月: 2021年7月

来ないバス

 こんなことを考えたことがある。どこか遠くの地方都市に迷い込み、知らない場所を訪ねたのはよいが、帰り方が分からなくなる。とりあえず歩き続けてようやくバス停を見つける。次の便はあと2時間後らしい。かなりあるがないよりはいい。何よりも今いる場所から抜け出せる。それだけでもいいと。

 2時間経ってもバスは来ない。3時間、4時間過ぎてもまだ来ない。このバス停は偽のものか。あるいは今日は来ないのか。

 そんな妄想が脳裏に巡る。こんな経験はしたことはないはずなのに。リアルなイメージで浮かび上がる。何かの暗示なのか。疲労の果ての幻か。よくわからない。

梅雨末期

 来週には梅雨明けもあるかもしれないという予報が出た。オリンピックに合わせて真夏が来るようだが今回はなんともむなしい。その前に警戒しなくてはならないのがこの時期の大雨だ。

 詳しく調べてはいないが7月中旬は大雨の被害発生の例が多い印象がある。ここまでの長雨に、まとまった降水が重なり害を広げるのだろう。

 ウイルスの不安も消えない中でやらなくてはならないことがいくつもありそうだ。

花の名前

 植物にちなむ日本人の人名は多い。特に女性の名前には多いと考える。名字だけでも「木」「草」「花」「藤」「桂」などが使われるし、名前の方には「菜」や「葉」「葵」「百合」などの漢字が使われ、「みのり」「もえ」などの関連語がつかわれることも多い。植物はこの国の人にとって自分の名としてもいい程の身近なものなのだろう。

 植物の豊富さもこの国の特徴だ。四季折々に花開く植物が生活に潤いを与えてくれる。だから、生活の一部に花の暦が取り込まれていることにもなる。自然に生える植物にも園芸の品種にも私たちは囲まれている。

 時に都会を離れると当たり前のことを思い出すことがある。逆に言えば私の日常は極めて不自然で窮屈なものであるということになる。10数インチの画面に映し出される情報が世界のすべてであるかのように考えてしまっているが、実はそれは何でもない。ただの光の点滅だ。本当の風景を、植物たちのありようを見ることを怠ってはいけない。その名を負う人の尊さもそこから分かってくるはずだ。

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無人スポーツ

 東京にオリンピック期間、緊急事態宣言を出し続けることが決定された。海外でのワクチン接種は進み、大谷選手が活躍するボールパークにはマスクをつけていない人が多い。それはいまの日本ではなし得ない。

 国際的格差が見せつけられることはしばしばあるが、ここまでの差は衝撃的だ。それは医療科学の差であり、それを後援する組織、政府の差でもある。

 無観客でスポーツを行うことは大きな意味損失になるだろう。選手と観客が同じ場所にいることに身体の祭典の意味はある。もし、完全に無人の競技が始まるとしたらeスポーツのような仮想空間に限りなく近づいてしまうだろう。フェイク技術が発達しつつある今、スローにしても分からないほどの偽物も生まれるだろう。

 ウイルス克服はいろいろな意味で急務だといえる。命と心を救わなくてはならない。

条件変更

 私たちの身の回りのものはすべて人間の平均的なサイズに合わせて設計されている。だから平均から遠ざかるととても不便だ。その範囲内で生活しているとなかなかこの事実に気づかない。

 ところがその意味に突然気づかされることがある。私はここ数年老眼が進んで小さな文字がよく読めない。説明書の類はほぼ難しい。この障害はゆっくり始まって、漸増していく。私は通勤電車のなかでスマートフォンでこのブログを書くことが多い。細かいデジタルキーをタップできるのもいつまでだろうか。

 急性のものもある。最近、左膝に水がたまり歩行に痛みを覚えるようになった。幸い医師の力を借りてかなり回復したが、それまでは大変だった。時に階段の昇降は辛く、あまり使わない駅のエレベーターのお世話になり続けた。こうなるとちょっとの段差が越えられなくなる。

 ものごとを考える際、思いやりの気持ちが大切だとはよく言うことだが、こうした身体的な条件の違いを考えるべきだろう。実際に起きてしまうと厄介だから、せめて想像の力を発揮して自分とは別の条件の存在を考えるべきだ。

