ビジネスネーム

 仕事をしている時に名乗る名前を偽名にできるシステムが注目されている。本名を晒すとカスタマーズ•ハラスメントに巻き込まれる危険性に備える方策として有効視されている。

 言ってみれば仕事をする時の芸名を認めるような仕組みだ。面倒くさい世の中だと思いつつ、やはり必要なのだろうとも思う。

 業務上のやり取りに、自分の名を残さないことには抵抗がある。それが偽名でもいいというのは、自分に対する名付けが複数あることを許容するということで、自分を示す名がいくつかあるということに過ぎない。デジタル化社会においてはかような事実には何の煩雑さもなく済まされる。

 実は女性を中心にそのビジネスネームを使う習慣は既に以前から定着している。結婚後も旧姓のままで仕事をしている人が一定数いる。カスハラ対策とは異なるが、本人の利益のためにそうしているという点は共通する。

 私自身もこのブログでは本名を明かさず、芸名で登録している。こういうことはいくらでもあるのだろう。ただ、本当は本名を隠すことなくコミュニケーションができることが理想だと思う。問題なのは人類がそこまで進歩しておらず、プライバシー侵害にいちいち悩まなくてはならないという事実があるということだ。

松葉菊

 愛する植物の一つに松葉菊がある。多肉植物の体をなすがサボテン類ではないらしい。原産地は南アフリカというから、完全な外来種である。

 園芸種としては定番の品種であり、花壇の脇役としてよく使われる。ただ、生命力は強く、野生化しているものもよく目にする。アスファルトの隙間に咲く例もあるから立派な雑草でもある。

 花の風情が菊に似ているからこの名がついているが、花期は春から夏で菊花とは別物である。小学校の先生がこの花が好きであったことを思い出す。もっともその先生はそれを芝桜と混同していたようだ。生命力の強さは松葉菊の方が数段上である。先生は踏まれてもみんなで助け合って強く生きるということを教えてくれたから、松葉菊に違いない。

 先生の思い違いを揶揄する気持ちは微塵もない。植物の持つ生命力、さらには過度な庇護を受けなくても子孫を残す潜在的な能力の大切さを小学生に分かりやすく伝えた功績に感服するのである。

民主主義存続の必要十分条件

 昨今の国内、国外の国政上のリーダーの振る舞いを見ると、民主主義はかなり危うい橋の上を渡っていると言える。国民の選ぶ代表が劣っているはずがないという前提はすでに誰も信じない。

 当然ながら誰にとっても完璧なリーダーというのはまず存在しない。誰かにとっては理想的でも、他の人たちにとっては邪悪な存在であることもあり得る。そのバランスをとることが民主主義には不可欠なのだ。

 かつての絶対王制ならば、非権力側に発言権はなく盲従するしかなかった。人権の意識を獲得した現在では、多様な考え方の中で人々が共生する。意見の食い違いがあればその都度修正していくことが求められる。そのためには国民の知識、教養、道徳心などが高水準で保たれる必要がある。民主主義にとって教育の充実は必要十分条件なのだ。

 情報技術が爆進して、個々人が接することが可能な情報量は飛躍的に増えた。しかし、それをどう解釈するか、どう組み合わせれば新しい知見が得られるのかについて考える能力は以前と変わらず、むしろ減退している。民主主義が危機に瀕しているのは、考えないで済むいまの生活のせいなのかもしれない。

ひまわりの種

  メジャーリーガーがベンチでひまわりの種を食べている風景をよく見る。私もかつて食べたことがあるが、かつての印象は最近はやり言葉になった「動物の餌」の印象が強く、うまくもまずくもないといったものだ。アメリカで食されているのはローストして味付けされているもので私が食べたものとはかなり違う。

 ひまわりの種はカロリーが高く食べ過ぎてはならないのだという。アスリートならば試合中にどれだけ食べても大丈夫だが、一般人は気を付けなくてはならないという。ただ、久しぶりに食べてみたいと思った。

雨の季節

 これからしばらく雨が降る日が続きそうだ。東京の梅雨入りの平均日は6月上旬だが、もう梅雨入りしているとも言える。昨今の四季は春秋がかなり削られ、夏と冬がかなりを占める。

 雨の季節も悪いことばかりではない。むしろ落ち着いて思考に専念できる環境にもなる。健康管理さえ怠らなければいろいろな可能性がある季節である。

 私は毎日傘を持って歩いている。小型の折りたたみで大雨や風の強い日には対応できないが、普通の雨なら困らない。傘を毎日開く季節になると傘を忘れないか、壊さないか心配の種が増える。

 

