月: 2022年8月

作り話

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 私たちにはフィクションを楽しむことができるという能力がある。これはかなり古い時代から存在する。例えば昔話というジャンルに典型的に見て取れる。

 昔話には定型がある。地域によって異なるが話の始めと終わりに決まった表現をする。もっとも有名なのは「昔むかし」で始めて、「めでたしめでたし」で終わる。これらは決まり文句であって、「昔むかし」が特定の年代を指定するものではないし、話の主人公が悲劇的な結末を迎えても「めでたしめでたし」で締める。この二つのフレーズに挟まれた部分が昔話であり、それは事実であるかどうかは保証しないということになる。会話文におけるカッコのような役割を果たしているともいえる。

 昔話の聞き手は、その内容を全くの真実だとは考えない。だから、この話のモデルは何かとか、証拠はあるのかなどと問いただすことはしない。ただ、全くの嘘であるとも考えない。現実以上の何かがあるということを想定しながら話を聞くのである。

 民俗学では昔話と伝説を区別する。伝説は完全に事実だと信じられているか、それを前提として話が進められるものである。昔々のはなしではなく、ある特定の人物の事績に典拠をもとめ、具体的なものやこと、場所が指定される。どんなに荒唐無稽であっても伝説で語られる内容はあくまで事実なのである。

 昔話を楽しむ思考環境はいまにも連綿とつながっている。フィクションはあくまで歴史とは区別されるものであり、時代の要請や移りゆく人々の願望が反映されている。創作を楽しむことはこの伝統によるものといえる。話の内容がより複雑となり、現実世界の要素が巧みに取り入れられていることがあっても、作り話は史実ではない。

 ところが、この作り話を史実と区別できなくなってしまう人がいる。特に歴史の学習が十分でないと作り話がそれと分からず、すべてが事実と考えてしまう。この錯覚が悪影響を及ぼす。まずは歴史を学ぶべきだ。どこまでが史実でどこから虚構なのかを見分け、説明できるようにしたい。史実と混同せずに創作を楽しむために。

残暑

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 立秋となり、今日からは残暑だ。毎年暦の矛盾を感じるのだが、今年の場合は梅雨、前暑、戻り梅雨、酷暑と続いて、また残暑になる。3回目の夏といった感じさえする。このあといつまで続くのかわからないほどだ。

 気が付けばもう8月が過ぎていく。本当の夏の休みはこれからだが、意味のある時間にしたいと考えている。まだ2冊しか読めていない。目標は10冊だというのに。

広島平和祈念式典

 広島の原爆忌である。平和祈念式典の中では松井一實広島市長は、トルストイの言葉を引用しながら、戦争の無意味さを述べ、ロシアを念頭に核兵器を使用することで勢力を維持しようとする考えが間違っていることを訴えた。また日本のNPTへの参加を要望していた。

 今回の式典では広島出身の岸田首相の発言が注目された。被爆直後の悲惨な状況が詳細に述べられたのは異例であった。それとともに核兵器のない世界を目指すことを述べた。ただ、核兵器禁止条約については触れらえず、思い切った日本の立場の主張には至らなかった。広島出身の首相でさえも踏み越えられないものがあるということが分かった。

 グテーレス事務総長は核兵器を保有する国への強い訴えがあった。核を持たない国に対してそれを使用したり、使用することをちらつかすことはあってはならないと明確に述べていた。

 ウクライナ侵攻が続く中で、日本としてできるのは平和の意味を訴え、その具体的な方策を示すことだろう。どうもその役割を十分に果たしているとは思えない。

 なお、中継の音声にはこの式典を妨害しようとする団体の騒音がかすかに拾われている。平和を願うことすらかなり難しいということはこの事実だけでも明らかだ。我々はよく考えなくてはならない。

