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寒くなった

 急に寒くなった。ただ、今回はいろいろ身構えていたせいなのか、いまのところ大きな体調の変化はない。毎年、この時期に風邪やインフルエンザもどきに罹る私にとってはまだ油断がならない。栄養を摂ることと休むことが大切なのは分かるがそれができないのが、今の私である。とにかくやるしかない。

演出

 平凡な毎日にあやをつけるためにはそれなりの演出が要る。それは一種の生活の知恵であり、必要不可欠なものだ。

 民俗にハレとケの日があるのは、ケの日をより豊かなものとするために、散財してまでもハレの日を設けたのであろう。現代社会は毎日がハレの姿をしているが、実際の日常はしばしば退屈である。その鮮度を落とさずに保つためにも、特別な行事が挟み込まれている。

 ならば我々は人生を送るためにさまざまな演出された毎日を送っていることになる。それが文明人の知恵であり、叡智でもあるのだ。私は民俗学を学びながら、この普遍的事実を忘れかけていた。つまらない毎日と突き放す前に、演出された日常を楽しむことを思い出さなくてはならない。

忘れてしまったこと

 忘れていることがある。日ごろの雑事に追われて基本的なことを忘れるのである。例えば朝の日の光を迎えること。日没後の暗闇で考えることなど、自然の営みを感じることはとても大切なことなのにも関わらずである。

 自分に合っている環境は今の状態ではないのかもしれない。毎日の生活の中でそれが分からなくなっているだけなのだ。一度積もり積もった日常の塵埃を振り払わなくてはならないのかもしれない。その必要性が刻々と近づいている。

やりたいことシフト

 やりたいことのシフトが必要かもしれないと思っている。やりたいこととできることの差が少しずつ出てしまっているのだ。

シフト

 無理をしても何とかできると思って過ごしてきた日々の中で、実際にできるときとできないときがある。十中八九できなくとも、残りの一二でできれば何とかなってきた。野球選手より気が楽だった。

 でも今はあらゆることがデータとなり、始める前から実現可能性が明示されるようになると、さらに自分の状態が過去のそれとは比べられないほどになると、無謀に何かを続けることだけが良いことではなくなる。できないことはできないと認める潔さも必要だ。

 ならばやりたいことを変えなくてはならない。諦めるのではない。最終的な到達点とか、やり方を修正するのだ。これは逃げではなく新たなる挑戦の仕方である。

作られた動画

 写真をもとにそれを動画として表現するということが人工知能の力によって実現されている。過去に撮られた写真から、それを動画化して好きなように動かすというものだ。動画サイトにはいくらでもそのような例がある。過去の偉人の写真を動画にしたり、若かりしときの女優の白黒写真をカラーの動画にすることもできるのである。

 合成した動画が偽物であることは分かつていてもそれをみたときの衝撃は確かに大きい。1年ほど前の生成動画にはいろいろな不自然さがあったが、日々その違和感は修正され、限りなく本物らしくなっている。

 フェイクであることを非難するのはもちろん正しい。が私たちには虚構を楽しむという心性もあってその線引きが時々分からなくなる。目的によっては偽動画を受け入れたい場面もあるのだ。死んだ先人の笑顔が見たいと思ったときに人工知能にそうさせることは罪ではない。

 そう遠くないうちに全編人工知能の生成した映画が上映されることになるかもしれない。その次は作品世界に没入するような仕組みが開発され、作品鑑賞そのもののあり方が変わるのかもしれない。

思い出すきっかけ

 全く他人であっても口調が似ていることによってふと故人を思い出すことがある。記憶を呼び覚ますきっかけは実にいろいろで、言葉の内容が違っても口調とか間の取り方とか息の吸い方などが引き金になることもあるようだ。

 偶然町で出会った人の話し方を聞いて昔お世話になった人を思い出した。その人はもう何年も前に他界されているというのに、そしてその人の話したことの大半は忘れたのにである。何気ない口調から過去の記憶が呼び覚まされる。よく考えてみれば声の質は少し違うし、年齢や風貌も違う。似ている部分がいくつかあればそれでいいのである。

 私たちが人をどのように認識しているのか。そしてどのように覚えているのかを考えてみたい。

模型飛行機

 こどものころ、プロペラをゴムで回す模型飛行機を作った。機体は木材と竹ひご、羽には和紙のような紙を貼った。最近は見かけないがそのころは普通にあった。竹ひごを羽の形に曲げるのがひと技、そこに羽の紙をきれいに張るのがその上の技であった。

 プロペラを手で巻いて飛ばすとうまくいったときは結構遠くまで飛んだ。ただ、機体の強度は極めて弱いので数回で壊れてしまうことが多かった。木に引っかかって取れなくなってしまったり、着陸したところが水たまりで機体が駄目になったり、いろいろなことがあった。

 ただ、出来合いのおもちゃよりは自分で作ったという思いがこの遊びを特別なものにした。今はこの種の飛行機のキットはどこで手に入るのだろうか。またこのはかないおもちゃに魅入られる子どもはいるのだろうか。

続けること

 同じことをいつまでも続けていることにはさまざまな評価がある。いつまでやっているんだとなればネガティブな謂であり、進展のない諦めのよくないものとしての位置づけだ。これはよく聞くことだし、何かと目先のことを変えようとする現代人の気風にも合致している。

 対してその継続性を賛美する評価の仕方もある。刻々と変化を続ける世界の中で同じことをし続けること自体が困難で、それを成し遂げていることは素晴らしいというものだ。自分なりの芸とか創作とか、表現法だとか、そういったものの持続には賛辞を送りたくなる。

 周囲が変わり、何よりも自分自身が変わっていく中で、いかにやりたいことを続けていくか。それがうつろいやすい世界の中では大切な課題のように思える。

現在も未来からみれば過去

 動画サイトを見ていたら自分が高校生の頃にみた風景が出てきた。その頃はビデオカメラを持っている人はわずかでよくも残してくれたと思う。懐かしさとともにいろいろな発見があった。

 現在の当たり前の光景もこれから何年か経てば古記録のようなものになるのかもしれない。特に最近は日々の変化が甚だしく、数年前のことでも大変化の末に分からなくなっている。

 過去の風景を懐かしむとともに現在も必ず過去になるという当たり前の事実を見つめ直したい。記録することの意味はそこにある。価値が出るか否かは未来ならないと分からないのだ。

秋植え球根

 いくつかの植木鉢に球根を植えてみた。チューリップにスイセン、クロッカスなどを少しずつ。この夏は本当に暑かったのでどうなるかと思っていたら、来週からは秋らしくなるという。北海道では雪も降り出すかもしれないというのだから、やはり今年も秋はコンパクトなものになるようだ。

 球根を植えるということは花期まで責任を持つということ。花に対する責任はもちろんだが、己の心身の健康を保つこともその目的なのだ。