投稿者: Mitsuhiro

推敲の意味を教える

 漢文で教える「推敲」の故事を覚えているだろうか。科挙のために上京した賈島なる人物が詩作の過程で「推」か「敲」のどちらの文字を使うのがよいか悩む中で韓愈の行列を遮ってしまう無礼を働いたが、韓愈は詳細を訪ねて詩について論じ合ったというあの話である。大体、この授業はここで終わるのだが、本当に考えなくてはならないのは「推敲」することの面白さ、楽しさ、そして重要さだろう。

 推敲することは自分の文章を見つめ直し、より高いレベルのものに仕立て上げる試みである。それによってそれまで以上の効果が現れたり、自分が期待した以上の何かが表現できたりする。最初の時点では思いもつかなかったことが実現できたりするのだからとても意味がある行いと言えるのである。

 現在は完成の速度を求められ、さらに生成AIなどに任せてしまうと推敲することの意味を感じにくい。それ以前に推敲という行為そのものをする機会がなくなってしまっているように思う。推敲の意義は意識的に教えなくてはならない段階にとっくに入っている。

 作家の草稿を見ると著しい推敲の跡がみられる。中には書き込みが多すぎて読むこと自体が大変になっているものもある。現在はコンピュータで入力するから、推敲の形跡が可視化されることは少ない。また最終版が最善版であるという発展思考型の考え方では、制作途中の行程には関心はいかないのかもしれない。つまり「推敲」という行為の意味が分かりにくくなっている。

 私自身も文章を原稿用紙に向かって書く機会がどんどん減っている。でも実はこれはとても残念なことなのかもしれない。このブログはデジタル入力だが、本当に言いたいこと(このブログがそうではないというのではないが)手書きで残した方がいいと思っている。

思ってもみない

「思ってもない」という表現はその後に期待していなかった幸運が続くのが普通だ。ただ、これを不幸の形容に使う例にせつした。誤用といえばそれまでだが、そのくらい想定外のことが起きているということだろう。

漢文を教える

 漢文は国語の中ではもっともテストで点が取りやすい分野なので、いわゆる受験のための学習者にとっては大切だ。ただ、問題は学習の意義を見出せない人が多く受験のための手段として割り切ってしまえるかどうかで道が別れるようだ。

 ただ、私のような立場のものにとってこの考え方は実に苦々しいものだ。漢文が受験以外に役に立たないとはなんたる謂だ。現代の日本語は漢文訓読の影響を受けて成立している。単語レベルでは、蛇足、傍若無人、四面楚歌、羊頭狗肉など漢文由来のものがいくらでもある。そんな言葉は使わないという人も、完璧は使うはずだ。もっとも完全な壁と考えている人も多いようだが。

 漢文教育不要論者にはいくらでも反論できるが、今回話題にしたいのは漢文訓読のことである。返り点や送り仮名をつけて外国語である古典中国語を無理矢理読んでしまうのは古人の知恵の賜物だ。中国語は日本語とはかなり異なる文法でできている。例えば「無」は「なし」と読んで形容詞のように扱うが、どう考えても動詞の役割を果たしている。下に目的語を置いて、それが存在しないことを表す言葉であり、日本語とは役割が異なる。逆の「有」は「あり」と読んで動詞の扱いだが、どちらも中国語としては同じ役割だ。漢文訓読は本来全く異なる言語の構造を巧みに乗り越える工夫がなされている。

 この芸当ができるのは表意文字である漢字を共有しているからである。英語に訓点をつけてもさっぱり分からないのは、literatureが文学だということが直感的に悟れないからだ。文学なら少なくとも文に関する学びだと想像できる。

漢文訓読は異文化をどう消化し摂取するかを体現したものとして日本文化理解に欠かせないものだろう。変化することは変化しない日本文化の特徴の一つとして知っておいて損はない。テストなんかに出すからその価値が分からなくなると実は言いたいのだ。もっとも出題しなければますます学ぶ人が減るのだろうが。

ルーティンの気楽さ

 ルーティンに入るとかえって楽だと感じることがある。連休明けで元の時間が戻ると相変わらず忙しく息つく暇もないという感じだが、その方が楽だと感じる自分がいる。よいことか分からないがやるべきことが決まっているということはある意味楽である。

 ただ、やりがいを感じられない仕事を続けると徒労感しか生まれない。やり切れたことの達成感はあるが、それ以上を得るのは難しい。私はかつて自分でやるべきことを決めて、成果を後で問われるという仕事をしていた。その頃の感触が残っているので、今のような毎日やるべきことが与えられ、成果がその都度評価されるという(世の中では当たり前の)やり方に馴染めなかった。

