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漫画になった自分

 自分の写真をイラストに変えるというサービスを使ってみた。人工知能によってあっという間にできる。自分を漫画にすると特徴が際立ち、さらに美化されてしまう。こんなふうではないがこんなふうならいいという感じになる。

 おそらく自分が見ている風景も脳内でこのように変換されているのだろう。都合よく見たいものを見て、それ以外を見逃している。何を捉え、何を除外しているのかを考えると、世界はまったく違うものになりそうだ。

スポーツ観戦

 最近、スポーツ観戦が以前よりも注目されている。懸命に何かに取り組む姿に共鳴することが快感をもたらすのかもしれない。

 バーチャルな体験は人工知能の発展も伴い、ますます現実に近いものに近づきつつある。いまは視覚的なものが中心だが、近いうちにより五感に訴えるものへと変わっていくはずだ。するとますますリアルな体験が遠いものになる。それ故に逆に現実であることが貴重なものになるのだ。

 スポーツ観戦は現実に行われていることへ、感情移入して、脳科学的には一種の同期を起こすことでリアル体験に近い感動を味わえる。実際に試合をしているわけでもないのに、選手の肉体や精神を内面化したような錯覚を味わえるのだ。

 しかも時間が来れば試合は終わる。日常に帰還することが予め保証されている体験なのだ。最近のスポーツ観戦にはそういう精神風景があるように感じる。

同じ風景を見ても

 同じ風景を見てもそこから何を感知するのかは個人差がある。まったく同じ対象から感じ取るものは違うのだ。このことを多くの人は感覚的には知りながら、実際には思い違いしている気がする。

 事実なり現象なりそういう具象的なものは絶対的なものと考えられやすい。でも、ある現実をどのように解釈するのかは個人差がある。この事実を私たちはしばしば忘れる。個人の間の争いはまさにここを源泉とする。それが集団の、国家の、イデオロギー間の格差として現出することになる。

 ただ、以前よりもこうした問題は分かりやすくなった。私が子どもの頃は自分の属する集団の秩序が絶対化され、それに従わないものを排除することは当然のことと考えられていた。常識という黄金ワードがすべてに優先するかのような錯覚をしていたのである。それが、もしかしたら自分たちの思い込みに過ぎないという相対化がなされたのが現代の高度情報社会の成果だと言える。

 これは良いことのように思えるが、実はそんなに単純ではない。自分の信じる基準が実は相対的なものであり、物差しとして役に立たないかもしれないという疑念は、自らの立ち位置を極めて曖昧にしてしまったのである。あなたの感想でしよ、と言われると尻込みしてしまう自分が出来してしまったのである。

 物差しを失った人間にとって、頼みの綱になるのは何か。多くの人にとって、それは既成の物差しをわが物にすることだろう。そのときにその尺度に対する批判精神が働けばよいのだが、大抵の場合、無批判に受容されてしまう。世の中がそんなふうに動いているのだから、私もそれに従うべきなのだと。

 するとその先にあるのは時勢に流される意志なき個人だ。自分にも自集団にも責任を取らない人間たちの結束なき群衆が幅をきかすことになる。それを自由と呼ぶのか無秩序と呼ぶのかは立場によって分岐するが、いずれにしても御しがたい事態に至ることは間違いない。

外見と中身

 自分のことをよく分かっていないことが私にはしばしばある。自分がどのようにみられているのかは結局のところ自分ではわからない。だから、自分像は想像の産物だ。その想像が現実と食い違うことがこの原因である。

自分は他人にとっては他人である。自分が他人のことをある印象でとらえるように、自分もまた誰かによって特定の印象で捉えられている。それがどのようなものなのかは分からない。自分の存在を意識するのは、他人に見られているときである。人前だと緊張するのは、他人の目があることを意識することで強く自己を意識するからだろう。その意味では他人に見られることで自分というものができあがるといえる。

鏡に映ったあなたは誰

脳科学の世界には鏡像認知と呼ばれる考え方がある。鏡に映った自分の姿を自分だと認知する能力のことである。人間の場合2歳児になるとこの能力が備わるのだという。逆に言えばそれ以下ならば鏡に映っているものが何者かわからないということになる。脳の発達とともに、おそらく他者とのふれあいの中で自分を認識できるようになっていくということなのではないか。

