月: 2022年9月

残響

音のない音

 あるコンサートを聞いて気づいた。よく言われることだが演奏は音符のあるところだけで聞かせるのではない。むしろないところに表現が生まれることもあると。

 演奏中の休符はもちろんだが、演奏前や直後の残響に説得力のある表現がある。これは観客である私の思い込みなのかもしれない。それがもし演奏者が意図して仕掛けているのなら、私はその技法にまんまとやられていることになる。

 日常生活の中にもこれと同じような表現を感じることがある。何も話していないのにある種のメッセージが伝わる。この効果を見直したい。発言や動作だけが伝える方法ではない。

情報処理重視

考えるには時間がかかる
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 あまりに情報処理重視の教育に少し反旗を翻したくなる時がある。そんなに物を覚えて、すぐに忘れるような教育をなぜ続けるのか。先人の生み出した知識の価値をまるで大量生産された商品のように扱うことを良しとする考えがなぜまかり通るのか。わからないことだらけだ。

 もちろん、世界の情勢の変化が急であり、それについていくことが大事なのはわかる。でも、だからといって、何もかも情報の断片として等質化してとらえるのはいかがだろう。今の教育は考えることを軽視しすぎだ。効率的にやればいいという。PDCAサイクルを金科玉条のようにいう教育者は完全になにかに毒されている。知というものがあたかも効率的な作業の一つのように考えているのだ。彼らにはきっと新しい地平は見えない。

 私はもっと晦渋な局面を右往左往する時間があってもいいと考えている。その時間を子供たちから奪うことを良しとしない。効率的に学習することばかりを重視する教育を受けたものは、生産性という言葉を繰り返しながら、結局なにも生み出せまい。

 伝統的に人は多くの無駄を行い、その中で新しい局面を切り開いてきた。無駄がなければ新局面は見えない。それはAIのような効率性を第一に考えるものには見えない世界だ。教育現場にいられるのもあとわずかだから、この無駄に考える時間の大切さを訴え、ひそかに実践していこうと考えている。粛清される前に。

優先順位

 私の仕事の失敗の多くの原因は優先順位の把握の間違いによる。どんな仕事でもそうだと思うが私の場合、仕事の種類が多く、何から手をつけていいのか分からなくなりやすい。

 グーグルが提供するメールやカレンダー、タスク管理のサービスはよく使う。しかしこれもすべてが同じように記録されてしまうのでだんだんわからなくなる。保存性やリマインダーのあることなど捨てがたい機能があるのでまずはこれでいく。

 もう一つがいわゆるバレットジャーナルである。手書きのタスクリストや仕事メモを机上に置く。二度手間になるがこれくらいしないと私の場合はだめだ。最近気づいたが手書きメモはあまり画一的な書式にしない方がいい。平準化しないよう書き方に工夫する。これはリングノートなど開きっぱなしにできるものにする。

 基本的に自分を信用していないのでこれだけでは足りない。信用のおける同僚にやるべきことをつぶやく。別に覚えておいてほしいわけではない。他人に話すとそれなりの自覚が生まれる。運がよれけばリマインダーになってもらえる。

 こんなふうにしているのだが、それでもエラーがある。残念ながらこれは己の現実と認めるしかあるまい。

「る」「らる」

 古典文法を学ぶときいくつかの難所というべき項目がある。助動詞の用法の識別はその一つだろう。助動詞は日本語を日本語らしくする品詞の一つである。文の細かな意味や感覚を表現するのに助動詞が大きな役割を果たすからだ。現代語と比較しても古典の助動詞は種類が多く、なおかつ細かな使い分けがなされる。それを完全に習得することは難しい。

 国語の教員であれば助動詞についてある程度は説明できなくてはならない。でも、文法のテストに答える程度であればあまり難しく考えすぎない方がいい。また、古文の読解のときにも助動詞の用法を厳密に言い分ける必要はない。多くの場合、いくつかの用法の境界にあり、よりどの要素が強いかというくらいの違いである。