十薬ではなく

ドクダミ

ドクダミはいまの時期ならどこにでも見られる雑草である。毒を矯めるというのが名の由来で薬草としても使われてきた。身近な民間薬である。

 花びらのように見える萼は漢字の十の文字に見えることから十薬の名もある。ところが写真のような5弁の花を見つけてしまった。生物のエラーであろうか。

 ドクダミには八重咲きのものもあり、近隣の住宅ではそれを植えている。雑草から園芸種に昇格しているのだ。植物の品種改良はこんな発見から生まれるのかもしれない。

終末を意識する力

あまり芳しい話ではないが、ものごとには終わりがあるという意識が持てることは大事だと思う。有限の生を生きているという実感は意外にも持つことが難しい。今日の次に明日があり、その次もまた同じという単純な方程式を想起してしまいがちだ。

実際には今日の次に明日がある保証はない。何らかの事情で自分の生命が終わるかもしれないし、自分だけ生きていても自分を包摂する社会でいかに生き残るかは別の問題になる。まさに世界は移り変わるものであり、この変化を止めることは誰にもできない。

 終末を意識できることはメタ認知の才能のあることを示すものであり、評価すべきものなのだ。それがいつのまにか妄想なり、老害なり、不確実な言葉で非難するものがでてきたのには残念と言わざるを得ない。この時点で未来を見通す可能性を否定してしまっては何も起きない。

 自分は終わりかもしれないけれど、きっと後継者が何とかしてくれる。そういう時間認識と楽天的な他者観の末に私はいる。そのことをいつも忘れてはならない。

反知性主義は日本でも起こり得る

 トランプ大統領がハーバード大学に対して規制しようとしている動きが報じられている。高等教育機関と政治権力の関係を改めて考えるきっかけになっている。

 トランプ大統領の支持層は白人労働者階級が中心という。大学卒業のエリートではなく、その配下として雇用される人々だ。大学卒業者の中には私腹を肥やすことにだけ関心のある人たちもいて、彼らの下で働くものたちが抱える不満や怨嗟は水面下にあるものを含めれば相当なものである。

 エリートの負の局面を論えば果てがない。しかし、世界の難題を切り拓いてきたのもこの層の人が多く、教養が社会秩序の維持に貢献することも多い。彼らの活躍は国家として、あるいは世界平和のために欠かせないという一面もある。

 知的権威の功罪のマイナス面が強調され、権力者の手によって弾圧が始まると社会は一挙に息苦しくなる。権力側の知性は引き伸ばされ、対立する考え方は悪の象徴にたとえられる。アメリカで起きていることはその事態の始まりなのではないかと危惧されるのだ。

 これは我が国でもいつでも起こり得る。学問、教養に対する疑念はまず効率性という言葉で説かれる。役に立たないことを学んで何になるのか。歴史や古典を学ぶより、プログラミングだ、フィンテックだと言い出す。彼らはこうした言動が反知性主義の扉を開くことに気づいていない。意図的なら独裁者候補になれる可能性がある。

 学ぶことの意味を利己的、功利的にのみ捉える風潮が拡大すれば日本は一気におかしくなる。その兆しがあることに多くの人は気づいているはずだ。ここで歯止めをかける必要がある。

スカシカシパン

 子どもの頃、潮干狩りに行って妙な生物に出会ったことがある。平べったく、模様のような穴が付いている貝のような何とも言えないものは始めは何だか全く分からなかった。貝殻か魚の骨の一部かとも考えたが、どれも当てはまりそうもない。

 子ども用の図鑑で調べるとスカシカシパンという。名前も変だ。似ても似つかないがウニの仲間なのだという。私が拾ったのは恐らく死んだ個体だつたが、生きていても動作は極めて遅く、海底の砂地に何時間もかけて潜り、バクテリアなどを摂取しているらしい。

 ウニ風味の菓子パンならば魅力的だが、実物はとても食用にはなりそうもない。命名の妙で可愛らしい印象になったが、相当奇妙な生き物だ。

 子どもの頃は変な生き物に出会う度に感動した。そしてまだ見ぬ生き物を見つけようと期待したものだ。毎日のように図鑑を広げていたから、今でも何となく挿絵や写真を思い出すことがある。

梅雨入り間近

今週の天気予報を見ると曇りベースで雨も結構降るようだ。天気アイコンで見る限り梅雨入りしたかのようである。梅雨入りの平均は関東地方では6月上旬であり、まだ早いのかもしれない。

 梅雨を嫌がる人もいるが、いわゆる皐月は農業にとつては大切な時期である。適度な降雨と気温が大地の恵みをもたらす。昨今のように米価が高騰して社会問題にもなっている時には、豊作を祈らざるを得ない。

 人口減と高齢化は農業にとって不利な条件だ。梅雨になると皐月、五月雨と伝統的な生業に思いが至る。