月: 2022年12月

動画講座

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 このところ睡眠の儀式として環境音楽のようなものを聴いていたのだが、思い立って大学講座を聴くようにしてみた。なるべく専門から遠いものがいいということで宇宙論や、進化論に関する講座を聴いている。

 各大学が公開講座の記録などをYouTubeに残しているので、これをキューに追加しておいて順番に視聴する。といっても正確には音声しか聴かず、画面は閉じてしまっている。これをイヤホンで聴きながら寝るのだ。講師の先生には悪いが寝るのには適している。単調なお話をする人は特に眠りにはつきやすい。突然場違いなCMが流れるのには閉口する。

 不真面目な受講者だが、いつの間にか身についてしまった知識もある。進化論では地球に降り注ぐ宇宙線の量が問題にされるようだ。放射線を含む有害な宇宙線を普段は磁気のバリアが防ぐが、さまざまな要因でこの障壁が破られたとき、生命の遺伝子に影響し、突然変異を起こしやすくするというのだ。この理論が正しいのかどうかは分からないが、寝ながら何度か聞いたのでそういう意見があるということは分かった。

 不謹慎な受講者は今日も寝るために聴講をすることにする。全くアカデミックではないが、酒を飲んで寝るより健康的ではある。

Last Christmas

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 この時期になるとwham!のLast Christmasがよく聞こえてくる。切ないメロディーと未練のあふれる追想の歌で、およそクリスマスの華やかさにはふさわしくない。1984年にイギリスでリリースされた曲という。

 この曲の曲想は山下達郎のクリスマスイブ(1983年)にも似ている。失恋とクリスマスはよく合うらしい。歌詞の意味を考える前はなんとなくいい曲だと思っていたが、詞の意味を知ると余計に印象的になる。要するに負け惜しみの歌なんだと思うときと、次のクリスマスはもっと良くするんだという前向きな歌と思うときと、それらを達観して昔はいちいちクリスマスに一喜一憂してきたと回想する歌だと考えるときがある。おそらく最後の解釈は作者の意図とはかなりかけ離れるはずだ。

 クリスマスに信仰的な思いを持つことは申し訳ないが少ない。多神教の信者としてクリスマスにはクリスマスの神がいて、そこに様々なドラマが用意されていると考えるのである。多くの人を幸せにし、一定の人に失恋を与えるのもこの神のなせる業だ。

 

トナカイ

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 多くの日本人にとっては直接見たことはないが、その名前を知らない人はないという動物がトナカイである。なんでもこのトナカイというのはアイヌ語で、英語圏ではCaribouというらしい。トナカイという日本語離れした響きや、その容姿も含めていろいろな謎のある動物である。

 トナカイの知名度が高いのはクリスマスのサンタクロースのそりを牽引するのがこの動物だと言われているからだろう。「赤鼻のトナカイ」という童謡が世界的に流行すると、トナカイが赤い鼻を持つ鹿のように造形されることも増えた。実物は日本の鹿とはかなり容貌も違い、鼻は赤くはない。

 立派な角が印象的だが、トナカイはこの点でもユニークだ。日本の鹿は雄しか角がないが、トナカイは雌雄とも角がある。雄の方が体格も大きいため、角も大型だ。ただ、雄の角は主に夏場に成長し冬には落としてしまうらしい。目的が秋の繁殖期の争いにあるというのだ。

 対してメスの角は秋に生え、冬に最大となる。これは子の育成をする際の防御手段、雪中から餌探すための手段になるらしい。するとクリスマスのそりを引いている角の生えたトナカイはメスではないかということになる。まあ、この辺りはうるさく言うべきではないのかもしれない。

 トナカイ自体は太古から家畜化され、食材のほか、運搬の動力としてなど多様に活用されてきた。北極圏の生活がなぜ、全世界規模に知られるようになったのか。興味深いものである。

高齢者補助

 自分が馬齢を重ねたせいで分かることは、この世のシステムは当然ながら健常者がコントロールできるように作られているということである。逆に言えば何らかの障害を持つと途端にやりにくくなる。この後、高齢化を邁進する日本社会では様々な技術的な補助が生まれるはずだ。ただ、それが使えるくらいまでは体力なり、身体機能を維持しなくてはならないということを痛感している。

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 いつも書いているがコンピュータ入力はいつまでもできると思っていた。ところが、意外にも文字や鍵盤の小ささや配色によってはかなり見づらく、思ったようにできないことが増えている。ならば音声入力があるという異なる。最近の音声入力はかなり精度が高いので使ってみると大いに助かる。しかし、これも活舌が怪しくなると使えない。健常な大人が使うことを前提に設計されているものはそのままでは使えなくなる可能性が高いのだ。

 これについては今後、より高齢者に配慮したインターフェースがうまれることを期待するしかない。おそらく需要はいくらでもあるので実現化される日は近いだろう。社会の高齢化を補う手段は国家的な死活問題でもある。