 鏡に映った自分を、これは自分だと認識し、今日はさえないとか化粧のノリがいいとか悪いとかいう場合、その映像を自分としてとらえるとともに客観視していることになる。鏡に映った像を別の鏡が映しているのを見るとさらに話は複雑になっていく。自分は何者かに写されることによって存在感を増すが、それを観察している自分はその実態を客観的にとらえている。

自分を客観的にとらえるということは実際の自分を別の自分が描写することなのだろう。すると、その描写の仕方によって自意識が変わってしまうことになる。私がしばしば味わう、思っている自分と実際の自分の大きな違いはこんなところに原因があるのだろう。

脇役の大切さ

 今更言うまでもないが、演劇において脇役や敵役の大切さは非常に大きい。主役が光るためにはその周囲にいる人物が個性を発揮しなくてはならない。

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 私たちの認識というものは対比という仕組みを大切にする。比較や変化を通して物事を特定するのが私たちの考え方の基本なのである。だから、ある人物のキャラクターを考えるときは、それを知るための物差しがいる。演劇などではその物差しを極端に際立たせることで、わかりやすく人物像をつかませようとするのだ。悪役はあくまで悪に徹し、恋人は魅力的でなくてはならない。ただ、それがあまりにわざとらしいと類型的になってしまうため、さまざまなオプションを加え、変化をつけるのである。

 人生を描写したものが舞台なのであるが、舞台は人生を見つめなおす鏡にもなる。私たちが物事を判断しているのはあくまでも他との比較であり、自分の存在は他者の存在を前提としてしか理解されないということを考えるべきなのだろう。私たちは主役として生きていながら誰かのわき役にもなっている。それをどちらも堂々と演じるべきなのだ。

他人にとっての自分

 自分のことを理解してくれる人がいると信じていたのに裏切られるということはいくらでもある。歳を重ねるほどそれが当たり前となり、受け入れることもできるようになっていくが、かつてはそれは無理だった。

 自分が特別な存在であり、かけがえのないものであることは誰にとっても同様だ。いまではそんなふうに考えることはできる。あるいはそういう考え方をとることで心理的な難局を乗り越えられる。でも、かつてはどうだったろうか。自分だけが不当に扱われているとか、いつもの不運だとか考えていたことを覚えている。

 自分は他人にとっては他人であり、その他人から見た自分がどのように見えているのかは分からない。自身が考えている自画像と一致していないことも多い。それが乖離していると不幸だと感じやすくなるのかもしれない。

 やらなくてはならないことがいくつかある。まずは自画像の描き直しだ。というより、勝手に描いた輪郭線を引き直し過去にこだわらないことだろう。また、その絵がどう見られようと気にし過ぎないことだ。それぞれの作品には素晴らしい味わいがあり、疵もある。それは他人も同じだ。

 人間が集団で生きていく以上、他者との関わりは避けられない。自分の存在と他者との関係をどのように調和させるのか。若い人にはこのことを伝えていきたい。

裏の意味はないように

 寓意というと分かりにくいかもしれない。裏の意味と言えばいいのだろうか。私は比較的この表現法を取りがちな傾向にある。表面的に述べていることと本当に言いたいこととの間に階層があり、わかる人には分かるという言い方をしてしまいがちだ。

 これを分かりにくいというか味わい深いというのかは他者の判断による。私はわかる人には分かるというコミュニケーションを良しとする文化の中で育ってきたせいでこういうややこしい表現をしがちだ。

 でも、最近は少し反省している。比喩や寓意に富んだ表現を理解できない条件を持っている人がいると知ったからだ。センスの問題ではなく、脳科学的に裏の意味を理解しにくい人が一定数いるらしい。彼らが能力的に劣っている訳ではない。ただことばを文字通りの意味て理解し、それ以上は迷わない人たちが存在するということだ。稀少性はなく、普通にいる。

 彼らと共生する私はコミュニケーションの仕方をやはり変えるしかない。最低限伝えなくてはならないことは、修飾語を施さず正確に伝えよう。これをした上で余情あまりある場合は、私の得意なもって回った詭弁を弄することにする。

 様々な環境の人と共生し、助け合って生きていることにしよう。そのためには自分の価値観を押し付けるだけではいけない。時には相手の思いに寄り添うことも必要だ。