タグ: 自己啓発

人日

 気がつけば新年も一週間が過ぎた。気分一新で始まりたかった年始も、いきなりウイルス対策に迫られている。1月7日は古代の宮廷では節日とされ、現代は七草という民間行事がある。厄祓いや生命力復活の願いが込められた日と考えられる。自然のパワーを味方にして前を向いて行こう。

時短

 明日にでも緊急事態宣言が出されようとしている。状況からして回避はまず無理だろう。すると勤務時間も短縮される可能性が出てくる。以前は経験がなかったが今回はそれに備えることも可能だ。

 まずは仕事の選択と効率化を目指すしかない。総量は下がらざるを得ない。優先順位を決めて諦めるものはやめる。優先順位の高いものをやり残さないようにするべきだ。

 私の仕事はリモートワークにはならないはずだ。時間と空間の拘束もある。ただそれを自らの生活のリズムとし、メリハリをつけなくてはなるまい。デメリットはメリットでもある。

 新しい生活様式などと悠長にかまえていられない。やるべきことを少しずつやっていくだけだ。

投資

 昨年から株式投資も始めたが私にはセンスがないらしくあまりよくない。長期間に少しでも利益が出ればよい。また、眠っている端金で社会をよくしようと考えている企業の応援ができればよい。

 多くの投資の中でもっとも力を入れるべきなのは自己投資なのだろう。すでにできあがってしまった己に再び投資をすることは財力以上に気力の方が必要になる。目的なき努力がなかなか結実しないことは長年の経験から痛感している。いまはやるべきことを意味付けしていくことが大事だ。取りあえず、次のステージで必要なことを学んでいくことにする。

 金銭には表れなくても、大切な投資はいくらでもある。

自分のスタイル

 他人に合わせ、流行に乗ることで安心感を得てきたこれまでの生き方は変えなくてはならない。他人に合わせることで使われるコストは様々な弊害をもたらす。自分にあっているかどうかを考えずにとりあえず他人の設定した水準に合わせることで満足するという生き方はそろそろやめたい。

 他者設定の水準はよくできているように見える。それがより大きな組織なり、もっと大きな文化と呼べるものになればもう抗えない気さえしてくる。しかし、よく観察してみると文化に見せかけた商業的な目的なものであったり、扇情を狙った悪意が隠されていることもある。たとえ無様に見えても自分で納得しているスタイルを模索するほうが結局はうまくいくのではないか。最近はそう考えてきている。

 何が良いのか、悪いのかをその都度考えるのは骨が折れるし、面倒だ。ただ、それなりの充実感は得られる。お仕着せの何かで満足するのは楽だが達成感は得られない。やれることはやり、できないことだけを他者に頼めばよい。そしてできないことを少しでも減らしていく努力をしたほうがいいのだろう。

 とはいえ、私にはできないことだらけだ。理想を語っても何もできないのであれば意味がない。だから、今はできることを諦めず、できないことに挑戦する余裕を持ちたい。今年は何ができるようになるのか。一つ一つ達成していきたい。その成功と失敗の記録をここでも紹介できたらと思う。

南町田グランベリーパークより

習慣化

 成功の秘訣は習慣化にあるというのはよく聞く。確かに仕事でも勉強でも金の使い方でも習慣化するとうまくいくことが多いようだ。もちろん逆もまた然り。

 大切なのは初速度だ。動機がないと長続きしない。私の場合、こんなことを書きながらも実はあまり続けられるものが少ない。このブログを除いて。そうだこのブログのように質を求め過ぎなければいい。とりあえず何でもいいから続けること、それがのちに何か大きなことに結びつく可能性がある。

 習慣化するためにどうすればいいのか。その一つが他人に宣言して、約束してしまうことなのかもしれない。私がブログを続けられているのも毎日誰かが、しかも日本以外の国(だと思うが)の方がこの文章を読んでくださっていることをWordPressのシステムが報告してくれているからだ。結局誰かに見られていないとできないのか。しかし、互いに助け合っていると考えればそれもいいのではないか。

Photo by cottonbro on Pexels.com

歩いたことがある道

 グーグルのサービスに自分の移動記録を蓄積してくれるものがある。これまでどこに行ったのかを登録した端末の位置をもとに記録する。

 もし、自分が歩いたことがある道を色づけしていくとしたら、その濃淡に自分の生活圏のようなものがわかるだろう。そして、その狭さに驚くかもしれない。ごく限られた空間を、面というより線で移動し、世界を見てきたかのような気持ちになっている。

 歩いてきた道は大切な人生だが、そこから踏み出すことも大切なのではないかと考えるこの頃だ。

未来像

 自分の未来のあり方を考えるといまはあまりいい気分になれない。それは年齢的な要因もあるだろうが、様々な不安要素が感じられるからだ。

 冷静に考えれば不安が存在しないわけはない。次に何が起こるか、それがどのような影響を及ぼすのかは誰も知らない。分からないことはもうどうしようもない。何とかしようと思うから悩みは大きくなるのだ。

 理論的にはそうであっても現実の地平に立てばそんなにうまくいくはずもない。それがいまの実情だ。

水族館

 都会にある水族館に行ってみた。平日だから人は少なかったが、その分水生動物と向き合ってきた。実に不思議な時を過ごすことができた。

 どうして魚はこんなにも種類が多いのか。そしてそれぞれに実に特徴的な形をしているのか。様々な色彩があるのはなぜなのか。そういうことが水槽ごとに気になって仕方がなかった。人生という単位では計り知れないくらいの長い年月をかけて、それぞれの生き物はそれぞれの形になった。それぞれの色彩も、それぞれの大きさもすべて長い歳月をかけて今にたどり着いたのだ。人間ごときがそれを描写しようとしても所詮は部分を描いたに過ぎない。おそらく非常に長い年月の意味づけが難しいほどの繰り返しと、突然起きた環境の変化と、その他予測不可能な何らかの変化を超えていまに至っているのだ。

 水族館に行くことは楽しみでもあるが、ある意味不可解な質問を無限に繰り返される空間でもある。質問に答えられないことを、私は認めなくてはならない。知識主義の現代人の根底を覆される。だから水族館は面白い。そして刺激的で危険な場所でもある。

微かな変化

 ものごとは少しずつしかし着実に変わっている。私たちはそれになかなか気づかない。あるときなにかをきっかけにして違いに違和感を覚える。そのとき変化の様に愕然とするのだ。

 旧友に再会したときに私たちはそのことに驚く。そして己の変化にも自覚するきっかけになるのだ。自分はこんな存在だと考えることが始まってしまう。本当はこの瞬間にも変わり続けていて、着実に死に向かっているというのに。

 落差に愕然とすることがないよう私たちはいまのありさまをときどき把握しておく必要がある。

地べたを

 私たちの感覚は近くにあるもので構成される。もちろん目に見えているものだけではなく、距離の離れた場所の情報も手に入れることはできないわけではない。それにしても限られた空間の中で行動が規定されることは確かだ。

 時間の方はもっと限られる。過去の記録は歴史となって残されるものの、実感としての時間はまたたく間に消えてしまう。昨日のことすら思い出せないことがあるのだから仕方がない。未来のこととなると完全に分からない。これはもっと切実で、数年後のことが分からないだけではなく、1秒後のことすらも分からないのだ。

 地べたを這う虫は俯瞰ができない。私はそれと同じ生き方をしている。したたかに生きぬくことがいまできることのすべてなのかもしれない。