 ハードで的な話ばかりになったが、より大切なのはセカンドライフの多様化を踏まえた社会を用意することに相違ない。体力的能力的(もしくはそのいずれか)が衰えていない人材は今後多数存在する(している)はずだ。彼らの活躍の場を与え、扶養者ではなく、社会への貢献者になっていただく方法を考えるべきだ。私自身もその仲間入りをすることになるが、これは今の若者にも当てはまる。将来の自分が歳をとっても社会に貢献できる場を作っていかなくてはならない。そのために最低限の生活保障、余裕のある人への就職奨励、雇用機会の創出などやるべきことは多い。

 若い世代の仕事を補助するような仕事が理想だ。何があるのか考え続けたい。

歩行禁止に

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 エスカレーターを歩行禁止にすることに関してはかなり前から多くの方が期待してきた。駅のホームを昇降するエスカレーターの場合、ほとんどが片側に人が立ち、開いた側を歩いて昇る、中には駆け上る人がいる。日本では東京付近と大阪付近ではその立つ側が異なり、一種の地域文化とでもいえるような様態をもっている。でも、そもそもエスカレーターは歩かない乗り物ではなかったのか。

 かくいう私もそうだが、エスカレーターの待機側(立って乗れる側)が満員で、歩行側(とでも呼んでおく)に押しだされたとき、不文律として意図に反しても歩き上ることをしている人は多い。こっちに並んだら歩かなくてはならないものという決まりなどどこにもないのにそうしてしまっている。仮に立ち止まったりすると、本気で非難する人もいるという。先日、エスカレーターは歩くべきではないと指摘した人にけがを負わせてそのまま逃げた実に残念な人が逮捕された。ここまでの悪人は少ないにしても、エスカレーターで立ち止まりでもしたら、激怒する「勘違い」な人はいくらでもいる。

 ならば条例で歩行禁止にしてしまえと考えたのが埼玉県だ。「埼玉県エスカレーターの安全な利用の促進に関する条例」と命名された条例は、利用者には「立ち止まった状態でエスカレーターを利用しなければならない。」と設置者には「利用者に対し、立ち止まった状態でエスカレーターを利用すべきことを周知しなければならない。」としている。ただし罰則に関する規定はない。努力目標に近い。

 法的な実効性はさほど高くはないが、エスカレーターは歩行すべきものではないという考えを周知させる役割は大きい。名古屋市でも来年の制定を目指しているという。罰則はないといっても、エスカレーター上でトラブルが起きたとき、時に相手がけがをしたときは賠償の対象になりやすくなった。精神的な被害に関しても認められるようになるのかもしれない。今までとは意識の改革がいる。

 考えてみれば、右なり左によって立てというのは無理があった。障害があってどちらかの脇にしか寄れない場合や、そもそも体調によっては重心が不安定で、隣をかすられるだけでも危険を感じる場合などがある。私も膝を痛めたとき、俊敏な動きができず、脇を通り過ぎる人にぶつかられて不快に思ったことがある。おそらく逆のことをしてしまった時もあったかもしれない。

 忙しくても走らない。公共の場所では他人を巻き込む危険性がある行動はしないということを考えていかなくてはならない。これには各エレベーターわきに注意喚起や動画を表示することや、企業の協力を得て啓蒙活動を徹底的に行うしかない。

タイヤ交換の思い出

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 雪国に住んでいたころ、11月の終わりにスタッドレスタイヤへの交換をした。ある年は暖冬といわれていたのに甘えて、12月までそのままにしていたところ、急にまとまった降雪の予報があり慌てて換えたこともある。現在の私の生活の中にはないものだ。

 雪国の方は知っているが、スタッドレスタイヤの交換自体は誰でもできる。タイヤを止めているねじを少し緩めてから、ジャッキで上げて、ねじを完全に回してタイヤを外し、新しいタイヤをはめてねじを仮止め、ジャッキを下げて着地したら、またねじをしっかり締める。これを4回繰り返す。最初にやったときはおそらく2時間近くかかったが、数年後には30分程度でできるようになった。ただとても面倒だ。寒い中での単純作業でやる気が湧かない。

 ガソリンスタンドなどに持ち込めば4本で5000円~8000円くらいで取り換えてくれていたようだ。私は利用したことがないが、ものすごく早くできるらしい。なにしろ車体ごともちあげて4本のタイヤを同時に交換する。ねじを回すのも、てこの原理でようやく回すようなちゃちなものではなく、電動であっという間に回しきるらしい。このことを聞いて私も頼もうと何度か思ったが、浮いた金でおいしいものでもと思って結局自分でやっていた。これを冬前と春前に行う。10000円以上の節約だと思って、かえって余計に買い物をしてしまった気もする。

 東京に来てタイヤを交換することはなくなった。ウォッシャー液を足すときくらいしかボンネットを開けることもない。雪国の生活はいろいろ困難もあったが、付属する思い出のなかには生活感のしみついた懐かしいものが多い。

