エスニック

 オリンピックのモンゴル代表のユニホームのデザインが話題になっている。また男子サッカーで日本と対戦したマリのユニホームも評判がいい。両者に共通するのは伝統的な民族衣装をモチーフにしたことである。

 グローバル化が前提となるスポーツの世界では、画一的なスタイルが生まれやすい。大企業がユニホームの製作を独占する状況にあっては余計その傾向が強くなる。国旗の色などを基準として配色は違っても似たり寄ったりのものになりやすい。

 その中にあってデザインの世界は少々融通がきく。素材や形態はルールである程度決められるが、色彩についてはそれより規制がゆるやかだからだ。その国独自の伝統文化が反映されるとユニークで美しいと感じられることもある。

 日本のユニホームにも、伝統色の藍色を使ったものや、古典芸術に似せた紋様をあしらったものがあった。このような試みは続けていくべきだと考える。






水泳選手が広める泳がない方法

 岩崎恭子さんといえば中学生でバルセロナオリンピックの金メダリストになったことで知られている。今まで生きてきた中で一番幸せというコメントを残した当時14歳であった。彼女はあまりに注目されすぎたことが負担になったのかその後まもなく競技選手を引退し、プライベートの生活も山あり谷ありであったようだ。

 その彼女がいま普及に努めているのが着衣泳(着衣水泳)であるという。水難事故の多くは着衣時に河川や海に転落して起きる。服を着たままだと水泳のフォームで泳ぐことはかなり難しい。溺れることにつながりやすいというのだ。そこでどのようにすればいいのか日本赤十字の紹介する動画を視聴してみた。

 ご覧になれば分かるが、着衣泳といっても泳がないのだ。仰向けに浮き救助を待つというのが目的となる。着ている服は泳ぐのには適さないが、場合によっては浮きにもなり、体温の低下を防ぐことにもなる。口や鼻を水面より上に確保することで救助を待つ時間が稼げるというのだ。

 救援する場合も極力入水せずに行うことを推奨している。浮きになるペットボトルやレジ袋などを投げ入れ、声によって励ます。これが鉄則だというのだ。二次災害を防ぐためにはこうするしかない。私自身が幼いころに水難未遂がある。だからこういう情報は無視できない。学校でも積極的に教えていく必要があると思う。

 速く泳ぐことを追求してきた水泳選手が、動かずに長く浮くことを目的にした「水泳」の普及に努めているというのは実に興味深く、素晴らしい転身のように思えるのだ。

ご主人のためなら

 主君のために命を惜しまないというのは美徳として語られる。心情的には忠義の精神には感動することが多い。でもよく考えてみると、主従関係が自らの人生にまでかかわるのは異常ともいえる。なぜ、主のために自己犠牲ができるのか。

 社会を大きな家族として考え、年長者を敬い、主人に真心を尽くすという儒教的概念は日本文化の底流にある。この考え方では個人の生き方より、社会として組織が成立することを重んじる。だから、主の考え方に家来が従うのは当たり前であり、そこに疑問はない。そういう思想的背景があるのだといえる。

 日本人に限って言えば、島国のなかのさらに小さく分断された村の中の限られた人々のなかで人生の大半を過ごすために、そのなかで対立することなく調和して生きることが選択されてきたといえる。そのためには個々人の利益より村社会全体の存続が重視され、その中で出来上がった組織が絶対化されたのであろう。

 こうした社会風土では個々人の意思決定の機会は限られ、むしろ何をするのかを勝手に決めないことの方がよしとされる。個人は精神的に他者と融和することが求められ、結果として自分では何も決められない民衆が発生することになる。この状態は現代の私たちにとって耐えがたい社会の在り方だが、案外、近代以前の人々にとってはすんなりと受け入れられていたのかもしれない。だから苛烈と思われる時代でも反乱がおきずにかなり長い期間継続することもあった。

 日本の軍記物などを読むと個々人の個性はあっても、生死を分ける場面となると非常に単純化してしまうように思う。勝敗を分けるのは戦力の優劣があるが、それと同じくらい主君の感情の在り方が左右する。どんなに優勢でも主人の気持ちが曇るとそれが瞬く間に臣下、軍勢に影響し、大逆転を許してしまう。組織の構成員の精神状態がリーダーの感情に同期してしまうのだ。近代的な個の誕生以前の人心の動きというのはそのようなものであったのだろう。

 現代社会でもこのような現象が生まれつつあるのかもしれない。いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人の言動を無批判に受け入れてしまう。これはもしかしたら、前近代的なものの考え方が復活しているのではないかとも思えてしまうのである。リーダーとなる人がいわゆる聖人であれば問題は起きないかもしれないが、利己的な考えを持つ人が影響力を獲得したときの悪影響は計り知れないものがある。

 

パリの選手村

 パリオリンピックの選手村では前回の東京大会同様、段ボール製のベッドが採用されたという。耐久性はあるが、寝心地というと疑問符がつくらしい。日本のメーカーのものである。

 それより問題視されているのが冷房設備がないことだ。アメリカや日本は簡易冷房設備を自前で持ち込んだらしい。財力の有無が選手の環境に影響を及ぼすのはよろしくない。環境対策というが、これは見直すべきだろう。

