タグ: 自然

高温予報

 気象庁は年末にかけて記録的高温傾向になるという予報を発表した。10年に一度のレベルだという。関東地方では平年より2.2℃高いとのことだ。

 このくらいの差なら誤差の範囲ではないかと思ってしまうが、そうでもないらしい。1週間以上この傾向が続くと農業分野では大きな問題になるというのである。具体的なことは分からないが、作物の生育には日光や降水が必要なだけでなく、寒冷な気候も不可欠なのだという。

 とりあえずホワイトクリスマスはなさそうだ。などと呑気なことを言っている私は自然から離れた不健康な生活をしているということなのだろう。

米の値段が高いので

米価がなかなか下がらない。これには複雑な要因があるらしい。いわゆる備蓄米が行き渡るのにも時間がかかっている。これはもしものときのサプライチェーンの構築が甘かったのかもしれない。

 さらに輸入米が密かに浸透しつつある。カリフォルニア米はかつての記録的不作のときに輸入されたが売れなかった。当時は国産米への拘りが大きく、味覚的にも格差があったのかもしれない。ところが最近は大手ファストフード店で輸入米の提供を始めている。牛丼など味付けのある料理においては、外米との格差はさほど感じられない。関税を出しても国産米とさほど価格差がないとなれば安定供給できる方を選ぶのは、当然の成り行きだろう。

 米作は日本の主食の生産であり、歴史的にも文化的にも重要である。また、田圃のある風景は日本の原風景の一つであり、これがなくなると里山を含めた自然体系が崩れてしまうとも言われる。食材の一つとしての存在にとどまらないことを再考せねばならない。

 アメリカの圧力でコメの関税は恐らく引き下げられる。米が安くなって嬉しいということはあるかもしれないが、その結果もたらされるもっと深刻な問題を考えよう。

経験知というもの

 ドキュメンタリー番組である地方の漁師は風雨の到来を山にかかる雲の色や形で予見するのだというのを知った。それが気象学的に裏付けられたとしても、漁師の判断はそれとは別に行われる。

 経験知という括りでは広すぎるが、理屈ではなく経験上の知恵として知っていることは実は多い。理論は後付けであり、幾度か修正されて現実に近づく。

 私がかつて住んでいた所では山がいつもよりはっきりと見えるときは雪が降る前兆ということだ。かなりの確率で当たり、その明瞭度が高ければ高いほど積雪が多かった。

 都会に住むようになってこうした体感的な知識の要素は著しく縮小してしまった。第一、空の様子とか、遠くの風景を眺めることが減ってしまった。人工物だけを見て毎日を過ごしている。天気はスマホの画面から確認する。現在の気温ですら肌で感じる前にスクリーンで確かめている。

 体感的な要素を失うことに不安を感じる。昨日と今日はかなり気温が高い。この時期、こういう日の後は天候が荒れて極端に寒くなりやすいということは感じている。これももはや他からの知識なのか経験知なのか分からなくなっている。でも、自ら感じ取ることはやはり大切だ。

惑星

 夜空を見上げると金星、火星、木星、土星がみえる。実は天王星も海王星も出ているらしい。特に金星と木星は明るく、明るい冬の恒星の中でも一際輝いている。惑星は東京のような都市でも見えるのがいい。見上げればしばし日常の瑣事から解放される気がする。名は惑星だが、それ以上に惑い続けている私にとっては頼りになるのだ。

少し先のことを考える

 中学生のときの社会科の教科書に小さなコラムがあった。このままでは、地球の温度が少しずつ上昇するかもしれないというものだった。授業では扱わなかったし、そんなことが本当に起きるはずはないとほとんどの人が思っていた。

 それから続く気象データの異変は、温暖化や気候変動といつた言葉で説明されるようになった。15年以上前のテレビ番組で、もしかしたら将来は桜の開花が1月か2月まで前倒しするかもしれないという内容のことがコメントされていた。その時も大げさだ。SFだと思った。

 残念ながら、それらの予言のいくつかは当たり、あるいはその状態になる過程にあるといえる。気候の変化が災害をもたらし、農業や漁業などに大きな影響を与えている。予め知らされていてももはやどうしようもないと思えるほどになっている。

 より俯瞰的な視点を取れば、地球はこのあと寒冷期に入るともいう。だが、たかだか100年、それにも達しない寿命しかないヒトにとっては、数世代あとまでのことを考えるのが精一杯だ。その間の変動で幾つもの種が絶滅し、そうではなくても深刻な危機が訪れる。人間にとってはそれらがもたらす動揺が動乱やテロ、そして戦争を誘発し、自滅の道を進むきっかけになるかもしれない。

 少し先のことを考えることは大切である。地球規模の歴史を考えると我々は無力であり、いかに今ある世界を保全し後代に伝えるかを考える方がよい。気候変動はそれを気づかせるためのものなのかもしれない。

都会の野生動物

 駅前のベンチで荷物を整理していたら小さな生き物が歩道を走って横切り、街路樹のツツジの植え込みの中に隠れた。しばらくすると別の個体がほぼ同じ速度と経路で走り過ぎる。どうやらネズミのようだ。

 人通りの多い駅前にネズミがいることに普段は気づかない。でも、調査すれば恐らく多数のドブネズミなどが生息しているはずだ。ネズミだけではない。多くの野生動物がこの街にもいる。

