最近、電車内での凶悪犯罪が続いた。断続的にこの種の事件は起きるが最近はその頻度が上がっているような気がしてそら恐ろしい感じがする。
私はこのブログの大半の日を通勤電車内で書いている。最近は混雑も激しくなってきているのでつり革につかまり、右手親指でのフリック入力だ。ただ書き始める前に周囲見渡す習慣ができた。状況把握は不可欠だと思う。
最近は車内でスマホを持っていない人のほうが少ない。何かに熱中するのはよいが、安全確認は怠ってはならない。残念だがこれが現実だ。
日々の思いを言葉にして
タグ: 自己啓発
最近、電車内での凶悪犯罪が続いた。断続的にこの種の事件は起きるが最近はその頻度が上がっているような気がしてそら恐ろしい感じがする。
私はこのブログの大半の日を通勤電車内で書いている。最近は混雑も激しくなってきているのでつり革につかまり、右手親指でのフリック入力だ。ただ書き始める前に周囲見渡す習慣ができた。状況把握は不可欠だと思う。
最近は車内でスマホを持っていない人のほうが少ない。何かに熱中するのはよいが、安全確認は怠ってはならない。残念だがこれが現実だ。
都心にある神社に行ってきた。そこにだけある静謐は脆く見えてしっかりと形を表している。どんなところにもこういった不思議な空間があるのだろう。しばし、雑念を捨てて手を合わせることにした。たまにはこういう時間もいるものだ。
加齢すると判断力が低下するのは高齢者の自動車事故の事例からも容易に分かる。残念ながら脳の機能が低下してしまうのはいかんともしがたい。ならば、どうすればいいのか。AIに頼るというのはもちろん一策であるが、まだそれが実用化するにはもう少し時間がかかる。
では、何ができるか。いまは自分なりに学習し、理屈で生きるしかなさそうだ。アルゴリズムを自ら作っていくということだ。機械がやってくれる前に自分で考えることになる。もちろんコンピュータのようにはできない。単純な法則を決めてやるしかないのだろう。
その意味では昔から言われてることわざというのは知恵のエッセンスのようなものだ。短い言葉のなかにやるべきこと、してはならないことが詰まっている。ただ問題なのはことわざには相反する内容がある。「急がば回れ」と「善は急げ」は真逆だ。そのどちらを取るのかは今置かれている自分の状況を分析して判断していくしかない。ただいずれにしても行動を単純化するのが高齢者の瞬時の判断力低下の補助になることは確かだ。
やる気がいつ起きるかは分からない。特に歳を取るとこれが一番の問題だ。若い人にはせめてやる気を起こさせるようなきっかけを話してみよう。若い人たちには可能性がある。いつか追い抜かれて、そんなこともありましたっけね、などと言われれば本望というものだ。
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空気を読めないの意味ではないようだ。まさかこの毒のある略語が標語となるわけかない。そう思いながら長年分からないことがあった。検索でもすればすぐにわかることだろうがそこまでの意欲はわかなかったのである。
建設現場にはこのKYの文字がたくさんあり、どうも推奨しているようだ。必ず実行すべきもの、毎日意識せよといった言葉とともに並んでいる。流行した同調圧力を伴うあの意味とは違うことは確かだ。疑問は深まるばかりだ。まさに全く空気が読めない状況だった。
最近この謎が解けた。Kは空気ではなく危険、Yは予知で危険予知という建設業には欠かせない心得であることが分かったのだ。大きな資材や器具などを使う建設現場は危険と隣り合わせだろう。常に最悪の事態を想定し、それに備えることは現場の方々には最重要課題だ。しかし、日常化するとそれを忘れてしまうことをあるのかもしれない。この標語で常に気を引き締めようと言う訳だ。
様々な業界用語がある。その中には自分の生活にも活かせるものもあるようだ。KYは自分への戒めにもいただいておこうと考えた。
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ペーパーレスにせよといってもそう簡単にできるものでもない。大きなスキャナーなどがなくてもスマホだけでも紙のデジタル化はできるし、ただの写真ではなくテキストとして認識するアプリもある。それも安価だ。無料のものまである。
ただどれだけ環境が整ったところで、紙を捨てられないのは肝心の自分自身の脳の働きが影響しているようだ。情報と紙面という物との対応が思考の過程で不可欠なのだ。
これをどちらかに振ってしまうのは進歩とはいえない。私の場合は両方で生きていくしかないと考えている。肝心なのはデジタル化という過程だ。これを習慣化すれば次の世界が見えてくる。暫くは両生類として生きることにする。
11月は今日で前半終了だ。小の月だから明日からが後半となる。短い月だが祝日が2回あってなかなか調子を掴みにくい。
休日を活かせるのはやはり一種の才覚だと感じる。最近は休日も負担に思えることがあるからよろしくない。休むときは休む。平日とは別のことをするのがいい。
中学生レベルという言葉に初心者、入門という意味を感じるとすれば必ずしも正しくない。義務教育の最終段階である中学校が教えることの内容は必ずしも初級のレベルにとどまっていない。おそらくすべての教科を中学生レベルでできたならばかなりの教養がある人ということになる。
学校の勉強というのはできなくて当たり前という感じがいつの間にか出来上がっている。テストで60点しか取れませんでしたといえば、まずまずではないかということになる。中学生への励ましならばそれでいい。成長の過程はそれぞれ人によって異なるし、その時できたからといってあとまで続く知識や技能として血肉化しているのかは別問題だ。だから60点だろうが30点だろうが構わない。
でも、どうだろう。卒業後もそれでいいのかといえば問題がある。私たちは中学生レベルを目指さなくてはならない。せめてすべての中学生向けテストで80点以上取れるように努力しなくてはならないと思う。テストなんて今さら受けるのは嫌だと思う。私もだ。受けなくてもいい。ただ、中学生の学んでいることを知らなかったり、知らないことで平気でいることはやめた方がいい。できないならできないなりに努力したいし、せめてできる人に敬意を持つべきだ。
念のために言うが中学校で学ぶものには音楽や美術、家庭科、保健体育もある。それも含めて中学生レベルになることを私も意識しておきたい。
真面目に副収入を得ることを考えなくてはならないと考えている。金が欲しいということもあるが、それよりも他者から認められるスキルなり、体力なりを作っておかなくてはならないと痛感するのだ。
サラリーマンとして長年暮らしていると自ら稼ぐことに無頓着となり、アイデアも能力もない気がする。しかし、きっと何かあるはずですねと最近考えるようになった。人様からお代をいただくためには何らかの利益を提供しなくてはなるまい。人を幸せにするために何ができるのかを考えるべきだ。
情報化社会でなんでもすぐに手に入る時代だが、ネットでは入手しがたいものやことを提供することが大事だろう、挑戦が始まる。
試合において劣勢になり、負けが感じられるようになると、どうしても心が萎縮する。できるだけ被害を減らすことを考えるのだが、その第一が精神的な保護なのかもしれない。
負けが濃厚になるとその理由を探し出す。まずは誰かのせいにし、適当な人物がいないときには社会のせいにする。確かにそういうときもあるのだが、本当の原因は自身にあることも多い。それを認めるのは辛いので他者に転嫁することになるのだ。これは自身の防衛のためには大切であり、必ずしも責められるだけのことではない。
ただ、それだけでは現状を打開できない。まだ負けていないのかもしれない。安易に抵抗の意志を捨ててはならないのではないか。これはあくまで自戒の文章である。