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旧弊

 最近の自分の中のキーワードが「旧弊」だ。古臭い言葉自体がすでにその雰囲気を醸し出している。私の生きてきた過去を否定したくはないし、するつもりもない。ただ、何となく前例に倣うことは現状を維持しているどころか、確実に後退していることに繋がっている。

 何か次の段階に進むためには捨てなくてはいけない要素もある。時に痛みを伴うことがあってもそれは仕方がない。新しいことを始める覚悟とはそういうことなのかも知れない。

 体力と気力の衰えを感じる最近ゆえ、切実な問題として旧弊を早めに打破しなくてはならないと感じる。恐らく今やらなければもうできなくなるのだろう。

忘れる効用

 最近はいろいろなことを忘れてしまう。大げさに言うと脳の老化は始まっているのかもしれない。忘れることは悲しい。辛くもある。でも別の見方をすれば幸せなのかもしれない。

 自分でも反省しないようになっていると感じることがある。同じ過ちを繰り返しそれでも改めない。これは恐らく脳の老化が関係しているのだろう。ただ、そのために深刻に悩みこむことも少なくなったように感じる。鈍さがストレスを和らげているのかもしれない。

 もしそうならば感度の落ちた脳はそれなりに機能を果たそうとしているのかもしれない。

謙虚

 最近の自分に欠けているのは謙虚さであるとは自覚している。この歳になると一応のことはできるつもりになっている。実際に大抵のことはできている気になっている。

 ただ、何事もよりよいやり方があるものであり、それを知る先人も多い。その先駆者の業績に学ぶことは何より大切なことだろう。学ぶことに消極的になっている己がいる。

 その原因が謙虚さの忘却にある。周囲の人から学び、読書を通して知見を知り、またブロガーの経験談からも学ぶことが多い。そういう触覚を鈍らせないことが私の今の課題だ。

年度末月

 日本では4月を学年の始まりとする関係で、年度の終わりを3月と考える習慣がある。春が顕著になる月を年度替わりにすることは精神風土と結びつき定着している。

 3月にはいろいろなことが行われる。その中のまとめにあたるものは最もスリリングなものだ。連続していく日常に無理やり切れ目を入れて何らかの形に仕立てる。かなり強引で無理な作業が施される。

 そのためには切り捨てなくてはならないことがあり、急遽作り出すこともなされる。その矛盾を一気に乗り越えなくてはならない。それが強いられ、また許されるのが年度最後の月なのである。

2月も

 まもなく2月も終わる。相変わらず緊急事態宣言下であるが、身辺に大きな変化はない。大きな地震が東北であったのは気がかりだ。しかし、生活には変化はない。

 積雪はなかった。むしろ初夏のような暖かい一日があったのが印象的だ。そしていつものように花粉症が始まった。

 いろいろなことが変わりゆく直前の季節だ。流れに身を任すしかない。そこになにか手応えがあれば私の存在の証となる。

本当の風景

 はてして自分は本当の風景を見ているのだろうか。自分が目にしていることは事実なのか。そんな根本的な疑問を捨てきらずにいる。

 百聞は一見にしかずとは古人の教えである。ただ、見てもやはり分からないことがある。また、目にしている映像が真の姿なのか確証はない。脳は映像を都合よく集成することは錯視の芸術などで明らかだ。

 目にしているものが真実だと思いこむことだけは止しておきたい。私という屈折したレンズの存在を認識して置くことにする。

落差

 自分が思う自分と他人からそう見られている自分とが乖離していると感じている。この感覚は私には不定期で繰り返されているが、今回はかなり深い。

 自分が気分によって調子を変えやすい自覚はある。ただ、これも最近程度が上がっている気がする。年齢を重ねると落ち着いていくというのが世の常であろう。どうも私には通用しないらしい。

 自他の感覚の落差はどこにあるのか。おそらく自己評価の基準がずれていることにある。自分はこれまでの経緯に基づいて己を語るのに、他人はいまの私を見て判断する。他人の方がリアルタイムだというのはなんとも不思議だがこれが事実のようだ。哲学書で読んだことがある。自分を一番よく知っているのは必ずしも自分自身とは限らないと。

 落差はじわじわと私を苦しめる。こういうときはどうすればいいのだろう。一つ考えたのは、自分を見放すことだ。可能な限りメタ認知の機会を演出するしかあるまい。自分探しではなく、他人になることを試みてみたいなどと考えている。

春というより

 ここ数日、春というよりは初夏を思わせるような陽気だった。一時的な気温の上昇らしく、この後また下がるらしい。三寒四温ということばがあるがどうも最近はかなり乱高下が激しい気がする。

 緊急事態宣言の取り下げが来月上旬になりそうだと報道されている。人間の安全と経済活動とのバランスが非常に難しいようだ。ウイルスが蔓延して病人が多数出るのと、経済活動が停滞して貧困者が多く出るのとどちらを選ぶのかという選択なのだろう。もちろん、どちらも選びたくないがこれは両立できない。

 一つ先を感じさせる季節は、コロナウイルスへの対応の一つ先の時代を予見させる。照り輝く太陽のもとで、歩みを止めずにいかに前に進むのか。それを試されている気がしてならない。

回復の兆候

 日本でもウイルスに対するワクチン接種が始まった。そして早くも副作用の報告も出ている。新しい薬には一定数の副作用の可能性があることは分かっている。そのリスクとトレードオフで集団免疫の形成がなされるという。

 ウイルスの脅威が一段階下がったとしてどんな社会が待っているのだろう。もうかつてのような時代には戻れないことは確かだ。リモートワークの可能性を知ってしまった私たちは、これからも多くをネットワークに依存して行うことになるだろう。そして本当に必要なものだけが対面で行われていく。無駄を省くという建前で余裕が奪われ、効率性という意味不明な数字が大手を振って歩くことになるだろう。

 社会の回復の兆候を素直に喜べない私はかなり卑屈だ。しかし、この状況であるからこそ訴えていかなくてはならないこともある。世の中は効率だけがすべてではない。社会は目的を達成すればいいだけの空間ではない。

移住

 漠然と考えていることにいまの仕事が終わったら地方に移住するということがある。そのためには貯えがなければならないがいまのところそれはない。あまりにも非現実的だ。

 少なくともあと5年以上は先のことで、その頃の社会がどうなっているのかは分からないが、少なくとも東京は離れたいと考えている。

 なぜこのようなことを考えるのか。やはり現状に何か違和感を覚えているからだろう。自分の居場所を決めたことがない私の最後の願望だ。