ピッチやベースィズローディドなどは早めに覚えたが他にも意外なものがある。野球を通して英語を覚えたつもりだったがデッドボールもフルベースも英語圏では使わないらしい。

 和製英語と呼ばれるものは他にもたくさんある。コロナの頃にはしばしば耳にしたピークアウトはいかにも英語のようだが日本人が作り出した言葉らしい。外国語まで和風にしてしまうのはこの国の人々の得意な才能と言ってよい。

 野球の言葉がたくさんの和製英語でできているということは、それだけこのスポーツが日本で愛好されてきた証拠だ。ナイターを観に行くなどというのはおかしいと言う前に、ナイターという日本にしかない夜の試合を表す日本語として使い続ける方がいいのかもしれない。

勝てばいいというわけではなく

 日本大学のアメリカンフットボール部が廃部するという。幾多のスキャンダルや薬物疑惑が続出したからには仕方がない。残念なのは日大を目指してフットボールを日々練習している選手諸君である。

 内部事情は分からないから、的を射た指摘になっていないかもしれないが、彼らはあまりにも勝負にこだわりすぎたのかもしれない。勝てばいい。勝利こそ正義と刷り込まれてきたのではないだろうか。勝って得られる報酬が大きすぎるあまりに、肝心なモラルとかマナーとかをあとに回してしまった可能性がある。

 私たちがスポーツに求めるのはもちろん勝率は欠かせないものの、それ以上に生き様を端的に見せてくれることにある。そして、何度でもやり直せると思わせる夢の提供が魅力だ。

 それが一部の優秀なタレントにフィールドを独占され、勝てば何をやっても許されるような雰囲気の中で戦うことになれば、次第に選手の心根も変わってくる。ボールを追いかける純粋な気持ちは勝敗なり、パスの成功率という数字に変換されてしまう。そこにはもう個人はない。

 最近、いろいろな日本代表チームが好成績を残しているので誇らしい限りだが、勝つために個人や社会の何かを壊しているのなら評価はできない。それなら負けた方がいい。勝利至上主義ではなく、そこに選手の生き様を見ることが私たちの求めていることだと信じる。

内戦の国、シリア

 FIFAワールドカップ予選で日本はシリアに勝利した。この試合の中継は日本のメディアによってはなされなかった。法外な放映権を要求されたことが原因という。ネット上ではこの事態に関して日本のサッカー協会の判断をおおむね支持しているようだ。相手の言いなりにはならないということをピッチの外で示せたという評価だ。

シリア

 この放映権料がもし支払われたとしたら、何に使われたのだろう。想像に過ぎないが、シリアで今起きているのは内戦である。それも多極化したまさに戦国時代のような様相だ。追い打ちをかけるようにトルコ地震の被害もあった。放映権料はインフラ整備よりも軍事費に充てられたに違いない。その意味においても今回中継を断念したのは好判断だったといえるのかもしれない。

 シリアの国情は調べるほど複雑で、宗教、宗派、民族、外国政府、隣国の状況、歴史的ないきさつなどが複雑に絡み合っている。もつれた糸をほどくのはかなり困難で、むしろ米露仏などの介入で被害を拡大しているともいえる。パレスチナ問題もしかりだが、中東地域はさまざまな問題が多い。これをどのように治めるのかは世界の課題といえそうだ。

 サッカーは圧勝したが、相手の国情を知ると素直に喜べない。平和な状況で対戦すれば、そして自国で開催できたならもっと強かったのではないか。いろいろあるが日本がスポーツに専念できる人を持てていることには感謝しなければならない。そして、世界平和に貢献できる人材を輩出しなくてはならないとも思った。