七草

 新暦の七草が実態に合っていないことは明らかである。でも、いまはハウス栽培の七草もあるし、フリーズドライやレトルトの七草粥もある。新芽の生命力をいただくという主旨からは外れるが格好はつくのだ。七種類がなにであるのかを気にするより、多種の新芽を食して自らの命の糧とすることに意味がある。自然に感謝し、この厳しい季節を乗り切りたい。

悪夢誘引

 上方系の落語に「天狗裁き」というのがある。それがたまたまラジオの寄席番組で演じられていたので聞いてしまった。「てしまった」というのはその後の結果に関わるのである。深層心理の恐ろしさというか、自分の精神管理の未熟さというかそういうものに悩まされてしまったのである。

 「天狗裁き」はある男が妻に起こされ、いまとても幸せそうな顔をして寝ていたがどんな夢を見ていたのかと問われることから始まる。男は何の夢も見ていないというと、そんなはずはないと妻が立腹する。その様子を側聞した長屋の隣人が夫婦喧嘩の仲裁をする代わりにその夢を聞かせてくれという。男は夢など見ていないというと、その隣人も立腹し喧嘩になりかけているところに長屋の大家が通りかかり仲裁すると、私にはその夢の内容を聞かせてくれと言う。男は夢など見ていないというとこの大家も激怒して話さないなら長屋を出て行けと言われる。男は奉行所に訴えると、奉行はくだらないといって裁きを中断し、人払いをした後に私にだけは夢の内容を教えてくれるなと耳打ちされるが、男はもともと夢など見ていないというので拷問される。その中で意識が異界に飛んで天狗が現れ、そなたの痛みを救いたい、その代わりに夢の内容を教えてくれという。男は夢など見ていないとうろたえているときに、妻の声が聞こえ、あなた何の夢を見ていたのと問われる、とそんな内容であった。少し違うかもしれないが。

 よくあるパターンの落語であるが相手の格がだんだんと変わりながら、結局同じことを繰り返すのが面白い。最後が夢落ちになっているのもよくできている話だ。この話を聞いていろいろ感心してしまった。

 そこまではよかったが、その後私が本当に眠りにつくと悪夢が次から次に浮かんで寝苦しい。それを打ち消そうといろいろ努力しても、そう思うたびに悪条件が積みあがっていくような展開になっていったのである。悪夢はそれだけで精神を疲弊させるが、この時の夢は波状攻撃的ダメージを与えるものであった。夢に苦しむのは久しぶりであったといえる。

 この夢は落語で聞いた話の反芻を行ううちに脳内で起きた一種の暴走なのだろう。私にはこういう夢でのアレンジがとても多い。それを覚えていて文字にでも書ければ面白い話でもかけそうだが、大抵の場合起きてすぐに忘れてしまっている。あるいは覚えていることもかなりとのすり合わせの上で修正された末の形である。楽しい落語が悪夢を誘引してしまったいう話だ。悪夢を逆夢として跳ねのけて明日からは生きていくことにしている。

教育ビジネスの隘路

 教員生活を長く続けていてよく言われるのは効率的に短時間で効果を上げよと言うことだ。具体的には模擬試験の偏差値を上げることである。偏差値が少しでも上がれば褒められ、下がると烈火の如く避難される。実におかしな世界だ。

 考えなくてはならないのは、それでいいのかという現状批判だ。私のようなロウトルはある程度好きなことが言える。開き直りと受け流しの技も備えている。その上で言いたいのは、細かいことに拘りすぎると本質を見失うと言うことだ。

 不本意なやり方で業績を上げて意味があるのだろうか。短期的に数字を上げてそれに意味があるのか。私は大いに疑問に思う。数値目標を掲げることは大切だが、短期的な結果だけであれこれ言うのは無意味だ。

 次に何をすればいいのかを考えることが大切なのに終わった記録に拘り過ぎては前に進めない。教育に商業主義が重なったときおかしな誤解が生まれる。教育の専門家なのにどうしてこんなに根本的な間違いを犯すのか。

初めてのことのように

 細かいことを気にするなという言葉がある。確かにそれは処世訓としては的を射ている。ただ歳を重ねるとその金言は時に害悪になる。細かいことを気にするべきだろう。

 小異を捨てて大同につけというのは大抵の場合正解だ。些細な違いに気を取られて本質を失うのは愚かである。でも高齢者にとってはこの言葉は毒にもなる。歳を重ねると物事の分節化がかなり概括的になる。過去の経験知からこれはこのようなものだろうと決めつけてしまう。おおよそそれは間違いではないから、ますますその傾向は強くなる。でもよく考えみよう。同じことは二度と起こらない。そしてたとえ似ていたとしても背景の要素がまるで変わっている。

 だから、私の最近の金言はこれまであったことを初めてと考えよということだ。私のいまの経験を大切にして過去の経験知を敢えて後ろに回せということなのである。これには相当のかっこ悪さがある。でも、要領よく無難に切り抜ける代わりに何も得られないよりは、失敗があってもリアルタイムに現状と向き合える方がよほどましなように思えるのだ。