 それも長年繰り返すうちに徐々になれてきてしまった。いちいち次に何をやるかを悩まなくていいのは気楽なのだ。たとえ毎日の業務が多忙であっても。

 そこでまた迷いが始まる。これでいいのだろうか、進む道を人任せにして、明日を迷う作業を忘れても構わないのか。私の心の中では大きな「否」の声が聞こえる。ただ、ならばどうするという問いに関して、私の一部が黙り込んでしまうのだ。

 ルーティンワークの気楽さを抜け出して困惑と試行錯誤の道に入ることを勇気を持たなくてはならない。そういう「から」決意をこれからも繰り返すことになりそうだ。

現在進行形で考える

 考えていることを「過去形」で語らないことは私の世代にとってはかなりの重要事であると考える。私の考えていることはあくまで「現在進行形」であり、すでに規定された何かではないのだ。そんな当たり前のことが、私の世代ではすべてを過去形で話すような傾向がある。そういう圧力に押されているというのが正しいのだろうか。

 これはこれまでの常識ではこうであった。といった言い方がしばしばみられる。物事の基準が目まぐるしく変化する「ように見える」現状においては、過去の出来事の価値が不明瞭になりやすい。それは古典文学を研究しているときに知る、古典尊重主義とは真逆であり、大変興味深いものだ。古き良き時代に理想をおいてそれに近づくことを美とするこの価値観を私はよしとはしない。むしろかなり問題を抱えた思考法と思う。ただ、それによって与えられてきた思考的安定感は評価すべきものだ。どうなるか分からない未来に神経をすり減らすより、過去の時代に規範を置く方が精神的には健康であるといえる。

 過去の価値観を妄信してはいけない。時代的な要因が複雑にあり、過去の時代に理想を見出すのは実はかなり難しい。昔はよかったと思う気持ちは理解しやすいが、実は昔の方が様々な制約に取り囲まれ不自由で非人道的であったりする。過去の美化は人間の自然な心理動向かもしれないが、それが合理的かどうかは考え直す必要がある。

 何が言いたいのかといえば私のような現役終端世代は過去を語るのではなく、現在進行形でものごと語り、経験則を強みとしながら、あくまでも現在に訴えかけるような文法で話しかけ、語り掛けるべきだということなのである。現役である以上はキャリアにかかわらず、現状に対処しなくてはならない。その際に経験の古さに遠慮は不要であるし、現在の状況に対峙することに躊躇してはならない。そういう気持ちを持ち続けたいと思う。

まだ諦めない

 若い世代と比べて、いろいろな局面で機動力が落ちていることは痛感している。瞬発力に関しては残念ながら全く及ばない。でも、負けていないこともあることは確かだ。その一つが力の抜き方が分かっていることである。

 がむしゃらに突破するにはエネルギーが足りないが、適度に力を抜いて、あるいは満点を目指すことなくある程度諦めて物事に向かうことは年の功で獲得したものだ。これは意外に大切で、実戦的な戦略である。その結果、かつてはうまくいかなかったことができるようになったことが幾つもある。

 ただ、陥りやすいのはことが始まる以前の諦め、敵前逃亡である。これは残念ながら意識していなくても起きてしまう。まだ諦めないという強い意志を定期的にもしくは習慣的に確認しなくてはならない。最近の流行り言葉は、確かに大変だ。しかし、まだ諦めない。できるかもしれないという独り言だ。かなり哀調を帯びてはいるが、そういう言葉を繰り返していきたい。

損して徳取れ

 諺に「損して得取れ」なるものがある。現状では損失になっても、結果的にそれが原因で得となることがあるから、目先の利益に捕らわれるな、くらいの意味で使われている。私の好きな言葉の一つだ。でも実は「得取れ」ではないのかも知れない。

 本当は「損して徳取れ」であったという考えがある。恐らくそれが元来の用法だったはずだ。利益が目的ではなく、いかに徳目に沿って自己実現できるのか。それがこの言葉の本当のメッセージであったはずだ。他人のために損失を被ることが結果的に自己の利益を損ねることにつながったとしても、自らが信じる徳を達成できるならば、それが大きな目標になるということだ。私が漠然と考えている理想もこれである。

 結果的に誰かのために自己犠牲をしたのだという判断になるかも知れない。現実の把握が甘く、安易な正義観にとらわれた結果の体たらくと笑われるのかも知れない。それでも自分の理想を貫くことには魅力を感じる。