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終戦直前の悲劇

サトイモの葉に隠れて

 中学生に教える教材としての小説に山川方夫『夏の葬列』という短編小説がある。疎開先で敵艦載機の機銃掃射に遭遇し、自分をいつも助けてくれた姉のような人を恐怖のあまり突き飛ばし、結果的に死に至らしめたことへのトラウマが描かれる。過去との決別のために悲劇の地を再訪した主人公は新たな悲劇を知ることになってしまう。掌編小説としては完成度が高く、限界状況での人間のふるまいやその後の人生観の変化などが分かりやすく描かれている。

 この小説を何度も教えてきてその都度不思議に思うのは、この小説の設定の通りだとすると1945年8月14日に連合軍(アメリカ軍)が日本の本土を空襲することがあったのだろうか、そして明らかな民間人を機銃掃射で攻撃することがあったのかという疑問である。もしそうならば戦争犯罪に近い行為であることになる。

 この件について調べてみると、興味深いことが分かった。山川方夫が疎開していたのは現在の二宮町であったという。ここはその東に平塚、西には小田原がある。湘南地方には軍需工場が多数存在していたらしく、それを殲滅するための攻撃であることは想像できる。しかし、8月14日は日本が降伏を宣言する前日であり、ポツダム宣言の受諾はほぼ間違いがないとされていた時期であったはずだ。地元の史家が収集した記録によると、小田原では8月に何回か民間人が艦載機の機銃掃射で死亡する事実があったという。特に13日には小学校が空襲にあい、教師と用務員が犠牲になっている。さらに14日の深夜、もしくは15日の未明には小田原市内に多数の焼夷弾が投下され、402戸が被災し、12人が死亡したという(一説に死者は48人)。この爆撃が伊勢崎や熊谷を爆撃した編隊が残留弾を消費するために行ったという説もあり、いろいろな意味で許しがたい。戦争はこのように非道な行為が正当化されてしまう。

 「夏の葬列」はあくまで創作であり、事実に基づかなくてはならないというものではない。でも、14日の空襲は実際にあったことだし、民間人への機銃掃射もなかったとは言えない。芋畑を無防備に歩く人への攻撃は作り話だと思いたい。残念ながらそれ以上に非道な、無差別の空襲や、原子爆弾などによる大量殺戮もあることは忘れてはならない。

 この小説は主人公が抱えた原罪の意識をどのようにとらえていくかが読みどころとなる。そこが反戦小説を超えて読み継がれている所以だろう。ただ、やはり戦争というものがもたらす限界状況が人の判断を狂わせるといういかんともしがたい事実を私たちは様々な場面でかみしめる必要がある。

答えは何ですか

 情報処理に偏重した教育を続けているとうまくいかないことがある。それは考えなくなるということだろう。考えずに答えろというのは大矛盾であるが、残念ながら日本の教育はそちらを向いている。

 大量の問題を短時間で解くことがいまの教育の流れである。いかに要領よく、無駄なく解答するかを評価の基準にする。いかに速く解くかを鍛える過程に、深く考えるというコンピテンシーは不要だ。邪魔でさえある。結果として考えない人を大量に生み出す。

 このような人材は現代日本に必要なのだろうか。容易に機械化されそうな仕事にしか就けないのではないだろうか。それよりもっとよく考え、他人と協力して難題を切り抜ける力の方が必要ではないのか。

 最近の生徒諸君は答えをすぐに求める。それに付随する話をしても無関心であり、結局テストには何が出てどう答えればいいのかを聞く。優秀な生徒もそうなりつつある。とても不安な現実である。

涼しい25℃

 東北地方を中心に激しい雨が降り続いている。台風崩れの低気圧が運んできた湿った空気が流れ込んで線状の降水帯を形成しているのが原因だという。東京はその周辺部にあるため、いまのところ降ってはいないが厚い雲に覆われている。

 現在の気温が25℃くらいだという。夏日の基準だがとても涼しく感じてしまう。あと10℃上の温度を連続して体感した身体には相対的にそう感じさせるのだ。予報では30℃に達しないらしい。