 今回は多義をもち、使用頻度の高い「る」「らる」について考える。

 「る」と「らる」は同じで、いずれも動詞の未然形に接続する。「る」「らる」の直前に「a」の音があれば「る」を使い、なければ「ら」を加えて「らる」とする。だから、「走る」に「る」「らる」をつけるときは「走ら(未然形)」に「る」をつけるし、「起きる」につけるときは「起き(未然形」には「ら」を挟んで「る」をつけて「起き・ら・る」となっている。「ら・る」を一語として考えたのが「らる」という助動詞だ。ちなみに、これは現代語の「れる」と「られる」にも共通するが、現代語では「られる」の「ら」を落としてしまう「ら抜き言葉」が普通に使われており、「見れる」「食べれる」に違和感を覚えない人の方が多くなっている。

 この「る」「らる」には4つの用法(これを文法の時間では「意味」ともいう)がある。思い出していただきたい。①自発、②可能、③受身、④尊敬の4つだ。受験生には「自可受尊(じかじゅそん)」とおぼえさせる。なんとなく語呂がいい。印象的な感想で根拠はないがこの順番で使用頻度が高いとも思うからこの暗記法は無意味ではないかもしれない。

 「自発」は<自然と~れる>と訳す用法で、例えば昔のアルバムを開いて、過去のおのれの姿を見たとき、思わず「なつかしいなあ、あの頃はよかったなあ」などと勝手に感情が湧き出すときのことをいう。文法用語ではこれをそっけなく「自発」という。意図しなくてもやってしまうことである。性格上、感情を表す動詞に付属して使われる。「思ふ」「しのぶ」「泣く」「笑ふ」などと組み合わされる。識別するときにもこれが指標となる。

 「可能」は<できる>の意味になる場合だ。ただし、平安時代までの用例のほとんどは打消しの言葉とともに使われるから、実際には「~れ(られ)・ず」の形で出ることが多い。打消「ず」は非常に不規則な活用をするし、打消の意味を持つ後には「じ」「まじ」などの助動詞や「で」という接続助詞もあるので戸惑うこともあるかもしれない。これは打消しとセットになって、自分ではどうしようもできない状況をいうときに使われていたのだろう。自発の逆に当たる。ただし、鎌倉時代以降は肯定文の例もある。

 「受身」は<される>と訳すもので、この助動詞の大切な役割の一つである。訳すときに「~に」という動作主が想定される場合に使われる。「起こさる」は「~に、起こされる」ということであり、この「~に」の意味が必要な場合が受身ということになる。古典ではこの動作主はたいてい生物であり、現代のように抽象的な語が主語になるもの、たとえば「ストレスに苦しめられる」のような例は少ない。動作主がほかでもない自分自身の感情にあるときには「自発」となるのだ。

 「尊敬」は<なさる>と訳すもので、主語が貴人である場合に使われる。おそらく自分とは距離を置いた存在が、自分の意志とは無関係にものごとをするという意味から自発的な意味合いもあり、その動作を直接的な作用を受けなくても影響があるという点で受身的な意味もあるといえる。

 4つの用法はつながっていて実は自分の意志や目的とは無関係に物事が進行するときに起きる感情を表現するときに使用されていたのではないか。実際の用法の中で様々な変化形が生まれ、多様に使われるようになっているのだ。最初にもふれたが文法的意味(つまり用法)はあくまで便宜的な分節に過ぎない。生徒諸君にもこの点を知っておいてもらった方が本当の古典が理解できるようになるのかもしれない。

口のある風景

 

歯を見せて笑いたい

 出勤途上、見慣れない風景に気づいた。マスクをしていない人が増えた気がするのだ。もっとも比較的空いた路上のことであり、電車内は相変わらずだ。顔の全面を見ること、とりわけ街の風景とともに見ることが稀になってしまったため、新鮮な感動を覚えた。

 無知を覚悟で言えば、マスク生活は目元への関心を高めたのではないかと思う。アイメイクの技術は格段に飛躍した。結果としてあまり大差のない美人が大量に生まれたように感じる。

 これも語弊を恐れず言えば、どんなに顔の上半分を飾っても不完全なままだ。やはり、鼻や口があって顔は完結するのだ。そして口のある。顔はやはり美しい。これは万人に向けていっている。モデルや俳優はもちろんだが、街を歩く普通の人でも同じだ。

 顔を隠す生活はいつまで続くのだろうか。防疫上不可欠なのは分かっている。ただ、精神衛生上の問題を考えるとこの異常事態からは早く脱する必要がある。