中華という日本料理

 中華料理というのはとても人気がある。中国由来の料理であるとされるがその中には日本でアレンジされたり、日本で発明されたものも多いと聞く。

 ラーメンは日本に渡ってさまざまなバリエーションが生まれ、中国にはない味もたくさんあるという。和風中華の最たるものだ。餃子は中国では蒸したり煮たりするのが中心で焼きはしない。麻婆豆腐は辛味をかなり抑えて日本人向けにした。天津飯は天津にはなく、餡掛け飯は恐らくどこかの家庭料理だった筈だという。

 私はラーメン餃子のセットを頼むことが多いがいずれも中華風日本料理ということになる。これに限らず日本は和風化の得意な国だ。ただ、その元祖への敬意を失わないことも特徴で本場中国風などという形容もよく取られる。文化の取り入れ方の特徴だろう。

秋の声

 秋の快適な1日だった。窓を開けると遠くから子どもたちが歓声を上げて遊ぶ声が聞こえた。風もなく、空気も澄んでいた。

 秋の声という季語がある。元は漢文に由来するらしいが、言い得て妙である。爽やかに澄んだ空の下にいると、普段の喧騒でさえ、趣あるものに感じてしまう。それをなんとか言葉にしたいが見つからない。まさに秋の声というしかない。

 明日から少し荒れる予報が出ている。秋の良き日ははかない。暫くすると凍える季節になってしまう。せめて穏やかな陽気の日が少しでも多いことを祈る。

日の出がこれから

 今朝の日の出は6時02分だった。だいぶん遅くなった気がする。つい先日まで日中の「残暑」が激しかったため、秋の実感がなかった。でも、日照時間は確実に減っていた。

今年の冬至は12月21日で日の出は6時47分なのだそうだ。これから約50日は日々朝の訪れの遅さ、夜が来る早さを実感することになる。秋の次に隣り合わせに冬がある。

多忙

 ここに来て超多忙のドロ沼にはまっている。こういう状況になると物事を考える余裕もなくなる。この波を乗り越えるまでの辛抱だ。

秋の雨

 午後から本格的な雨となった。これまでとは違い、肌寒い雨だ。ようやく本当の秋になったと言える。少しうれしいが、着るものをどうすればいいのだろう。秋の雨はやはり少しもの悲しい。

絵の評価

 ピカソやミロの絵をどう評価するのかはその人の価値観に大きく影響する。例えピカソが本当は写実的な絵画を描くことが出来る画家であると知っていても、それを作品の鑑賞に持ち込むことは結局は個人の価値観による。

 ところが、実際の評価基準は少し異なる。多くの人々の絵画の評価は自分ではなく、他者の評価によるところが大きい。評価史のようなものが前提としてあり、その時代の評価基準に従って絵画を鑑賞する。キュビスムならまだいい、容易に解釈できない抽象画となると、判断すらできないが、美術史の文脈でその価値を説明されるといいもののように感じてしまう。

 絵と向き合い、自分なりの見方をすればいい。そういうのは簡単だ。しかし、話はそう単純ではない。そもそも絵と向き合うということ自体が結構難しい。美術館に並べられた絵をタイトルや画家の名前が書かれた表示から見る人の多くは絵に向き合っていない可能性がある。

 ことは絵画鑑賞だけではない。対象を先入観抜きで見ることができる人は少ない。私の場合はどうしても能書きから先に見てしまう。物理的なものもあれば抽象的なものもある。ステレオタイプのものの見方をして満足することが多い。

 虚心に見るとことは意外に難しい。しかし、この経験は時々やらなくてはならないと思う。なんだか分からないが心惹かれる。もしくは説明不可能だが危険な感じがする。そういう経験をすることが、人生を豊かにするのだろう。

政権交代は夢の夢なのか

 衆議院選挙は大方の予想通り、自民党が大きく議席を減らすことになりそうだ。立憲民主党や国民民主党等がその分議席を獲得することになる。ただこれは積極的選択の結果ではなく、自民への失望が野党へ流れただけだ。

 近年の自民党のあり方からすれば政権交代もあって当然なのに、それが起きない。これはいかに野党の力が弱いかの証だろう。果たして彼らに政権運用ができるのか。その不安の方が大きい。前回の民主党政権では東日本大震災というアクシデントもあり、十分に能力を発揮できなかった。リベラル政権の宿命として、どこか中途半端になりやすい。背景の勢力からの圧力もあろうが是々非々で進めてくれなければ政権を託すことはできない。

