今朝は気温が上がらず雨も降り続いている。はっきりと季節が変わったことを感じさせる。
昨日彼岸花のことを書いたがそういえば萩もいつの間にか開いていた。もう少しで咲きそろうのだろう。一気に進む季節には驚くばかりだ。

日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
料理をしなくなったことが知的生活の停滞を招いているというのは極論のようでいて、案外的を射ているのかもしれない。こういう話は日常の雑話の中でしばしば出てくるが、根拠がないのでその場限りの愚痴のような扱いになりがちだ。ただ、先日理科の教員が生徒諸君の実験授業の際の手際の悪さを料理しないことと結び付けて話しているのを側聞して、やはりそうかもしれないと考えたのである。
料理は素材を組み合わせ、手順を踏んで調理していき、無駄なく最短の時間で行わなくてはならない。加えて自分がもっている調理器具や食器、コンロの数などの制約も考慮しなくてはならない。それらを総合したうえで、さらに食事の時間まで間に合わせるという時間的制約も加わる。これらは総合的な企画力が必要ということである。

そしてその成果は味となってすぐに評価の対象になる。どれほどの努力をしようとも、失敗を乗り越えようとも食べる側がうまいと思わなければ成功したとは言えない。すぐにフィードバックがあるのも料理の特徴である。味の基準は個人差がある。提供される側の好みも考えるとなれば、また考慮すべき要素が増える。
いまはコンビニエンスストアにいけば完成した料理はいくらでも買える。万一、それが売り切れていても冷凍食品があり、これらは思った以上に美味だ。かつては添加物とか塩分量とか気になることもあったが、最近の製品はそれらが考慮されているものがある。だから、そういったものでいい。無理して自分で作らなくていいと考えるのは自然の成り行きだろう。
しかし、そうした便利さと引き換えに調理する能力を私たちは失いつつある。先に述べた通り、食卓に提供するまでの総合的な企画力が問われる料理という行為を喪失しかけているといえる。やはり少々不便ではあっても自炊の楽しみは維持すべきなのだろう。料理することがもたらすのは食欲の充足だけではない。
科学者にとってノーベル賞は自分の業績を評価してもらうための大切なものらしい。特に基礎研究をしている人にとっては、一般人が何のためにやっているのか、何に役立つのかを理解するのが難しい研究領域を、一気に知らしめるきっかけになる。日本人はこの基礎研究の分野で一定の評価を受けてきたようで、多くのノーベル賞受賞者を輩出している。彼らの研究はその後の応用科学や技術を導き出している。

