歳を重ねると

 歳を重ねるとそれなりに得られるものとに失うものとの循環を感じられるようになる。得られるものが多ければよいが、しばしば失敗を重ねることになる。経験だけではやれることに限界がある。

 だから、若者のように貪欲に何かに挑戦することは大切だ。そこから開ける世界がある。いくつになってもその次を目指すことは欠かせない。

 でも、身体がついていかないということがある。ここで言う身体には脳の働きも、含まれる。どうも脳の働きが以前のようには機敏ではない。残念ながら身体的にな衰えは多面的な影響を及ぼす。

 それでも立ち止まったり、うろたえたりしてはならない。今の自分にはそれなりのやり方がある。それを粛々とこなしていくしかないのだ。続けていくうちにできるようになることは日常の様々な出来事の中に見いだせる。前のように走れなくても、毎日歩き続ければそれなりの成果は得られるものだ。

参院選その後

 参院選は予想通り与党の敗北に終わった。自民党が両院において少数与党になるのは初めてらしく、新たな歴史の幕開きとなりそうだ。

 新しい考え方が実現するのは大いに歓迎だが、野党側の党利主義がどこまで実行されるのかが懸念される。必要なのは国民の福祉であり、党の利益ではない。少数党の乱立は利点も欠点もある。欠点が強調されると政治的な衰退を齎す。戦国時代なら亡国の予兆だ。

 現在の日本は今すぐその事態には至らない。ただ、油断すれば何も決まらず何もできない国になり得ない。政党の構成は変わってもしたたかに生き抜く日本風だけは維持してほしいと祈るのである。

経験の共有

 経験の共有は難しい。同世代でも無理があるが異世代ならば余計に困難である。

今年は終戦から80年ということでこの後、様々な切り口で戦争体験の継承というテーマが語られるはずだ。私たちには辛いことは忘れるという本能があるようだ。それは生存のために獲得されたものなのだろう。

戦争の経験ほど強烈なものはないだろう。それでも直接体験したものでなければその恐怖は伝わらない。伝えられる側に相当の受容力なり想像力が要求される。その受け取る力は徐々にその能力を逓減しつつある。

過去の歴史で戦争が繰り返されてきたのはこのような経験衰退のメカニズムによるのかもしれない。ならば手を打たねばならないと思うのである。

ポピュリズムの利用

 ポピュリズムをうまく利用することが今回の選挙の鍵になっている。実現可能か、副作用がないのかといった検証を飛ばして、今の窮状を何とかしてくれそうな甘言をいう政党が支持されている。

 この背景には既成政党の怠慢と無策があるのは事実だ。自公政権は結果的に日本の政治を減衰路線に導いており、ヤミ献金問題に象徴的に示されているように緊張感のない政治を蔓延させてきた。結果として多くの成功の機会が奪われ、国民をミスリードしてきたと言える。

 でもそれに代替する政策を展開できる政党がない。野党は多極化し、それぞれの権益を主張しているが、政権交代をしようとする気概が感じられない。だから、次の内閣を任せる選択ができない。

 このような現状ではポピュリズム政党が台頭しやすい。個人の知名度によって成り立つ政党が乱立し、その中で一部がぎりぎりで当選するという段階があった。それが個人のタレントではなく、スローガンの魅力によって支持を集めるフェーズに変わった。そのスローガンは曖昧だが魅力的に映るものだ。今回ならば日本人ファーストなる言葉だ。自分は日本人だから尊重してくれるのだろう。最近、外国人ばかりで何となく怖い。ここは排外主義に一票投じた方が良さそうだ、と思わせてしまう。

その外国人の多くが低賃金で働いてることを、その職の中には過酷な条件で働いてることをどれだけの人が理解しているのだろう。彼らを解雇するとその穴を埋める日本人を用意しなくてはならない。そういう人がこれから必要になりますとなぜ言わないのか。その辺に不誠実を感じてしまう。

何か現実感のない論法が当たり前のようになってしまったのは恐らく社会の仕組みに問題があるのかもしれない。私たちは誰かが作った情報に頼るのではなく、個々人が自分の置かれている現状を評価する方法を身につけなくてはならない。これが曖昧なまま日々を送るようになったことが問題点であると考える。

