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Tokyoites

 英語で、地名とその地に住む人の語が別々にあると学ぶととにかくそういうものだと思って学ぶ。品詞的には名詞と形容詞の関係だ。Americaに住む人がAmericanであり、Canadaに住む人、Mexicoに住む人が、Canadian,Mexicanなのはなんとなく分かる。Japanに住む人はJapanese、Chinanに住む人はChineseで法則性がありそうだ。Franceに住む人はFrenchであり、Germanyに住むに人はGermanであり、語尾に何らかの法則性がありそうだ。

 ところが、Thailandに住む人はThaiであり、Neaderlandに住む人はなぜかDutchで法則性を見出しがたい。The people of~か Someone from ~といえば国名だけで表現できるというが、謎の形容詞形を使ってみたくなるのが人情というものである。

 ちなみに東京人はTokyoitesというらしく、何度か文献上で目にしたことがあるが、実際に使われている場面を知らない。それでは横浜人はなんというか、辞書にはないがYokohamanではないかと言われている。ならば、大阪人はOsakanだろう。名古屋はNagoyan、富山はToyamanなのだろうか。偶然だが方言に似ている。京都はKyotoitesの可能性が高いが、きっと地元の人からは「あきまへん。Miyakobitoどす」と言われるに違いない。

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表現の多様性

 表現の多様性は生活の質を上げるためにも不可欠である。言語による表現は我々の思考と行動の全てに影響を与える。実際には連続的でしかも不定形の世界を言葉はあたかも定形のピースが存在するかのように世界を切り分ける。これは多くの言語学者が述べていることなので改めて言うまでもない。

 使える言葉が少ないと世界の切り取り方は雑なものになる。現代社会は大量生産にとって物が増え、さらにインターネットなどの情報サービスの発展により、物質を超えた情報が重視されている。なんでも機械が処理するせいか、人間が使う言葉の方は貧弱になっており、使える言葉の数が減少しているかのようである。極端にプラスかマイナスしか表現できない。評価の種類が少なく、判断者の意図が正確に伝えられない。

 言葉の数を適度に増やすことは意識して行うべきことだろう。教育の担当者はこの点に十分に配慮すべきだ。そして、個々の学習者が言葉に対する好奇心を持ち続けることが必要なのだ。

名付けの効果

 ものに名をつけることは対象の分節化であるが、今回はその話ではない。つけられた名前が対象の捉え方に大きな影響を与えることを再認識したという話である。

 例えば植物名などが分かりやすい。特定の形状と生態をもつ花に、名前をつける行動は命名者の恣意的な選択によるものだ。しかし、それが認められ、権威を有するものとなるとその名を基準に対象が見られることになる。そしてそれが定着するともうその印象は揺るぎないものとなる。

 ある本で読んだが、日本各地にもっとも多く分布するウグイスは、小笠原諸島だけに生息するハシナガウグイスの亜種なのだそうだ。分類上は離島に棲む少数派の方が上位にあり、我々が普通春告鳥としてもてはやす雅語ともいえる鳥の方は下位に位置する。学名ではそれがはっきりとわかるのだが、通称では逆に思える。名付けというのはこんなふうに対象の見方を変えてしまう。

 だから対象を見つめるときには名前を頼りにしすぎてはならない。まずはそのものに向き合わなくてはならないということだ。当たり前のことなのにこのことを私はしばしば忘れる。

言葉に換える

 私が恐らく毎日苦労しているのは、今考えていることを日本語という言葉に落とし込むことなのだと感じる。いろいろなことが頭をよぎるがすぐに消えてしまう。それをどう表現するのか。他人にどのように共感してもらうのかを毎日試しているのだろう。

 脳内をめぐる刺激のようなものがやがて感情を形成するのならば、その仲立ちをするのは言葉である。言葉がなければ感覚は記憶できないし、刺激の類型のどれかとしてその都度感じるに過ぎない。それが例えば「暑い」という言葉によって、同様の刺激をひとまとめとして把握できるようになる。それらが組み合わさって単語になり、一定のルールのもとで文になる。それを組み立てて文章ができる。もちろん筆記されることはさらにその先の営みである。

 なんとなく感じている思いが言葉になるまでの何とも言えないむずむずとした感覚は、沸き起こってはすぐに消えてしまう。言葉として記憶しなければ刺激をとどめることができないのだ。私が文章を書いたり、詩歌を残そうとしたりするのはそれを何とか形にしたいと思うあがきなのだろう。それは人間という言語を獲得した生物の宿命でもある。

ごまかされる外来語

 最近の流行語は残念ながらクラスタやオーバーシュートかもしれません。コロナウイルス流行がなければ認知度が高まらなかったはずの外来語です。

 clusterは葡萄の房などを表すのが原義で小集団などの意味もあります。クラスタという長音記号を省略するのは理系出身者の外来語表記に多く見られますので、この語の出自も想像できます。ウイルス騒動が起きる前は偏狭的嗜好を持つ集団、いわゆるオタクの集まりくらいの意味として拡張利用されていた言葉でした。

 overshootは行き過ぎるとか通り過ぎるといった意味らしく、想定していた以上に数値が超過してしまったときに使われています。寡聞にして私はこの機会に初めて知りました。これも電圧や力学上の世界では日常的に使われている言葉らしく、検索するといくらでも用例が出てきます。

ある大臣がツイートしていましたがこれらの語を政治家やメディアが安易に使うのには反対です。クラスタは感染者集団とか感染の可能性が高い集団などといった方がよいし、オーバーシュートは感染者急増の方が分かりやすい。感染爆発という言葉もあります。感染者の飛躍的増加を防ぐために外出自粛をというのなら、感染爆発という言葉で注意喚起した方がいいのではないでしょうか。オーバーシュートがなんだか分からない人や、オーバーシュートくらいならなんとかなると考えた人はたくさんいるはずです。

 外来語がそのまま使われるのは日本語にそれに相当する語が存在しないときなのですが、置き換え可能な語があるのに使わないのは混乱を招きます。指導者たるもの使う言葉にもご注意いただきたいと存じます。

これが本当のclusterです

言葉にする

 思っていることを言葉にできない。大半の不幸の原因はこの点に発します。表現力が上がれはいくつかの問題を解決できるはずです。

 好きだという気持ちや嫌悪感はもちろん、そのいずれにも属さない感情は大抵の場合、それを説明することはない。しかし、場合によっては他者に分かってほしいこともあります。そんなときに必要なのが表現力です。

 表現の方法はいろいろあります。表情や身ぶり手ぶりももちろん大切な表現方法です。しかし、言葉にすることがもっとも分かりやすい。それができないために悩みは大きくなるのです。

 私たちは思っていることを言葉にする力を身につけなくてはいけない。そしてそれを話せるもしくは読ませる相手が必要ということになります。