田園風景

 田園の風景を描く作品には魅力がある。ただ、それが画家によって選ばれた空間であることには注意するべきだろう。絵画は偶然の産物ではない。写真だってそれが芸術として撮影されたとき、映像の選択はなされている。

 仮に私が画才を身につけ、田園風景を描くとしたなら何を対象とするだろうか。そびえ立つ高山や、小川のせせらぎ、田中の道を歩く人々などいろいろ思い浮かぶ。ただ、そのどれもがすでにどこかで見たことがある。絵になる風景というものは確かにあり、それ以外を描くことは難しい。

 コンクリートとアスファルトに囲まれた毎日を過ごしている私にとっては田園は憧れの場所だ。だが、もし生まれたときからその地に暮らし、かつ都会の喧騒を知らずに育ったとしたらここまでの感情を抱くだろうか。田園風景が描かれる心的要因はいろいろありそうだ。

大雨の被害

 熱海市で土砂災害が発生し大きな被害がでた。犠牲者に哀悼の意を捧げる。毎年、梅雨の後半にはこのような大規模な水害が発生する。傾斜地の多い森林国である日本の宿命だが、被害は何とか防がなくてはならない。

 土砂災害が起きたとき、たいていの場合、自然破壊を伴う開発が原因だと言われることが多い。今回もそのような指摘がされている。ならばそれをどのように規制し、管理するのかということにもっと議論が向かうべきではないか。

 我が国の常として天災は数多く繰り返されるが、その都度忘却され、同様の被害が繰り返される傾向にある。詳細な記録が残せるようになった現代では過去の災害を克明に保存する手段もあるはずだ。また災害の仕組みを研究する分野も進んできている。この辺りの技術者には大いに活躍してほしい。民間レベルでの口碑のようなものも機能させるべきではないか。

想像力

 ありもしないこと、常識を破ることを考えるのは無意味だと考える向きもある。それよりは実効性があるもの、効率性の高いものを目指すべきだというのが時代の流れだ。なにしろ無駄なく近道をすることばかりを求めすぎる。

 確かにそれは大切なことだろう。無駄なことを繰り返すより、意味のあることを集中的にやった方がいいのは当たり前だ。ただ、それだけではない。無駄、無意味は実はそうではないこともあることを思い至らなくてはなるまい。既定の仕事に関しては人工知能の発達により自動化されていくはずだ。ならば、これからは想像力のほうに注力した方がいい。

 大切なのは想像力だと思う。その意味で文学や芸術といった領域は復権すべきではないか。作り話ができるのが人間の特権ならばそれを使うことが必要なのではないか。

ボタンクサギの季節

ボタンクサギ

 この季節になるとボタンクサギの花が咲き始める。ボタンクサギは牡丹に似た臭い木という意味らしく、見た目はなかなかだが近寄ると独特の悪臭が漂う。ただこの臭いは昆虫類には芳香らしく多くの虫が集まってくる。

 臭覚上の難点はあるものの、花のおもしろさから園芸品種として売られてもいるようだ。病害虫にも強くかなりの繁殖力があるようだ。隣家の庭で数年前に一輪見つけたものが、いつの間にかこの季節は一画を占拠するほどになっている。調べてみると地下茎で増えていく種類らしい。育てるのは簡単だが、絶やすのは骨が折れるとか。

 見た目の美しさと、それを打ち消す悪習、たくましい増殖力、植物にも様々な個性があることを改めて痛感する。

危険な作業

 たとえば放射線が多くて生命に差し支えるような場所にAIを搭載したロボットを送り込んて作業させることは容易に想像可能だ。人的被害がでないのだから理想的な解決策のように考えられる。

 外部からは観測し得ない状況にあり、通信もままならないとしたなら、現場のAIは自律的なプログラムによって任務を継続することになる。それが致命的な爆発に至る可能性があるとしたとき、私たちは人工知能に命運を委ねることができるのだろうか。

 これはSFの話ではない。人生の重要な選択をどれだけ機械に任せられるのかはあらゆる場面で問われることになるはずだ。人間よりはるかに精度が高い判断をする人工知能だが、それに究極の選択を任せられるのかは哲学的問題に属するだろう。