 少し前にタヌキに遭遇したことがある。アライグマではなく確かにタヌキだった。ホンドタヌキは在来種らしいが、都会に普通に生息しているらしい。外来種に押されているようだが、小さな雑木林でも繁殖できる。

 ハクビシンに出会ったこともある。屋根裏などに棲み着くので害獣扱いになる。他にもいろいろな野生動物がいるようである。身を隠ししたたかに生きている。

 多くの動物たちと共生しているという意識を持つだけで日常の見え方が変わっていく。何でも人間優先という価値観が変われば解決できることが増えるのかもしれない。

カラスの番

 まだ寒い日が続くがそれでも確実に季節は進行している。先日は桜のことを書いたが、動物も季節の移ろいを感じさせてくれる。メジロが盛んに飛んでくるようになったし、これまであまり聞こえなかった鳥のさえずりに木々を見上げることが増えた。そして身近な鳥としてカラスの行動がある。

 カラスは一年中いる鳥だが、この頃は番(つがい)で行動していることが多い。食べ物以外のものを加えて飛び去るのは巣材の収集であろう。調べてみるとカラスは一夫一妻制であり、その絆は深いのだという。2羽で並んで飛んでいるのはおそらく夫婦なのだろう。どちらが夫でどちらが婦なのかは分からないが。

 カラスは死肉をついばむ食性があり、不気味な印象が強い。また、都市部ではゴミ集積場を荒らす厄介な害鳥にもなる。鳥類にしては知能が発達しており、ある程度の記憶も可能で、また鳴き声によってコミュニケーションをとることもあるという。こうした性質が複合すると、不気味で侮れないというマイナスの印象が高まる。しかし、一方では神の使いとして神聖な動物として捉えられることもある。聖俗の間を大きく振れる存在なのはこの鳥の特徴である。それだけ人間の生活に密接に関係しているのかもしれない。

 カラスにとってみればひたすら生きるために行動しているのに過ぎない。「カラスの勝手でしょ」とさえ思っていない。ただそれを見ている人間がこの鳥にさまざまな意味を見出し、毀誉褒貶を与えているのに過ぎないのだ。

すずめ続報

 この前すずめを見かけなくなったという記事を書いてから、ずっと気になっている。やはり、私の生活圏にはすずめがいなくなった。一度だけ10羽ほどの群れを見たときは実に嬉しい気持ちになった。

 恐らく私のようなアスファルトに囲まれた空間にお住まいでない方々には何のことか分からないだろう、確かにすずめに出会う機会が激減したのである。カラスやハトはいくらでもいる。ヒヨドリやムクドリもいるのになぜかすずめだけが消えてしまったのである。

 様々な環境要因を考えなくてはなるまい。いまは小さな鳥の問題だが、この延長に人間がある。何が原因なのかを明確にしてその対策を考えなくてはなるまい。

スズメがいなくなった

 いつの間にか変わってしまった風景がある。その一つにスズメがいなくなったことがある。私の住む東京の郊外には比較的街路樹や公園などがあり、都心部に比べれば野生動物も住みやすいと思う。にもかかわらず、かつてはどこにでもいたスズメに出会うことが少なくなってしまった。

スズメの写真

 公園などに訪れる野鳥は圧倒的にハトとカラスが多く、メジロ、ウグイス、シジュウカラなどを季節によっては見つけることができる。ハクセキレイは少ないが印象的であり、ヒヨドリやムクドリは群れて飛来すると圧倒的である。ところがかつては最も多かったスズメがほとんどいない。

 鳥に詳しい方の書籍やサイトによると、都市部のスズメの減少は大変顕著な現象のようだ。その原因として営巣場所が現在の建築物では確保しにくいこと、耕作地の減少で昆虫などの餌の確保が難しいこと、騒音や排気ガスなどの与えるストレスが繁殖力に影響を及ぼしていることなどが挙げられている。おそらく、そのいくつかの原因が相関しているのだろう。

 スズメは源氏物語に幼い紫の上が飼育しようとしていたエピソードが書かれているし、枕草子にも登場する。スズメを図案化した文様はいろいろある。文化に溶け込んできた動物である。子どものころ籠を伏せてスズメ獲りに挑戦した人は多いだろう。雛を拾って育てたこともある。そういう身近な動物が少しずついなくなっている。

森の熊さん

 各地で熊の被害が出ている。私は直接熊に遭遇した経験はない。富山にいた頃、山間部で熊の被害にあったというニュースに時々接した。その多くが農作物への害であり、人的な被害はめったになかった。それが昨今は違う。死傷者が出ているのだ。

本州に棲息するツキノワグマは、秋から冬に食料確保のために奔走する。その中で人間の生活圏には入るものも出てくる。発見されたはものの大半は指定されたハンターにより落命する。それが最近は鉄砲の数が足りないほどやってくるらしい。これには猛暑による森林の生態系の変化が影響しているのには間違いない。

地球の歴史のレベルでいえば人間の方が新参者であり、熊にしてみれば人間は迷惑な生き物に違いない。ただ、こうなっている以上、折り合いをつけざるを得ない。熊には山で暮らしてほしい。その山を削っているのは誰だろう。熊さんは好きで人間を襲うのではない生きるための障害であればそれを倒すしかないのだろう。

出会った熊は倒すしかないが、できれば出会わない方法を考える必要がある。おそらく森に詳しい方はいくらでもいるはずだ、その方達の意見に耳を傾けようではないか。