月: 2023年2月

読み聞かせ

 読み聞かせというと幼い子供に本を読んで聞かせることと考える。しかし、この方法は実は中高生や大人にも必要なのかもしれない。

 圧倒的な読書量がいわゆる知識人の教養を支えていた時代があった。ところが今はあまり本を読んでいなくても要領の良さで試験に受かってしまい、エリートになっているという人物によく出会う。国語の試験のような枠組みが決められた読書はできるのだが、自由に作品の世界を想像したり、作者のメッセージをくみ取ったりするのは苦手である。読書量そのものが減っているから、基本的な読解力が落ちているのかもしれない、

 そこで他人に本を読んでもらい、それを聴きながら作品世界を味わうという方法がある。読み聞かせられたテキストを頭の中で舞台を作り、心の中で映像化するのである。これは読書量が少ない人には有効な方法である。言葉によって形のないものを見えるようにするという試みは、想像する力をはぐくみ、情感豊かな人生を歩むための方法として有効だ。私も朗読の動画を見たり、音声のサービスを時々聞いている。

 読み聞かせなくては本が読めなくなった現代人の知識や感性の不足を補うものと言える。





















なんでも写すな

 学生の頃、指導教授の講義を徹底的にノートしたことがある。それこそ速記のようだった。一部に記号を使い、時間短縮した。細かい言い回しや余談までもれなく書いた。こういう方法は今の学生諸君には勧めない。

 ノートを写すのに熱中しすぎるとかえって大切なことを聞き逃すことになる。私が速記方式にしたのは先生の学説というより、お人柄、人間性、さらにはそこから滲み出る表現方法に心酔していたからであり、必要な情報を受容したいのなら、こういうノートは取るべきではない。どうしても記録したいのならボイスレコーダなりを潜ませればいい。きっと再生することは稀だろうが。

 おすすめするのは要点のみ箇条書きでメモし、その後に自分の感想や疑問点を書くことである。人の話を聞きながら、自分の考えを書くということになる。質疑応答の時間があればその場で質問し疑問を解消できる可能性がある。なくても授業や講演のあと、調査するきっかけができる。

 なんでも写すな。自分の考えを書けというのが最近の私のノートの取り方だ。

トルコ大地震

 トルコ、シリア両国の地震による死者が5千人を超えるとの報道がある。人道的支援を急ぐべきであり、また現地の情報を来るべき日本の災害でも生かせるようにすべきだろう。

 トルコは断層が多く、地震が発生しやすい条件がそろっているという。その点は日本に似ている。また、日本の様に免震構造を取る建築物が少なく、被災すると大きな被害が出やすいという。この辺りは日本の技術を伝える必要がある。表現は気を付けるべきだが商機にもなるだろう。

 トルコの対日感情は極めて良いという。それは1890年のエルトゥールル号事件が影響していると言われている。紀伊大島の樫野埼で座礁した同船の乗組員を大島村の村民が総出で救出活動にあたり、69名が救出された。死者行方不明者が587名の大惨事であった。生存者は日本の軍艦でイスタンブールまで送り届けられたという。日本の救出活動の様子はトルコに伝えられ、その印象が日本や日本人への好感度につながっているという。

 地震国としても共通する国は今後も大切にしたい。災害時は互いの知恵を出し合い、困難を乗り越えるべきであろう。

運動神経を補うには

 若い同僚と作業をしているとどうしても差がついてしまう。脳の働きにも運動神経は影響し、それが形になって現れるのだろう。ほんの少しの違いでも作業の量が増えれば、厳然たる差となる。これを補うにはどうすればいいだろう。

 まず、大前提として作業の速度は勝負ではない。数分の差に拘る仕事なら参加しない方が皆のためだ。大抵の仕事はそこまで時間には拘らない。大切なのは正確性だ。不適当なものをいかに減らすのかに集中すべきだろう。

 遅い分を何で補うかといえば、経験によるメタ認知を重視することだろう。場面ごとに過去の事例を思い浮かべながら、経験群から外れるものに注意していくという方法だ。

 逆に表現方法は違っても本質をついているものを見逃さないことも、単純作業能力優先組に勝つ方法だ。せっかくの逸材を逃さないのは経験者の役目だ。

 加齢とともに同僚から配慮されることが増えた。親切には心から感謝する。一方でどうしたら彼らに先んじることができるのかを常に考えている。往生際は悪いのだ。

合従連衡

 日本には高い技術力や多額の資本を持っている企業はあるが、海外の超大企業に伍するだけの力はない。アメリカのような大企業を即座に作るのは難しく、国家が企業運営に容易に介入できる中国のようなやり方もできない。だとすればやるべきことは団体戦である。

 同業種が合併せず、独自のサービスを維持できるならば、質的低下を避けて協力しあえる。異業種間の連携ならばイノベーションも起こしやすい。そういうことの調整役をする専門家が必要だ。