 政権交代はその後の交代も含めた概念だ。政党が緊張感を持って政策にあたることこそ民主主義の根本だ。自民党は長期政権でその緊張感を失っているし、野党は政権を本当に取りたいのかと思われるほど、単なる反対党になっている。

 日本がこういった政治家たちでなんとかなっできたのは奇跡というしかない。どう考えても衰退の兆候が打ち消せない現状に明るい希望を与えてくれる政治をしてくれる党がほしい。

偶然の写真

 スマートフォンの写真機能で誰もが簡単に写真を撮れるようになって、写真を撮る機会も取られる撮られる機会も増えた。かつては写真を一枚とるのも緊張感が伴い、うまくいかなくても撮り直しはできなかった。デジタルカメラの普及でそうしたプレッシャーはなくなった。

Photo by Luis Quintero on Pexels.com

 さて、被写体となる機会も増えたのだが、その多くは同意なきものである。撮影者に悪意がある場合は別だが、ほとんどの場合風景の一部として映り込むことになる。例えば観光地の風景を撮る場合に、その場にいる別の観光客が自然にフレームの中に入っている。撮る方はその人たちに対する思いはないから、撮るときも撮ったあとも彼らに対しての関心はほとんどない。よほど奇抜な格好をしている人でない限り、意識されすらしない。そしてそれはデジタルとしてあるいはプリントされて保存され、何度か見返されることがあるかもしれないが、大抵はそのままお蔵入りする。

 ここで少し妄想してみる。偶然映り込んだ人々のそれぞれの人生が分かったらもしかしたら驚くのかもしれない。なぜその地に来たのかという過去への遡及、そしてその後の人生について。神のような視点に立つならば、その偶然の写真の中に実は様々なドラマが集まっていることが分かるはずだ。この後、結婚して家族になるかもしれない人が映り込んでいるといったロマンティックな想像は楽しい。あるいは、この後社会的経済的な大成功を収めて大きな影響力をもつ人物が含まれているとか、宿命のライバル同士が写っているとか、凶悪犯罪を犯すことになる人物がいるとか。いずれも単なる想像にすぎないが、写真という一つの枠で世界を切り取り、固定することで世界はまた違ったものに映るのかもしれない。

 そしてそれは他人だけではない、他人にとって他人である自分もまた、誰かの写真に切り取られて保存されているのかもしれない。それは誰にも分らないことなのだ。

ローカル・ルール

 その場所、地域だけで通用するルールがある。その多くは明文化されておらず、仕来りといった言葉で表されることも多い。よそ者にとっては理解が難しいので、不公平とか不正と映る。何事もグローバルを志向する現代社会においてこうしたものは悪しき因習とされる。

 一方でこうした内輪の約束は少なくともその地域の安定を図るためには有効である。ここではこのようにふるまうべきだという決まりがあれば、迷うことなくものごとを進められるからだ。結果的に余計な手続きを踏まずに結論を出すことができる。批判に関してもローカル・ルールを共有していればかわすことも容易だ。

 もちろん、不公平もよくないし、地域の暗黙の了解で物事が進むのもよくない。これは択一ではなく、両者の良いところを組み合わせ、融合すべきだろう。ローカル・ルールの役割を再評価し、その問題点を克服できるようにしていかなくてはならない。






言葉と経験

 聞いてもわからないものがある。見てもわからないこともある。本当に分かるということは自分でそれが説明でき、再現できるということなのだろう。そのためには言葉の運用力が必要であるし、それを裏付けるさまざまな経験の蓄積というものも要る。

 自分のことをいえば、最近はこの方面の努力を怠っている。自分で説明できなくてもとにかく使えればいいとか、その場をしのげればいいと安易に考えてしまう。そしてそういった情報は無数にあり、検索すれば比較的容易に抽出できる。

 仮にその場をしのげたとしても、理解のない知識は応用が利かない。蓄積も難しいから、常に初期状態のまま進歩しないといってもいい。それでは新しいことはできないし、そもそも他人の言ったことを引用するだけでは何も生まれない。

 上滑りの知識を弄するだけの人生にならないためにはやはり言葉と経験を豊かにするしかない。そのどちらかではなく、どちらも必要だ。人によってできる程度は差がある。ならば私は自分のできる範囲でものを語り、偏らない経験を積んで知の幅を広げるしかないと考えている。それがこれからの私の課題である。

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