 おそらく、こんなことを言ったら、それは余裕がある者の意見であり、本当に困窮したらそんなことを言っている暇などないと一喝されそうだ。その点には異論はない。ただ、何もせずに暮らすよりは、何かをした方がいいのかもしれないいう形に人生を捉え直したい。真新しい明日を生きるために。

教員はいなくなるのか

 年の初めには過去を振り返るよりも将来を考えることが多い。ただ、私のような年齢になると未来を考える際に過去の経験を参照しすぎる傾向にある。前例にこだわりすぎてはならないと自戒するものの、やはり過去の例からものを考えなくては何も始まらない気がする。教員という仕事が将来なくなるという人がいる。AIの教育ヘの応用ができれば一斉教育をする教員という人間よりはるかに効率よく教育ができるというのである。これは半分当たっていて、半分間違っている。だから教員の未来予測については意見が分かれるのだろう。

 確かに一斉教育の弱点は個々人の能力や特性に配慮が届かないということにある。教え方の緩急も人によって調節するべきだし、少し厳しくいった方がうまくいく人と、自由にやらせた方が成果が伸びる人がいる。これは人次第なのだが、それにいちいち対応できない。いまでも優秀な教師はこのことを知っていて生徒に適切な助言をしている人もいる。でも、それがすべてうまくいっているのかといえばそうでもない。まぎれもなく生徒と教員との相性という要素もあるからだ。

 ならば柔軟にカリキュラムを個人向けに変えていくAI教師の方がうまくいくかといえばそうとも限らないから厄介だ。機械任せで学習するよりは結局、自分の力でやる方が身になる。また分からないことは教員に質問して解決したほうがはるかに理解が早いのだ。コンピューターで学習してうまくいく生徒もいるので一概には言えないが、私の経験上では大抵はうまくいっていない。私たちは大人も含めて情報機器の扱い方を習得できておらず、自分の能力を上げるための補助として使いこなせていないのである。

 この先の教員の役割はもちろん個々の生徒の精神的な補助をしたり、疑問点を先回りして考え、質問に備えるといったことがある。そして何よりも生徒の学習意欲を高めるあらゆる工夫をする必要がある。また学校という集団社会の中で個々人の役割を考えさせ、決して他人と同列になることが幸せの目的ではないということを知らせる必要がある。ある大学に入学せよというのは分かりやすい目標だが、それは多くある目標の一つにしか過ぎない。それよりも自分が何を学びたいのか、それが今後の人生にどのような意味を持つのかを個別に説明する存在であらねばなるまい。

 学習するのは個々人だが、学びに向かわせるのにはコーチがいる。それが教員の仕事なのだろう。そういう風に変わっていけば教員という仕事はなくならないだろうし、むしろこれから人材不足で積極的に求められるようになる。これから教員になる人には可能性のある仕事であること言うことを伝えたい。ただ皆さんの恩師と同じことをしていては先細りになるかもしれない。学ぶことが好きでそれを他人に伝えることができるか否かが肝要なのだ。

流れに竿さすものを見逃さず

 昨年末に起きた韓国大統領の弾劾に関する一連の動きはいろいろなことを物語っている。国情も制度も違う隣国のことをそのまま我が国の文脈で論じることはできないが、共通することがいくつもある。その一つが報道の在り方の問題点だ。最近はいわゆるオールド・メディアと呼ばれる報道機関も、恣意的な発信を続けるソーシャルメディアも、時流に乗って事実以上の力を持つことになるということだ。流れに掉さす者が多数現れると、それ以外のことは極めて言いにくくなる。メディア・リテラシーが大切だというがマイノリティの意見を見つけ、それに賛意を示すことはとても難しい。

 韓国国会の多数派を占める政党が、党利党略で国会の機能停止を続けていたことに対する批判をすることはいまは発言しにくいようだ。政治的混乱が同盟国の信頼を低下させ、対立国を喜ばせていることも計算から外れている。先日起きた悲惨な飛行機事故に対する政府の対応が遅いと非難するが、大統領もその代行も職務停止にしたのは対立党側だ。経済対策も深刻な時期を迎えており、明らかにやりすぎである。次の選挙までに政権を正当な方法で奪い返せばいいのに国益を損なってまで争う必要があるのだろうか。

 日本人である私には見えていないことがあまりにも多いので自分の考えにはこだわらない。ただ、内紛で次の政権が力を獲得するという方法は現代には合わないのではないか。そしてこの内紛はかつては巧みな外交技術や謀略で行われてきたが、いまはメディアによる世論操作が比較的簡単にできてしまうところに強い危惧を感じる。いまは隣国の話であるが、同じようなことはこの国にも起きる可能性がある。人を不安にし、その不安を権力掌握に利用する。それはいろいろな国の歴史で繰り返されている。結局誰が得をするのか、何が操っているのかを見抜く力を鍛えておかなくてはならないが、いまのような状況でははなはだ心もとない。