 夏日とか真夏日といった名称がむなしいものに感じられる。涼しい25℃でしばし心身を癒やすこととする。

スポンジ

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 振る舞い方が身につく前はどうしても不器用な動きになりやすい。自分だけならよいがそれが周囲をも傷つけてしまう。その連鎖が場合によっては深刻な人間関係の原因になる。こういう場合に大切なのはいかに緩衝材を置くかだろう。

 青春小説では社会的な立ち回りが苦手か敢えて我を通そうとする人物が登場する。それがざま問題を引き起こす。結末はそれぞれだが、多くの場合は彼らを引き止める存在が描かれる。そのブレーキが機能すれば主人公は行動を変容できる。機能しないとき、もしくはその人物がいなくなったときには暴走は止まらなくなる。よくあるパターンだろう。

 現実社会の中で緩衝材的な役割をするのは何だろう。家族がその役割を果たせるときは安心だ。ちょっとしたわがままも受け入れられる。柔軟な対応ができる可能性が高い。しかし、家族の形にもいろいろある。親子関係がうまくいっていない場合はほかにスポンジ役が必要になる。その理想の一つは友人だ。不平不満を聞いてくれる。うなずきながらも聞き流してくれる存在ならなおよい。その友人もいなければどうだろう。

 私自身もあまり人のことは言えないが自分の悩みを打ち明けられる人はほとんどいない。子どものころから弱音を吐くことは敗北を意味するものとして避けられていたし、その後適度なガス抜きは必要だと知っても、うまくそれができない。弱音の吐き方が分からないのだ。極端な行動としてヒステリックになってしまうしかない。これは周囲の人を不幸にする。

 悩みを相談できる期間は社会的に用意されている。ただ、我が国の場合、カウンセリングはよほどの深刻なものしか受け付けないという既成概念がある。そして確かに日常的な悩みまで聞いてくれる第3者は思い当たらない。ソーシャルメディアに書きつけるのは、便所の落書きと同じような心理だ。ただ落書きはほとんど見られないうちに消されてしまうが、ネットの書き込みはたちまち拡散し半永久的に残る。ストレス解散が新たな悩みの種を作る。

 スポンジ役が欲しい人は、みずからもスポンジ役になるしかない。お互いにお互いの苦しみを少しずつ受け取り、受け流す。それが本当に今必要なことであると考える。

条件変更

もしこのブログがヒットしたら

 創作的な目的でもしこうだったならばと考えることがある。設定条件の変更である。大抵の作品はこの手法で作られており、基本的な考え方である。

 現状以外の条件に変更するものとして、時間や場所、年齢、性別、環境などいろいろなパラメータがある。それらを組み合わせたり、何かを大きく変えたりすることで創作上の世界が完成する。多くの場合、大きく変更するものと、それに伴う付帯的変化を設定して話を作る。例えばもし急に他人の考え方を見透かすことができればとか、逆にとんでもないハンディを持ったらといったふうに。

 小説家でなくてもこの妄想は面白いし、意外に役に立つかもしれない。日常の視点から離れることは新しい考え方を導くきっかけになる。

情報の壁

検索すれば分かるだって!

 ネットでニュースをみていると次第に小さな世界に閉じ込められていく。検索によって瞬時に様々な情報にアクセスできるから、一見世界は無限大に広がる気がする。しかし、実際は逆で普段の作業で自分の居場所を少なくしている。

 You Tubeを開くとかつて見たことがある動画と関連のあるものでタイルが埋められる。私は睡眠導入のために精神安定を歌った音響動画をよく見るので大半がそれである。3分で眠れるというなぜか10時間を超える動画を数日見たらそればかりになった。

 ニュースも同じだ。教育問題のニュースを続けてみるとそればかりになるし、株式市場の今後が気になると、しばらくはそればかりがスクリーンに並ぶ。結果として自分の関心のあることばかりを見せられ、それ以外の問題は矮小化される。

 どんなに万能にみえてもネットに頼りすぎてはならないということだ。様々なものを映し出す小窓は実はかなり意図的で強い偏光レンズが組み込まれている。いかに限定的てあろうと自らの目で見るに如くはない。