ところが、今後受賞者が減るのではないかというよくない予測が出ている。その原因の一つに実用主義に偏向した補助金支給の在り方にあるのではないかという批判がある。何らかの利益に結び付きそうなものには金を出すが、基礎研究は序列を下げるというものである。話を大きくしてしまうが、これは理系分野のみならず、学問、教育の分野全般に言えることではないだろうか。役に立ちそうなことはやるが、どうなるか分からない知的活動は軽視する。
いわゆる知識人と呼ばれる人の中に、日本の教育の中にはやっても意味がないものが多すぎる、それらを止めて、もっと実用的なことをする時間を増やすべきだという人がいる。一理あるような気もするが、それでやめるべき対象として文学や古典、歴史、理科の一部分野、さらには体育や美術などの実技科目などがあげられる。その根拠は将来役には立たないからというものだが、そう言っている論者の多くは中等教育においてそれらの科目からいろいろな知識を得ているように思えてならない。
役に立つ立たないという区分けをしてしまうこと自体が知的活動の芽を摘んでしまう。何が役に立つのかは一人の人生の範囲の中では分からない。後になって発見があるかもしれないし、極端なことを言えば人生が終了した後で、後生によって価値が発見されることもある。思うに教養にも短期的なものと中長期的なものがある。昨今の人々は教養というものをどこか古臭いものと考え、非実用とする。少々心得のあるものでも数年から十数年くらいの人生で役に立ちそうな短期的教養は尊重するが、それ以上のものはなくてもいいのではと考えているように思える。
ノーベル賞のようなブレークスルーにつながる業績を残す人は、短期的実用主義とは縁遠い人が多い。ただ、自分の知的好奇心に沿って思考を進め、そのためには一見無駄と思われることもし続けている。また、最近注目されているのはアート分野への関心がある人が多いということだ。想像力と芸術は類似する点が多く、大変親和性が高いという。文学や歴史もそうだろう。そういったものが背景となって知的活動が成立する。だから、そういう背景となるものを取り去って、新しい何かを考えろというもは実に本末転倒なのだということになる。考える行為にまで利益を考えなくてはならないほど、精神的貧困が進んでいるということなのだろうか。
そう言えばしばらく秋刀魚を食べていない。殿様が目黒で偶然食して感動したように、子どもの頃、秋刀魚は私にとっては高級魚であった。庶民の味の代表であったはずだ。
ところが最近は事情が違う。気候変動に加え、近隣国の漁獲量が増えたことも関係して、秋刀魚は文字通りの高級魚になってしまった。出回るのは型の小さな冷凍物ばかり、秋刀魚を骨も残さずきれいに食べるのはかつては賞賛の元であったがいまは切実な問題となりつつある。
春夫の詩をどのように読むのか。これも秋刀魚の相場と関係するような気がしてならない。秋刀魚のはらわたを食べられると大人になった気がしたのも懐かしい思い出だ。秋刀魚なんて魚も昔はよく話題になっていましたねなどと考古学的に語られる時代が来るのではないかと危惧している。
高校時代にどのような授業を受けたのか。残念なことにほとんど忘れてしまった。教員である私としてとても虚しい気がするが、おそらくほとんどの人の記憶はそんなものだろう。それでも印象的に覚えていることがいくつかある。今回は世界史の授業のことを書いておくことにする。
その先生は年配で貫禄があった。授業は毎回、講談のようなドラマティックな話しっぷりで、高座が好きだった変な高校生の私にとっては馴染みやすいものだった。この先生の授業には賛否両論があって話が面白いという好評と、覚えるべき用語が何かについて言及がないのでテストでは役に立たないという悪評だった。他のクラスは用語を穴埋めするプリントを配り、そこに当てはまるように説明していくというありがちな授業で、結局試験に出る用語を効率よく学べるというものだった。
私は今考えても講談調の授業を受けてよかったと思う。歴史は流れとしてあり、因果関係の中で捉えるべきものだ。その流れをいかに言葉にするかが中等教育における歴史学習の要諦だと思うのである。年号や事件名だけを点で覚えても歴史像をつかむことは難しい。
後で思ったことだが、歴史教育は例え教科書があるにしても教員の解釈が深く影響する。何をどう捉え、結びつけるのかは語り手の裁量による。歴史の概念は極論すれば人によって異なる。そのことに気づかせていただいたのも学恩の一つなのである。
昨今のようにすぐ答えを求めがる風潮において、歴史語りをする授業スタイルは排除の対象になるのかもしれない。ただ、目先のテストでは点が取れなくても、時代の全体像を考え、さらに他の解釈の可能性を予測できる授業は人生に必要なものであると考えるのである。
今日から生活用品や郵便料金等が値上がりする。困ったことに必需品が多い。それに見合った賃上げが必要だが追いついていない。
首相が変わってどのような政策が展開されるのだろう。世間ではリベラル寄りの思想で増税がなされるとの観測がある。ただ、自民党としてできることは限られており、現状維持が基調になるはずだ。慌てて株を売った個人投資家は見事に術中にはまった。
現状維持ならばこの低成長もしくは停滞を切り抜けなくてはならない。まずはほどほどに金を回すことは大事だ。デフレは貧乏意識と富裕層の海外逃避にある。いい意味での愛国心を期待するしかない。国内の経済が潤えば彼らにこそ利益がもたらされる。目先の利益にとらわれず、同胞の幸福に投資をする人が増えてほしい。羨ましいが我慢することはない。それが未来の一層の利益を齎す。
持たざる者にもやるべきことがある。好きなことには金を使うこと。そして他者の幸福に繋がることをなんでもいいからやることだろう。今のところ庶民にできることは少ない。ただ従前の振る舞いは日本人の国民性には向いているから達成可能だろう。
値上げの10月はこれで最終回ではない。政府と財界には利他的な精神をそれぞれのポリシーに付け加えていただきたい。日本という国が世界の範例となることを切望している。
小の月であるので今日が月末となる。強烈な残暑は下旬まで続き、最近ようやくそれらしい陽気になってきた。台風の影響でまだ一時的な暑さは続くらしい。しかし、もう半袖は片付けるときになった。
新暦においていつからが秋なのかについて悩むことがある。かつては9月がその初めだった。夏休みが終われば秋と考えていた。それが最近はなかなか夏が終わらない。旧暦の基準でも収まらない。何しろ中秋の名月はとっくに終わってしまったのだから。
気候変動を嘆いてばかりいられない。間もなく衆議院は解散し新内閣が組織される。石破氏に関しては様々な論があるが世間が騒ぐほどの変化はないだろう。特に経済政策について大騒ぎしている方々はおそらく変動を創出したいのに相違ない。むしろ変わりそうもないことが懸念材料と私は考える。
秋からもいろいろなドラマが展開されそうだ。それらに振り回されず、うまく乗り切ることを目指そう。そして、あくまで他人事にしないようにしなければ。