梅雨明けですか

 これから東京の天気アイコンはしばらく晴れを意味するものが続く。最高気温も高く、来週からは連日猛暑日になるとある予報会社は発表している。昨日まで僅かにあった梅雨が終わったことになる。日付けだけみるとほぼ平年並みだが、今年は降雨の中断が長く、ひとまとまりの雨季とできるのか疑問に思うくらいだった。

 水不足が懸念されるが主なダムの貯水率は今のところ問題なさそうに思える。今後の天候次第ではどうなるかわからないが。高温が農作物にもたらす影響も気になる。米を巡る騒動が再燃しないよう願いたい。

初めての料理

 初めて料理をしてそれを作って食べたときのことを覚えているだろうか。それがレトルト食品の解凍でもいい。何らかの調理を施し、食べられるものができたという感覚を記憶しているだろうか。

恐らく父と作ったお好み焼きや雑炊の類が私の最初の料理なのだろう。自力だけで料理をしたのは父親が単身赴任し、その任地に母が手伝いに行ったときだった。結果的に子どもは残され、自炊を余儀なくされたのだ。

外食の選択肢は当時は考えなかった。子どもだけで行けるのはハンバーガーショップくらいだと考えていたし、そもそも経済的事情もあって自分で作った方が安いと考えていたのである。

当時は親子丼と魚の焼き物を交互に食していた。その他のものも時折混ぜていたが、自分のレパートリーが増えるまでは単調な繰り返しだった。ただ親子丼の味付けは日々磨かれたし、レトルト以外の料理もできるようになっていった。

初めての料理は学校の家庭科の時間であったはずだが、自宅での調理といえば目玉焼きにキャベツの千切りで、それにソーセージをボイルして添えるくらいのものだったはずだ。それでも満足できたし、満腹になった。いまは贅沢になってしまったと思うのである。

梅雨空のこの頃

 いつの間にか梅雨に戻っているなような日が続いている。時折かなり強い雨も落ちて、折り畳みを広げることが度々ある。

 私の住む地域ではいわゆる大雨というものがまだない気がする。でも少し離れた所では豪雨の被害もあったと報じられていたから、この頃の天気は一層局所的になっているのだろう。

古くはないフルヤノモリ

 昔話に何よりも怖いものとして語られるフルヤノモリの話がある。聞き間違えの話は口承文芸には類型として存在する。雨漏りは確かに面倒だし、痛切な困難である。笑い話で済むならよいが当事者にとっては何よりも厄介な問題であろう。




 この話は現代には違う形で復活しそうだ。駅舎に雨漏りが発生している箇所をしばしば目にする。メンテナンスが追いつかなくなっているようだ。技術者の減少と必要以上の人材削減とがこのような形として具現化されている。駅舎のみならず、あちらこちらで起きているように思う。

 昔話の古屋は相当な代物であろうが現代のそれは一見何でもないように見えて、肝心なときに機能不全を出来する。昔の建物と異なり、現代建築は高度な技術でできている分、相応のメンテナンスを要求する。それに対応できるシステムや人材が次第に欠けつつあるような気がする。

 フルヤノモリの話は現代にバージョンアップして人間を恫喝するものになっている。その他のインフラに対する保善も大丈夫なのかと不安になる。

台風とその後

 台風が接近している。規模としては小さいようだが、久しぶりの接近なので注意するに越したことはない。これは急速に北上するようだが、さらに西から熱帯低気圧が連れてきた前線が梅雨の終わりの大雨をもたらすかもしれないというのだ。そのせいか木曜までは雨か曇りの日が続く。その後は晴れて猛暑になる可能性もあるそうだ。梅雨がまだ終わっていなかったことも少し不思議だが、やはり区切りの儀式はあるらしい。気をつけなくては。

薊の綿毛

 道端に咲いていた薊がいつのまにか綿毛をつけて、それが風に舞い出した。蒲公英に比べて大きな綿毛で豪快な感じがする。

 薊には何種類もあるそうだが私が見たのはもっともよく見かけるノアザミだろう。棘だらけでいかにも近づくなと言いたげな姿をしている。ところが古くから食用にされていたようで強力に見える棘は火を通すと問題がなくなるらしい。子どもの頃、天ぷらにしたものを何かの機会で食べたが、その頃の私にとっては旨くも不味くもないものだった。

 ここ数年の暑さで植物のあり方も大きな影響を受けているはずだ。植生も少しずつ変わっていくのだろうか。