 中国の古代戦国時代では群雄割拠の中での生き残りの方法が模索された。それが同盟の組み方である。大国と組んだ小国は結果的に滅ぼされ、小国の同盟はかなり持ちこたえた。現代であれば小よく大を制すもありうる。学ぶべきことはあるはずだ。

後天的な感情

 雑な言葉づかいをしていると感情が雑になるという言説によく出会う。私たちが感情や行動を言葉を通して認識している事実からして的を射たものと言える。

 しかるに現代は語彙の貧困化が進み、社会的地位のある人にも言葉が乏しい人がいる。恐らく彼らの多くは感情表現が偏っており、独善的な面が多い。感情のグラデーションが乏しいから、予想外のことが起きると異常反応をしてしまう。

 感情は後天的に獲得されるものなのかもしれない。そのためにも語彙を増やすことに関心を持つべきだろう。

不合格

 受験シーズンである。少子化が進んでいるとはいえ、人気のある学校への進学はやはり難しい。試験があれば当然不合格もある。

 私も不合格の経験は何度もある。苦い思い出だ。ただその中には合格しなくてよかったのではないかと思うこともある。万一合格してしまっていたら、いまとはまったく異なる人生を送っているはずだ。でもそれがかならずしもいいものとは思えないのだ。

 教育関係者としてはっきり言えるのは、今の入試の方法は理想とは程遠いということだ。短時間に説得力を伴った選抜をするならば今の方法は合理的だ。しかし、これは手際よさや無批判に物事を受け入れる気質には向くがそれ以外には不利なやり方だ。本人の能力を測りきれてはいない。

 不合格になった皆さんには声を大にして言いたい。試験はあくまで能力の一部を測るものであり、それかあなたの本質とは言えない。自分の良さを理解し得ない学校や組織はあなたから見切りをつけ、もつとあなたを評価してくれる場所を見つけるべきだと。

 これは私自身もいつも考えていることだ。自分は選ばれるだけではなく、自分が選ぶべきだと。

星空アプリ

 彗星の位置を知りたくて星空アプリを使用している。夜空に向けると画面上に星座の絵と名前が出る。一等星の名前も表示される。

 惑星の位置も分る。人工衛星まで表示される。そして彗星もわかるのである。

 大体の位置をアプリで確認したあと目当ての彗星を探した。5等級の明るさでは東京の夜空ではかなり見えにくい。ぼんやりとした光のようなものを見つけたのでそれを彗星にすることにした。認定トライのようなものだ。

祭りの復活

 コロナで中止していた各地の祭礼が復活しつつある。マスクの規制がなくなれば一気に増えるはずだ。

 祭りには地域の人々の心をまとめる力がある。それが多少浪費をしても続いてきた理由にほかなるまい。祭りのために日常の利害関係を超えて地域がまとまる。祭りの催行が皆の目標になるのである。

 人々のつながりはメディアを通さずに直接触れ合うことが基本になければならない。この部分が抜けて、ソーシャルメディアの方ばかりを重視するから、人間関係がおかしくなるのだろう。もちろん、地縁にもさまざまな問題はある。それ以上に益となるものが多いと思う。

 幼いころ、下町の祭礼は楽しみであった。なぜ、こんなに大人たちが熱狂するのかは分からなかったが、その日ばかりは待ちゆく人が優しくなるような気がした。祭りの復活は共同体の維持のためには欠かせない。ようやくそれが再開することをうれしく思うばかりだ。

 立春である。地球と太陽の位置関係に名付けをしたのに過ぎないのだが、それでも何か変わったような気がするがおもしろい。物理学者は時間は存在しないという。これも人間の脳が生み出した幻影なのだろうか。

 春はいろいろなことの始まりと考えるのが日本の伝統的な季節感だ。元旦よりも4月の方が開始の時期と考えられる。年度の開始月であるからだが、もう身体に染みついている。他国ではこれが通用しないというから、時間観というのは文化の一つということになる。

 存在しない時間、もしくはあったとしても相対的な時間に一喜一憂するのはなぜだろう。幻覚に囚われているうちに何か大切なことを見失っているのではないか。もし、時間が幻想であり幻覚ならば、私はここに存在するということも夢の一部に過ぎないことになる。

 この仮説は科学的に証明されるとしても実感としては肯んずることはできない。たとえいまここにいる自分が幻覚であり、他にも自分は存在し別の場所にいるとしても、それぞれの自分が実感できる世界は一つである。他は想像するしかない。ならば、あくまで自分という座標軸においては今いる周囲しか見渡せない。

 限られた世界に閉じ込められているからこそ時間は感じられ、感情がわき起こる。喜びも悲しみも見渡せる地平が限定されているからこそ発動するのだろう。

 春に何かを素直に感じるのはその意味で当たり前だ。ただ、その情念が知覚しうる条件のもとで起きているということを心の片隅で考えておくのは、危機的状況を救う命綱にはなるかもしれない。