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脳の見せる世界なのか

 

 脳科学者は言う。この世のすべてのできごとは脳の機能によってとらえられたことなのだと。確かに脳機能に障害を受けた親の姿を見ると、人生は脳機能が見せる幻影なのかと思う。脳機能が損なわれると本人の行動が変わり、人格も変わってしまう。同じものを見ても脳の状態によって感知できる内容は変わり、それに伴う反応、つまり表情、言葉、雰囲気も変化してしまうのだ。

 ならば、世界は脳の働きでいかようにも見えるのか。よい脳には良い世界が、悪しき脳には貧しい世界が感知される。世界を楽しめるか否かは脳の働き次第なのかということである。もしこの考え方を認めるならば、人生は脳機能によって決まるということになる。良い脳を持ったものが幸せを掴み、悪しき脳の持ち主は浮かばれない。浮上するチャンスを失い続け、結果として精彩を欠いてゆく。

 それは何か違うのではないか。脳の機能は確かに大きい。人類は脳の発達にかなり影響されているとはいえ、それ以上にその場の雰囲気、状況にかなり影響されていると考えるのだ、脳のフイルターを通らなくても感じている何かがあるのではないかと考えてしまう。すべてを身体の機能に還元しようとする現代の知見には敬意を払いながらも敢えて別の見方をしてしまうのである。

突然思い出すのはなぜ

 過去に覚えたことが唐突に思い出されることがある。今朝は化学で使われる用語をなぜか思い出した。濫読の際にたまたま目にしたもので、詳しいわけではない。きっかけも思い浮かばない。

 そういうことは時々起こる。いつもは思い出そうとしても思い出せないのに、いわば無駄に出てくることがある。このメカニズムは何なんだろう。記憶というものがどのように成り立っているのかには興味がある。脳の衰えを感じ始めているからだろうか。

 コンピューターのようにデジタル化したメモリーをコマンドで取り出すのとは違う何かがあるのだろう。

雑念がわくのは意味がある

 何かに集中しなければいけないときに他の様々なことが想起されて思考を邪魔することを雑念ということがある。私はこの意味の雑念の多いたちなのでこれに悩んでいた。ところが歳を重ねるに従いこの雑念が減った気がする。

 集中力が向上したというわけではない。何か別の話題が浮上してやるべきことを妨げることは減った。しかし、何も考えずに茫然としてしまうことがふえたように思う。CMのコンテンツがなく、イメージ画像を流すような感じだ。呆けるとはこのようなことなのだろうか。

 現時点ではいま自分は何も考えず時間を過ごしているというメタ認知のようなものは機能している。これがいつの日にかなくなるときが来るのだろうか。雑念に悩んでいた頃は僧侶のような無の境地を憧憬したが、あるいは雑念が湧くということは大切な生命力のしるしなのではないかと考え直している。

まるまり

 認知症という言葉はかなり強烈だが、人は多かれ少なかれ脳の衰退に向かっている。私は短期記憶の低下を自覚しているのでちょっとしたことでもメモするようになった。これでしばらくは凌げるが、そのうちメモしたのかどうかもわからなくなるだろう。

 脳の皺が知能に関係するというのは本当なのか私には分からない。もしそうならば比喩的な意味において、その皺がなくなっていくのが加齢ということなのかもしれない。皮膚とは反対である。

 四捨五入することを丸めるという人がいる。脳が退化すると無意識的のうちに世界を丸めだすのかも知れない。大雑把に捉えることは知的なレベルで行えば高次元の行為だが、この方面は寂しさ伴う。ただ、詳細にとらわれないことは大切なのかも知れない。世界のまるまりを楽しむような余裕が必要なのだろう。

似ている似ていない

 誰かに似ていると言われることが時々ある。最近は減ったが、芸能人に似ているとも言われた。残念ながら二の線ではない。言われて必ずしも嬉しくはない類のものだ。顔の類形というのは怪しいもので、人によっても年齢によってもかなり異なる。どう見ても似てない人をそっくりだという人がいる。逆に私にとっては瓜二つだと思うのに同意が得られないこともある。

 似ているかどうかの判定基準が人によって違うということだ。物差しになるものが違う。輪郭と背丈が同じなら同一人物としてしまう人がいる。髪型とか眼鏡の一致で区別する人もいれば、ほとんど見分けのつかない姉妹を見分けられる人もいる。似ているいないはその判断に個人差が大きい。