 損をしても徳を失うなという考え方は恐らくいまの効率性を最重要視する考え方との親和性が低い。そんなプライドが何になるのかと言放つ輩がいる。彼らにいちいち自分の立ち場を説明する覚悟はないが、心のなかで徳を取った自己満足を味わいたいとは思っている。

きっかけ次第

 連休も間もなく終わりだ。少しだけ本を読んだが大きな成果とは言い難い。私の場合、何かをやり遂げるときは何らかのきっかけがあり、突然うまくいくことがある。それは意外と忙しいときが多く、このような連休はむしろ何も起きない。

 ただ、何もせずに過ごすことはある程度の意味があることは確かだ。空白の時間を作ることで、やるべきことが整理され、やらなくてもいいことは諦められる。そういう現実との距離をはかる時間はやはりいるのだ。

 やるべきことを見つけ、やり方を発見できるのは他の作業の中にある。だから、そのために行動するというより、何か他のことに熱中していた方がいい。あとはきっかけ次第だ。

100均に並ぶ「日本製」

 本体価格が100円のものが並ぶ量販店、いわゆる「100均」でこのところ顕著な変化が起きている。かつてはそのほとんどがMade in Chinaだったのだが、少しずつそれ以外のものが増えつつあるのだ。もちろん「日本製」も増えている。

 人件費の問題でどうしても中国製品は安価になる傾向が長く続いた。だから、安価なものとなると中国製ということになっていたのがこれまでだ。かつては粗悪品が多く、価格をとるか品質をとるかで、割り切りが求められた。最近は中国製品の質も向上し、かつてのような粗悪品は少しずつ姿を消している。というよりより良い品質の中国製品が、劣悪な中国製品に打ち勝っているということだ。日本製品はその意味では眼中にないという扱いを受けてきた。

 日本人の賃金は国際的には異例と言えるほど、上がらずむしろ逓減傾向にあるという。ものに対してカネをつぎ込むことができない国民は、質より安さを選ぶようになってきた。その結果、人件費が安く、技術の吸収力も優れている中国に市場を奪われ続けてきた。いま身につけている衣料のほとんどが中国製であり、家電やそのほかの製品の中に中国製は圧倒的に多い。中国依存が問題視されるとベトナムやインドネシア、バングラディシュなどの新たな生産国が増えてきた。

 そのなかにあって、特に最近「日本製」も少しずつ増えているように感じる。国内生産したものを国内で消費して経済を回すことはある意味理想的ではある。ただ、日本製の経済的勝利とはどうも言えないようだ。他国のコストも少しずつ上がり、対して日本円の価値は相対的に下がってしまったので、安価に生産できるようになったということである。その差が少なくなると、最近の日本人が妄信する日本製は優れているというバイアスが働き、海外製品より売れるようになる。つまり、貿易上の事情により、日本製を復活せざるを得ない現状にあるといえるのではないか。

 100均の日本製品であることの表記はかつては「国産」か小さな文字で「Made in Japan」であったが、最近は目立つ配色で「日本製」とある。日本製品であるというブランド力を利用しようとする戦略であることは明らかだ。書くいう私も「日本製」を選びがちなのだが、生産者への対価として正当なものが支払われているのか少々気になっている。

空想する力は

 空想する力はとても大切だと思う。できるはずがないとあきらめてしまえばそれ以上のことは起きない。あらゆる困難な条件をもし克服できたとしたならばと考えることが大事なのだ。こうした発想法は日本では漫画やアニメの世界ではすでに成功例を積み上げている。ありえないことを創作の域、芸術の域まで高めている。

 でも、それがほかの領域に及ぶのかといえばそうでもないようだ。実用的な分野においては最近の日本の力は衰退気味にあるように思える。資金力がないとか、開発に対する意欲の低下があるという。この評価が本当に的を射たものなのかは分からない。多くの人がそのように考え、その人数の割合が少しずつ増えているようなのが問題だ。

 ありえないことをまじめに考え、あきらめずに実現をしていくこと。それが私たちの先輩のしてきたことだった。何とか豊かになりたい、家族を幸せにしたいと思う気持ちが不足していた技能を帳消しにし、それ以上の成果をもたらす。これは我が国の隠れた歴史の跡である。歴史上の勝者が織りなしていく表舞台と、その背景にあり、実は人間の生活感覚から多少逸脱しても実現することだけを信じて空想を続けること、それが今後の時代を拓くのだろう。