このところ猛暑日が連続し今日もかなり暑い一日になりそうだ。30℃位を涼しく感じる感覚の麻痺が起きている。
そういえば昨日始めてセミの声を聞いた。もっと前から鳴いていたのかもしれないが気づかなかった。昨年は最初の猛暑日あたりではセミが鳴かず、しばらくしてから鳴き始めた。自然のリズムも狂っているようで、この先どうなるのか予測もつかない。
今日も近くのカフェと図書館に避難することになる。ある自治体ではクーリングシェルターというそうだ。言い得て妙だが、そう言った後で余計暑さを感じている。

日々の思いを言葉にして
カテゴリー: スナップ

近隣のショッピングモールに植えられたムサシノケヤキが紅葉していた。照明に透けて見える葉の色は不思議な鮮やかさだった。すでに落葉が始まっているので、この光景も数日限りだろう。
新暦の9月9日である。旧暦の世界では重陽の節供であり、陽数の重なるありがたい日だ。
一方で日本語で九は苦という音と同じであることから避けられることがある。部屋番号などで四(死)と九(苦)が忌避されるのは迷信の類によるものだが、現代でも気にする人は多い。
9月は本来いい季節だと思う。暑さが収まり海山の幸も豊かになっていく。大きなイベントもなく、ゆったりと過ごせるはずだ。しかし、実際はそうでもないらしい。9月を自殺予防強化期間とする地域は多い。転勤や新学期などで環境が変わることが過度の緊張感を生み出すからであろうか。
緊急事態宣言延長で9月はすべてコロナ対策に捧げることになった。9月が苦となるかはまだ分からない。

ふらりと近隣の市の城趾に来てみた。早朝ゆえ人影は少なく、ひっそりとした山城を訪ねた。急な階段を登って本丸跡と呼ばれる空間にたどり着くと山藤の見事な株があった。鮮やかなしかも派手すぎない色彩は少々敏感になっている心に染みた。
生徒諸君が受ける模擬試験の古文に柳の挿し木の話があった。難しさを売りにしている試験なので恐らく出来はそれほどよくないだろう。ただ、思うに文法や単語の知識以前に、柳が挿し木で増えることをどれだけ知っているのだろうかということが気になった。
古典文学に限らないが、過去の文章を理解する上で必要なのは文化的な背景の理解であろう。植物を育てる経験をほとんど持っていない若者たちに挿し木の話は理解しにくい。価値観の違う時代のことが分かるためには手続きがいる。
挿し木にまつわる問題を見て感じたのは文化の伝達は記号だけでは完成しないということだ。それにまつわる経験や価値観の伝承があって初めて達成されるのかもしれない。
