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昔覚えた曲のメロディは

 中高生のときは結構歌が好きだった。それもいわゆるニューミュージックといわれていたもので、ちょうどそのころ始めたフォークギターでへたくそな歌をよく歌った。今でもギターをときどき弾く。読書以外では長続きしている趣味の一つだ。不思議なことに全く上手くならないのは趣味以上のものを求めなかったからだろう。

 昔歌った歌を動画サイトなどで検索して再生してみると自分の覚えているのと微妙にメロディーが違うことに気づく。つまり、間違って覚えていたのだ。最近の曲はかなりオリジナルに近い形で歌えるのに、中高生時代に覚えた歌はしばしば間違っている。なぜだろう。

 おそらく昔覚えた曲はテレビやラジオで流れていたのを覚えたので、細かいメロディラインまでは覚えられなかったのだろう。ギターの練習で使った雑誌の付録は歌詞とコードしか書いていない。もっとも楽譜があっても譜読みができない私にとっては同じことだが。だから、なんとなく覚えたときに勝手にメロディを変えてしまっていたのだ。CD(当時はレコード)を買う小遣いもなかった私は耳コピだけが歌を覚える手段だったのだ。

 最近の歌は音楽配信サイトや動画サイトで繰り返し視聴できるので、複雑なメロディラインでも何となくそれふうに歌えることが多い。またギターコードを提供するサイトにもオリジナルの音を再生できる機能を付けたものもあり、それを何度か聞くことで原曲に近い歌唱ができるようになる。

 こういう風に書くといまは便利になってよかったということになるが、実は私が勝手に作り替えたメロディもなかなかいいのではないかと思ったりしている。原作者には申し訳ないが少ない資料の中で必死に覚えた分、なんというか愛着もあるのである。人前で歌う場合(そんなことはないが)は正しく直さねばならないが、自己満足の場合は間違えて覚えたままでいいのではないかと思っている。

心の瞳

 坂本九さんの事実上最後のヒット曲の「心の瞳」は私にとっての精神的清涼剤であり、栄養素でもある。合唱曲としてもよく歌われていたので幅広い世代に知られている。

 坂本九さんがこの歌の発表後間もなく航空機事故で亡くなってしまったため、絶唱と言うべきものになったのは残念というしかない。しかし、この歌は歌詞もメロディもそして歌唱も素晴らしく、後世に伝えたい楽曲だ。

坂本九 心の瞳

 心の瞳は愛することとは何かを考えさせるメッセージソングだ。その答えは簡単には決まらない。大切なのは考えることなのだ。

趣味のうち

 利益にはならないがやりたいことはある。これを能率主義者は無駄という。でも、果たして無駄なのだろうか。効率を重視して己を捨てることよりも遥かに有益なのではないか。

 趣味の追求は大抵の場合、他人からは無駄にうつる。そんなことをして何になるのだと。なんにもならない。ただ楽しいだけなのだ。その楽しみが時々他人のためになることがある。それでいいのではないか。

 生産性の高い理想的なXさんになるより、駄目だが生きることが楽しい私になる方が遥かに幸せであり、世の中のために成るのではないか。最近よく聞く生産性第一主義の論者の大半が不幸そうなのは恐らくここに帰結するように思えてならない。

突き抜ければ

サボテンの魅力は?

 龍膽寺雄という作家のエッセイを読んだ。シャボテン(サボテンのことをこの作家はこういう)の愛好家で自分でもマニアだという。偏狂家ということである。ただこの偏狂も突き抜ければ芸術となることが分かった。

 戦中を生きた彼は焼夷弾攻撃を受けてもシャボテンへの愛情を失うことなく、焦土と化した街にでかけ、シャボテンを買い求めに行った話などもあった。劣悪な環境に耐えて生きるこの植物に、心情的な魅力を感じているようであった。その奇妙な形態がいいとか、稀に咲く美しい花がいいとかいう次元を超えているようなのだ。

 この人に限らず、一見理解しがたい偏愛を見せる人がいる。それも突き抜ければ人間愛というか、世界を俯瞰する哲学のようなものの見方ができるのかもしれない。そういう趣味ならば持っていたい気がする。

人に頼らず楽しめるもの

 最近読んだ本の中で楽しみは一人でできるものを持っていた方がよいというのがありました。一つの真理ではあります。

 誰かのために何かをするというのが人間の究極の喜びであるとの考えにも接したことがあります。集団で生きる人類にとって他人への奉仕はいわば生物の遺伝的な幸福感の一つと言えるのかもしれない。そう考えさせられる言説でした。しかし、自己の幸福感を他者との関係に求めすぎるとたいていはうまくいかない。自分の思い通りに他者が動いてくれることは稀ですし、そう願うこと自体が他者にとっては迷惑になるときもあります。すると自己の幸福追求が他者にとっての不幸の始まりになってしまう。

 だから自己の幸福を追求する際に他人の反応を求めなくてもいいものを持っているべきだということになります。他人がどうであろうと自分が幸せを感じ、楽しみとなるものがあるのがよいというわけです。他人に迷惑を掛けず、結果的に他人にも幸せを感じさせるものであればなおよい。芸術活動の多くはこの枠に収まることですし、一部のボランティア活動もそれに含まれるかもしれない。いちいち他者の反応を気にしなくてもよい趣味的な活動があるといいというのでしょう。

 私にとってそれは何だろう。幸せを感じるほどのなにかを見つけなくてはと考えています。実はもうあるのかもしれませんが、具体的に意識していることはないのです。

ベルト交換

 最近覚えたことに腕時計のベルトを交換する方法があります。難易度があるのですが、交換可能なベルトが意外に多いことが分かりました。

 多くの時計はバネ棒というバネが内蔵されている心棒を用具を使って外すことでベルトが取れるようになっています。革ベルトなどはほとんどがこれだけで留まっているので要領を覚えたなら誰でもすぐに付け替えができます。

 メタルベルトは少し堅いものの要領は同じで器具さえあれば自分でもできるものがあります。ベルトが壊れて使えなくなっている時計を復活させることができるのは嬉しいことです。

 実はやってみればできるということは他にもありそうです。ものによっては自分でやった方がいいものがある。それを発見する楽しみが増えました。