 東京大会では様々な規制があって選手の交流も最低限のものになった。今回どのようなドラマがあるのだろう。競技だけがオリンピックの全てではない。

パリ五輪始まる

 オリンピックが開催されるフランスのパリの気温をネットで調べると、最高気温が30℃より少し低いくらいで、最低気温は10℃台の後半の日が多い。東京よりは随分ましだ。

 オリンピックは何事も起きなければいい。早くもサッカーの試合で観客の乱入があったようだ。人が傷つくことがないように、友好の輪が広がるように祈りたい。

 戦闘地域は会期中の戦闘を一切やめてほしい。商業化したオリンピックだがこの基本精神だけはなんとか生き残ってほしい。

江戸の奇人伝

 江戸時代の随筆を読んでいると人間というものはいつの時代でも愚かで何をするか分からないものだと思う。そしてそういう人たちのことをいちいち記録していくことに価値を見出すというのも面白い。いわゆる「奇人伝」の類は類書が多く、どれもがくだらなくそして面白い。
 人間の生きざまに関心が持てるというのは文化的には大切だと考える。他者に関心がなくなると想像力も創造力も失われる気がする。自分とは違う価値観を持っている人を見逃さないというものの見方が大切なのである。もちろんその多くは噂話で信憑性が低く、中には明らかな嘘も含まれている。文学とは言えないが、その嘘には文学に生まれ変わりそうな気配が感じられるものも多数見つけることができる。
 こういうものを読むときは何らかの目的は持たない。それで何かが得られるということは期待していない。結果的に日本の文化のあり方を知ることができるのかもしれないが、それはあくまで結果的にそうなるということに過ぎない。でも、そういう読み方も必要な気がする。何のためでもないが、興味が惹かれることを少しずつ読んでは味わっていく。それが読書の楽しみであり、ある意味理想である。そんなものを読んで何になるのという問いを堂々とやり過ごしたい。

ハリス大統領なるか

 バイデン大統領が次の大統領選挙から撤退する旨の発表があった。有能な大統領とはいえ、高齢には勝てない。最近のふるまいからしてアメリカ大統領の職は重過ぎると感じていたため、勇退は大いに歓迎である。日本国民としては大いに賛辞を贈りたい。

 トランプ大統領候補はおそらく人間的には魅力的な人なのだろう。しかし、彼のような考えの人がアメリカのトップに就くのは不安しかない。自国優先で国際的感覚に欠如しており、ポピュリズムの操作には長けているが人を幸せにはできない。それは先の任期で証明されたはずなのにアメリカの国民は不都合なところには目をつぶってしまう。

 カマラ・ハリス副大統領は、父はジャマイカ系、母はインド系である。両親は離婚しているというアメリカ人には多いケースである。私としては性別やルーツは考慮のほかである。アメリカ人の考え方もかなり重層的らしく、白人男性至上主義はいまだに残っているようだ。そうするとハリス氏はかなりの逆境となる。

 トランプ氏が銃撃を受けた後の演説の報道を見ると、かつて独善的、煽情的な論調が戻ってきてしまったと思われる。共和党はもっといい党のはずなのにすっかりトランプ党になってしまっているのが残念だ。選挙に勝つことを優先してしまうアメリカ的民主主義の限界を見事に体現している。アメリカでも割の合わない仕事をしている労働者階級を、民主党が吸収できるのか、共和党が懐柔するのかで選挙の情勢は大きく変わる。民主主義の哀れさが露呈するのがアメリカの政治の在り方なのだろう。

 日本人の私にとっては誰が大統領になっても付き合っていくしかない。そして非力ながら、かれらのすきをついて異議を唱えて何とか立ち回るしかない。トランプさんよりハリスさんの方が気持ちを分かってくれるかもしれないという期待が少し大きいだけだ。私の言うことではないが、アメリカ国民には誇り持ってリーダーを選んでほしいと思う。

恐怖の記憶

 水難事故になりかけたことがある。小学生の頃だった。海水浴に来た私は調子に乗って弟の浮き輪を少し沖に進ませていた。足がつくうちはよかった。どうもその海は引き潮があるらしく、少しずつ沖に流されていた。それに気づかなかったのである。

 浜で父が慌てているのが見えた。かなり波が強くなっていたらしい。足が浮いて動揺してきた。少しずつ増してきた恐怖はその時跳ね上がった。弟は浮き輪に揺られていたので気づかなかった。溺れるかもしれないと思ったとき、恐怖が形になってきたのだろう。

 幸いそれに気づいた近くの大人が私たちを陸まで導いてくれたので、海神の供物にならずに済んだ。おそらく小学生には耐えられなくても大人なら何とかなる程度の波だったのだろう。海水浴での海難事故の多くはこのような境界的な状況で起きると推測する。

 この時の記憶は数年おきに脳裏に浮かび上がる。よほど根源的な恐怖体験であり、長期記憶に刷り込まれて今に至るのであろう。浜辺での遊泳はうかつにはできないことを身に染みた。結果的には有益な体験であったともいえる。

 このような人生観を変える体験はおそらくこれまで何度となく繰り返しているはずだ。ただ、その大抵は時間とともに忘却の波にのまれていく。恐怖を乗り越えたのではない。未解決のままなのだ。なんとかしなければ、と思う気持ちが記憶の隅に堆積されていく。それが強みにも弱みにもなっていく。水難未遂のこの経験はそのうちの一つであり、これからも引きずっていくものなのだろう。

酷暑続く

 このところ猛烈な暑さが続き、明日からも濃い赤の太陽アイコンが並んでいる。とにかく暑い。自然と集中力も落ちるようで何かを考えようとしてもまとまらない。暑さを言い訳にはしたくはないが、このままではいけないと思う。

詩を読む意味

漢詩に関する本を読んだ。どの詩でもそうだが、どのように読むのかは読者の関与するところが大きい。なるべく作者の意に沿うようにと思うが、他人の気持ちは分からない。まして、過去の偉大な詩人の心となると理解が届かない。

それでも詩を読むのには意味がある。なるべく作者の創意に近づこうとすることで、心が研ぎ澄まされる。他者のことへの関心が高まることは、そのまま自分の理解にも繋がる。そういう時間があってもよい。