
私たちにはフィクションを楽しむことができるという能力がある。これはかなり古い時代から存在する。例えば昔話というジャンルに典型的に見て取れる。
昔話には定型がある。地域によって異なるが話の始めと終わりに決まった表現をする。もっとも有名なのは「昔むかし」で始めて、「めでたしめでたし」で終わる。これらは決まり文句であって、「昔むかし」が特定の年代を指定するものではないし、話の主人公が悲劇的な結末を迎えても「めでたしめでたし」で締める。この二つのフレーズに挟まれた部分が昔話であり、それは事実であるかどうかは保証しないということになる。会話文におけるカッコのような役割を果たしているともいえる。
昔話の聞き手は、その内容を全くの真実だとは考えない。だから、この話のモデルは何かとか、証拠はあるのかなどと問いただすことはしない。ただ、全くの嘘であるとも考えない。現実以上の何かがあるということを想定しながら話を聞くのである。
民俗学では昔話と伝説を区別する。伝説は完全に事実だと信じられているか、それを前提として話が進められるものである。昔々のはなしではなく、ある特定の人物の事績に典拠をもとめ、具体的なものやこと、場所が指定される。どんなに荒唐無稽であっても伝説で語られる内容はあくまで事実なのである。
昔話を楽しむ思考環境はいまにも連綿とつながっている。フィクションはあくまで歴史とは区別されるものであり、時代の要請や移りゆく人々の願望が反映されている。創作を楽しむことはこの伝統によるものといえる。話の内容がより複雑となり、現実世界の要素が巧みに取り入れられていることがあっても、作り話は史実ではない。
ところが、この作り話を史実と区別できなくなってしまう人がいる。特に歴史の学習が十分でないと作り話がそれと分からず、すべてが事実と考えてしまう。この錯覚が悪影響を及ぼす。まずは歴史を学ぶべきだ。どこまでが史実でどこから虚構なのかを見分け、説明できるようにしたい。史実と混同せずに創作を楽しむために。






