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受け手が作品を作る

いろいろな創作にある寓意を発見するのは楽しい。実はそういう意味があったのだと気づいたときに謎が解けたような気がする。そして、より深く作品を味わえる気分になる。

 ただ、それが作者が意図して作り込んだのかといえばそうとも限らない。本来は別の意味で書かれたものが、受け手側の解釈によって異なるものと映ることがある。世代的、世相的な変化でそう感じることもあるかもしれない。

 作品は作者によって作られるが、読者や観客によって意味づけされ、完成する。それも享受者が変わることで何度も意味づけされ、その都度変わっていくものらしい。

同じことがあなたにはできるのか

 観客のヤジは度を過ぎると醜いものがある。かつて球場でプロ野球を観戦しているとその類の人がいたが、周囲の目もあり、ある程度の自主規制はあった。中には別の観客から注意されることもあり、歯止めがかかることもあった。

 それと同じことをネットでやってしまうと問題が起きる。誰も止められない。匿名で言いたい放題を言って、誹謗するのは困ったことだ。言った側はそれで気が済むのかもしれないが、言われた側は深く傷つく。

 実は訴訟の対象となればソーシャルメディアの発信源の特定は可能であるらしい。匿名でも様々な方法で特定できてしまう。露見すれば民事及び刑事の処罰対象となる。言っておしまいにならないのがこの問題の根深いところだ。

 スポーツ選手に対する中傷は、敬意の欠落によるところが大きい。同じことがあなたにできるのか。冷静に考える必要がある。

交響楽

 シンフォニーをホールで聴く贅沢さは何よりも素晴らしい。指揮者が最初の音を指示するまでの緊張感、重なり合う楽器が織りなすハーモニー、底から浮かび上がる様々な感情、そのどれもが尊い。

 もちろん、高級な音響機器を使えばかなり現実に近い音楽再生ができるなだろう。ただ、音楽家と観客たちが作り出す独特の空間は再現し得ない。

 時々は音楽を直接聞きに行かなくてはならないと強く思うのである。

応援の仕方

 球場に歓声が戻ったのは大変うれしいことだ。WBCの中継では久しぶりに声を出しての応援風景も見られた。鳴り物入りの応援は日本の野球の特徴であり、野球の魅力の一つになっている。

 ただ、私たちは無観客試合の中継を通して打球音や、選手たちが味方に檄をとばす声などを聞いてしまった。それは野球のもう一つの魅力を思い出させてくれた。このスポーツはかなり大きな音がするスポーツであり、またチームワークが大切でかなりメンタルな面が強いということを。

 実際に野球をしている人ならばこのことは知っているはずだ。ただこれまでテレビを通してしか試合を見たことがない多くの人たちにとって、選手の声を直接聞いたり、グラブに吸い込まれるボールの音などは知りようもなかったはずだ。

 華やかな応援と打球や捕球の音を聞く楽しみはどのように共存できるだろうか。私は新たな応援スタイルが生まれることを期待している。それは投手が投球モーションに入ったら鳴り物をとめることだ。ボールがミットに入るか打ち返されたらまた盛大に応援すればいい。

 このスタイルが定着すれば野球はもっと魅力的になる。応援する人は常に選手の動きを見ていなくてはならないし、ともに試合を盛り上げるという自覚が必要になる。単なる自己満足ではなく、選手の気持ちを盛り上げる真の応援になるはずだ。プロ野球でそれができればアマチュアの試合も変わるはずだし、海外でも模倣するリーグが現れるかもしれない。