元日営業しないのもいい

 元日というのに放浪癖が出てあちこちを歩いてみた。コンビニとチェーン店、一部のスーパーマーケットは開いていたが、多くが休業していた。当たり前だ。昔は元日に開いているのは寺社くらいだった。中には急遽店員が欠席してしまいご案内に大変時間がかかりますという断りを掲示している店もあった。そうでなくても人材確保が難しいご時世に、元日営業を維持するのには並々ならぬ努力が必要なようであった。元日に営業をしなければならない理由はさまざまあるのだろう。私も今日の徘徊で営業している店に助けられた。できればご祝儀を出したいくらいだったがそんな余裕はないので気持ちだけを伝えたい。

 都会に住んでいるといろいろなサービスにたよって自分でできることをやろうとしなくなる。昭和世代の親たちはもしかしたら食料が手に入らないかもしれないという軽い危機感もあっておせちという保存の効く料理をたくさん作った。そこまでしなくてもいいのにと思った。我が家の場合はそれが母親の仕事として偏重してしたため、母は年末不機嫌になることが多かった。父は早くから酒を飲みだし、紅白を最後まで見ることなく寝てしまった。私たち子どもが結局年越しまで起きていたので、片づけはその後で、翌朝には雑煮を作る準備をしていた。

 今は大抵のおせち料理は出来合いのものがある。豪華な食材を加えればかなりの高額になるが、うまくやればそれなりの晴れの食事はできる。食材が切れたら近くのコンビニに行けばなんとなるし、コンビニにもおせちセットが売っている。こうなると母親の過重労働は必要ないようだ。

 元日に多くの店が閉店していたことは不便であったが、よく考えてみればこういう日が必要なのかもしれない。正月までが単なる月が替わる一日になってしまっては、行事の意味とかありがたみとかが分からなくなってしまうからだ。商売をどのように行うのかはそれぞれの自由だが、元日は多少の不便を我慢しても年神の来訪を祝う日であってもいいと思ったのである。

2025年は昭和100年

 2025年ということは2000年代に入って四半世紀を過ごしたことになる。今年は26年目ということだ。こう考えてみると自分が歳を取ってきたことが分かる。2000年の出来事をつい昨日のように思いだすというわけにはいかない。ほとんど覚えていない。過去の出来事を検索すると、少し思い出した。コンピューターの誤作動が起き、飛行機が墜落するなどと騒がれたがこの方面では何も起きなかった。ただし、4で割れて100で割れるのに閏年となることを設定するプログラムが不完全だったらしく2月29日に問題が発生したという。でもそのために何か大きな事故が起きたわけではなかったようだ。

AIが作った日本の正月

 記録を見てみると小渕首相が在任中に病没したり、三宅島や有珠山での大噴火があったりと平穏ではなかったが、次の年にアメリカで起きた同時多発テロ事件のインパクトが強すぎて印象が薄い。世紀の区分で言えば19世紀最後の一年から25年が経過したということになる。昭和のことを知らない世代(平成元年は1989年1月8日から始まっている)どころか20世紀のことを知らない世代が増えている。当たり前であるが。

 2025年は昭和を基準に仮に計算すると昭和100年になるそうだ。自分の人生から考えるとかなり長いが、昭和20年(1945)からまだ80年しかたっていない。その時代に日本が戦争当事者であったということも考えてみれば不思議である。私を含め、戦争のことは全く分かっていない。世界ではいまだに戦闘が続いているし、東アジアが安全という話は全くない。人生は歴史の流れの中では短く、記憶という点を取り上げればさらに短い。この先、どんな人生が待ち構えているのか分からないが、少なくとも自分の思いを何かに表現していきたい。このブログもその一つである。

今日に至ることができた幸せを喜ぶ

人生にもさまざまな区切れがある。いま私にとってはそれを体験している。体調、気力、その他さまざまな面に不如意なことが増えた。でも、加齢を嘆いていても何もならない。寧ろいましか感じられないことを愚直に表現していこうと思う。この時の思いはその時にしか分からないものだろうから。

 今年を何とか無事に過ごせたことをよしとしよう。そして来年がもっといい年になることを、予祝してしまおうと思う。

 好き勝手なことを時流に阿ることなく記しているブログを読んでくださる方々に深く感謝する。さち多からんことを。来年もよろしくお願いします。

注の話

 現代文の問題を解く際に、本文を読む前に注を読めというのは受験生にとっては常識のはずだ。もし知らなかったら今からそうすべきである。

 注は何のためにあるかといえば、それを理解できなければ設問に答えることができないだろうと、出題者が考えた上で付けている。だから、逆に言えば注は解答へのヒントなのだ。

 そのような視点で問題を見直して欲しい。何でこのような注釈が必要なのか。大体それは設問の主旨と絡んでいる。論文や文学書の注は、本文に盛り込めない脇の知識であったり、自説以外の考え方の紹介であったりする。だから、大抵の場合、注を読まずに読み進められるし、読むとなかなか本文の読解が捗らない。だが、現代文の問題の場合は逆で、注を読まなくては本文が読めなかったり、作問者の意図を取れないことがある。

 一冊の本を読破するのと現代文の一問を解答するのは、読解力が必要とされる点では共通するが、実際の作法には大きな違いがある。大して読書量がないのに国語の問題はできるという人はこの点が分かっているか、問題読解に偏った才能を持っているのかもしれない。