 私自身も出会う人をかなり単純化して認識している気がする。どこかであったことがあるなどと勝手に考える。曖昧な人物認識の中で日常生活は成り立っていることになる。

 スマートグラスなどができて人物の認識が厳密になされるようになったら私たちの生活はどんなふうに変わるのだろうか。曖昧な方がいい気がする。

人格の保存

 あくまで仮の話だ。人工知能の発達は日進月歩だが、もしある人物の性格とか信条や思考の癖を記録し、再現することができるシステムが出来上がったならば、どのようなことが起きるだろうか。

 さらに空想を重ねよう。外見上ほとんど本人と変わらない容姿を持ち、極めて自然な動きをする機械に先ほど述べたある人物の人格を記憶させた人工知能を搭載したとすれば何が起こるのだろう。

 この話の延長上にはある人物そっくりのもう一人の彼または彼女が出来上がるということだ。そんなことは藤子不二雄の漫画のパーマンに登場していた。コピーロボットでもう一人の自分を作り、活躍中の不在を埋める時間稼ぎをしていた。鼻のスイッチを押さない限り、他人からはそれがロボットだと気づかれることはない。

 この問題を考える上で欠かないのは、人格とは何かと言うことだろう。性格と思考や行動の様式、さらには身体的特徴が一致していれば同一人物と言えるのだろうか。これはクローン技術という文脈でも語ることができるが生命倫理に抵触しないと思われる人工知能とロボット工学の組み合わせで考えている。

 もちろん直感的にも経験的にも同一人物とは思えない。完全なコピーがなされたとしても別の人格のように思える。なぜなのだろうか。仮にマスターの動きを完全にシンクロナイズするコピーが行われたときは間違いなくコピーの方に人格を感じられない。モノマネ機械と判断する。ただ、どちらがマスターでコピーか判別できないときはどうだろう。

 次に、コピー側が自主的に行動する場合はどうか。自ら考え、意見を述べ行動する場合はもうコピーとは思えなくなる。マスターとコピーが会話をしたり、争ったりしたら完全に別人格と感じるだろう。外見がそっくりの双子の姉妹のどちらにも人格を感じるのと同じように。

 人為的にそっくりというより等しいものとして造られたコピーは、性能が高ければ人格を認めていいのだろうか。

 さらに屋上屋を架す。例えば尊敬してやまない先人の精神と肉体を完全にコピーして、我が家の一員として迎えた場合、彼もしくは彼女は家族の一人なのだろうか。それが認められたなら人格の保存はできるのだろうか。何か非常に根本的な部分で間違っているように感じる。それをまだ説明できない。

音読、手書き

 情報が何でも手に入る時代になり、私たちの世代はさまざまな矛盾に直面している。子供たちに何かを質問するとかなりよく知っている。中には少し専門的な用語も出てくるので相当な博識なのかと思ってしまう。さすがに現代の子どもは違うと感心する。しかし、この思いは簡単に覆されることが多い。

 同じ子どもに同じ分野の別の質問をすると答えられないということがある。それもどちらかといえばだれもが知っている初級レベルの内容と思われることにおいてもその傾向がある。また、先に感心した専門的な話題を別の要素と組み合わせて尋ねると何のことを言っているのか分からないといった反応になる。ここに違和感を覚えてしまうのだ。

 おそらく今の子どもは情報を点として覚え、その数を多めに持っている。だが、その点はほかの点と結びつけられることは少なく、孤立した知識になっているのだ。これはコンピュータで検索した結果をクリップしている状態と同じだ。物知りだが物は知らないという逆説が見られる。

 そこでいま何が足りないのかと考えれば、情報を点ではなく線で、そして面でとらえることの大切さなのだろう。それには読書することや講演を聞くことで一つ知識や情報の背景にあるものを知ることが肝要と言える。読書もそのままにすると、点としての知識吸収になりやすいので、音読の形で自然な人間の認知の手順を再現した方がいいと考えられる。そして、考えたことを手書きでまとめる。音声化と言語化というごく当たり前の活動が人間の脳には欠かせない。これを飛ばすと偽物知りが生まれることになるのではないか。