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手持ちの道具で

 旅行者の視点というものをこれまで何度も考えてきた。日常生活の風景は次第に新鮮味がなくなり、それを語る意欲を失わせる。それが旅人の視点になると、同じものが感動の原点になることもある。

 文学でも絵画でも音楽でも、異邦人が切り拓いた作品は数多い。非日常の風景に感動することが作品を生み出す原動力になるからだ。私はこの旅人の視点こそが文化を動かしてきたと考える。

 異国にたどり着いた創作者が持っているのは、自分が使い古した表現のための道具である。それが言葉なのか画法なのか、はたして音階なのかは表現手段によって異なるだろう。でもいずれにしても手持ちの道具で表現するしかない。その対象を表現するのに最適な方法はまだわからない。ただ描くしかないのだ。

 自分の知っているやり方で、いままで扱ったこともないものを描くのは難しい。だが、それでも表現したいという気分が勝れば新しい表現が生まれる芽が出るのだ。持っている道具は同じなのに、その使い方に革命が起きる。

 この意味において旅することには効用が大きいと言える。本当に身体をどこかに移動する旅でも、精神的に非日常の空間に身をおくのでもよい。旅することには大切だと考えるのである。

あり得ない妄想

やり直せたら

 あのとき別の選択肢を取っていたらとはよく思う妄想である。別の選択をすれば関連して更にいろいろなことが変わり、結果として全く別の状況になる。いまとは違う自分がいるはずだ。

 こういう考え方をしているとき、無意識のうちに並行世界を考えていることになる。量子力学理論ではないが世界はいくらでも分岐すると漠然と考えている。

 学問的な裏付けの有無にかかわらず、この考え方は実は妄想のようなものだ。一人の人生では一通りの経験ができず、それを俯瞰的に捉えることはできない。どんなに並行していても見えなければ存在しないことと変わらない。

 それでもこの妄想をすることは楽しい。それは人生を少しでも豊かにしたいという思いによるものだろう。ただ、生きられるのはやはり今の人生しかない。

涼しくなつたら始めようと思っていたこと

 ようやく猛烈な残暑も終わろうとしている。昨日は雨に降られたが、深夜にたどり着いた実家のもより駅の温度計は21℃を表示していた。

 秋になったら始めたいと思っていたことがいくつかある。ひとつは久しぶりのジョギング、もう一つは読書、それも多読、そして短い小説の完成と応募である。そのためにやるべきことはこの夏に少しずつ準備してきた。

 体力づくりの方は至急の課題である。かつてと違い、目標は体力維持であり、自己尊厳の安泰である。だから、これは自己満足でよい。

 インプットのための読書は地道に続けてきたが、秋はその度合いを少し増したい。これも何かを覚えるための勉強ではなく、流れ出す知識より少し多めの内容を補充することでバランスを維持しようという企てだ。

 小説を書くというのはアウトプットの手段である。小説でなくてもいい。考えたことを言語化してみることで自分の存在を確たるものとしたいのである。

 暑さを理由にしてできなかったたことが、少しずつできるようになる。まだ変わりうる己の可能性を信じよう。

現実味

 周りを見回すとやけにスタイルのいいそして完璧なメイクアップの女性、相撲取りのような立派な体格の若い男性、初老のサラリーマン、優秀なエンジニアというようなスタイリッシュな男性がいる。偶然ではあるが、いかにもと言えるような人たちに囲まれた。

 私が強烈な違和感を覚えたのは彼らが放つ存在感がどこか現実離れしているように思えたからだ。まるで演劇のキャラのように際立っていたのである。それは日常というものが喪失される感覚であった。

 おそらく個々の人物については彼らの日常を見せたまでであり、特別なことではなかったはずだ。その組み合わせに私が勝手に違和感を覚えたのに過ぎない。さらに推測すれば、それぞれの人物が自らの存在を少しずつ飾っているために、それが複合してアンリアルを演出したといえる。

 日常の複合が非日常になることを再確認したという話である。こういう経験はしばしばあるが今回はそれを表現することができた。