ゴミの片づけ

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 今回のFIFAワールドカップでも日本人観客の清掃ボランティアが話題になり、賞賛されているという。この話は各種の国際大会があるたびにでるから、一種の伝統となりつつある。このこと自体は世界に誇るべきことなのかもしれない。

 一方、国家としての廃棄物の量という点において日本はかなり問題がある。狭い国土に多くの人口を抱える日本ではごみ処理問題は重大だが、償却か埋め立て、そして聞くところによれば海外業者へ委託して不法投棄をしているとも聞く。これは世界に恥じるべき行為だ。

 最近はコンビニのレジ袋を受け取るのをやめたり、簡易な包装で済ませようとする動きがある。その点では少しずつ意識は高まっているようだ。ただ、大量に出続けるプラスティックのリサイクルがあまり進んでいないことや、食品の投棄など知られたくない問題がいくつもある。

 ごみを片づける公共精神のある日本人故いつかは皆の福祉に役立つ方法を世界に広めてくれるだろう。そう期待するしかない。と言いながら、昨日はたくさんのペットボトルを買ってしまった。せめてリサイクルに出すことにしよう。

口舌の徒

 不透明な時代になったせいか、様々な言説が飛び交い、真偽の程も定かにならない。おまけにソーシャルメディアなどで気楽に言いたいことが言える状況にあっては珍奇な意見も少なくない。中には明らかに収益目的で動いている輩もある。その中でいかに正気を保てるだろうか。

 いわゆる口舌の徒はかつてなら相手にされなかったはずだ。ところが、気の利いたことさえ言えば認められ、中にはそれに従ってしまう人が出るのが現実だ。発言者も一時的な注目を集めることだけしか考えていないので責任感がほぼない。問い質すときっとこう答えるだろう。誰が私の発言が真実だなんて言いましたか。その時考えていたことにすぎませんよ、などと。

 無責任さはすぐに色々な人に伝染する。言ってみただけという言い訳は簡単に成り立つからだ。口に出したことは実現するか、せめてそうしたいと心底考えることが必要だ。自分はやりたくないのに、他者に強要したり、自分はやっているのに他人の行動に厳しかったりするのは尊敬できる態度ではない。

 ならば、聞き手の側の態度をいかにすべきなのか。まずはメディアリテラシーをしっかりとさせることだ。また二三の説で判断しないのも大事だ。目についた分かりやすい考えだけでそれが通説と誤らないことだと思う。

 複雑であればあるほどその判断も難しい。ただ間違っても自ら考えたということが大切なのだ。この過程を忘れると私たちは何者かに支配されてしまうはずだ。

 

治癒

 ホメオスタシスという言葉に慰められている。体調が悪いときはひたすら休むしかない。薬はあくまで補助的なもので、身体自体が健康を取り戻すために戦ってくれるのだ。

 風を引いたり、腹を壊したり、そういう病には何度も直面してきた。それでも数日後には回復が始まり、10日もすればほぼ元通りになる。これは身体がもつ平衡保持能力の為せる技である。

 生き物の仕組みとしての能力に驚かされる。いまはその進化の過程で獲得された能力を感謝しよう。

心に残るものとモノとして残るもの

 思い出を作りたいとき、それが最終的に物質的なモノとしてのこすか、無形のサービスなり出会いなり、いわゆるコトとして充実することを重視するか。そのあたりの価値観が変わってきているかもしれないという。どちらかを選べと言われたらあなたはどちらだろうか。

 もちろん両方とも充実していれば文句はない。ただ、どちらかといえば昭和世代の私にとってはモノ重視かもしれない。最初に土産を買うという発想は、モノとしての思い出を残したいということだし、やたらと写真を撮りまくるのは、デジタル化した今はいわゆるモノではないが、形を残そうという点において共通する発想である。

 もし、土産物はなく、写真撮影も禁止な場所があるとする。ただし、その場所に行くとサービスや雰囲気、接待などがすばらしく幸せになれるものとする。こういう場所はいかがだろう。最近の若い世代はモノにはこだわらない人も増えている。土産が大量生産されるものであり、限定品といっても似たようなものがたくさんある。それに実際の価値以上の金を払う必要はあるのかという発想があるらしい。もし、本当にものが欲しければネットで転売している。いつでも手に入る(かもしれない)という基本的な考えの構えができているからなのだ。

 彼らにとっては家に持って帰ればきっと色あせて見えるおみやげよりも、その場で味わえる体験の方に投資をしたいと思うのだろう。最近は私もその方に傾いてきている。土産物を分かち思い出を語る仲間が少なくなっているのも原因にあるかもしれない。同級生に先輩に後輩に上司になどと言い訳をいって買ってきた土産は受け取る人が少なくなっている可能性があるという仮説である。

 観光立国をめざすなら、この点を抑えておく必要があるだろう。そこにいなければできない体験を売りにすれば、安定的な集客が期待できるかもしれない。