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スポーツ

 最近、スポーツと呼ばれるものをやっていない。毎日、約12,000歩ほど歩き、立っている時間も同年齢の中では多い方ではないかと思う。でも、これは必要にかられてやっていることであり、自主的に行うスポーツとはかなり違うものである。

 なんのためにスポーツをするのかは、人によって違う。いわゆるプロ選手は収入のために行うのであり、その収入は他者より優れた成績を取ることで達成されることが多いから、身体をはって行う。そこに楽しみを感じられれば幸せだけれども、必ずしもそうもいかない。

 健康のためにスポーツをする人もいる。勝利よりも継続することの方を重視する。これは健康という報酬を前提とする。勝敗は無関係というが、何かしらの目標がなければ続かない。意図せずとも他人と比べることになってしまう。そして健康という勝利が実感できないと精神的に不健康になる。

 スポーツは交流の機会という側面もある。試合が終われば互いの健闘を称え合うことで輪が広がる。そういう目的があって、実はかなり大切だ。最近は一人でできるスポーツやそれを行う施設が増えてきた。そしてそれが輪を広げるというスポーツの大切な効果を無にしている。

 スポーツとは何か。そして何をしなくてはならないのかを考える1日であった。

転じて夏日

 今日は昨日比で最高気温が10℃前後上昇するらしい。夏日となるのは確実で、それ以上の記録になるかもしれないという。明日はさらに上がるという。

 連休は今年は前後に分断されるが、休むときにはしっかり休まねばと思う。身体の急速はもちろんだが、それよりも大切なのは精神面のリフレッシュだろう。閉塞感が横溢する中で、実はいくつもの出口があるはずであることに気づかなくてはならない。そのためには一度日常から離れることも大切だ。

 今日明日の暑さで身体の馴化を行い、連休を楽しめるようにしたい。

調子の良し悪し

 少し時間がすぎるとなぜこんなことにこだわっていたのか分からないと思う経験は何度もしている。細かいことにこだわっていた自分が不可解な存在の様に思えてならないこともある。なぜなのだろう。

 私たちはものを考える際に身近な環境の影響を受けやすい。目につくものを基準にして物事を考えていく。だから、そのときにどのような環境に置かれているかが、判断基準に大きな影響を及ぼすことになる。

 その環境と呼んだものは刻々と変わるもので、常に揺れ動いている。だから、それを基準にした価値判断もまた非常に不安定なものと言える。その時は正しいと思っても、実は見方を変えればまったく別物に映るということもしばしばある。最初に述べたことは、このように価値基準が変わった後に過去を見返したときに起こる。

 このようなことを書きながらも、私は日常を超越することなどできず、その都度悩み、その都度苛つき、その都度落ち込んでいる。とても残念なことだが、この繰り返しからは抜け出せそうもない。ただ、少々馬齢を重ねたお陰で、わずかながらメタ認知ができるようになっている。

 このところ不調が続いており、いろいろな行き詰まりを感じている。それも本当は錯覚かもしれないと考え直すことにしている。自分が考える調子などというものほど怪しい感覚はない。だめだと思うときも、絶好調と思うときもどこかで考え直す必要がある。

裏の意味はないように

 寓意というと分かりにくいかもしれない。裏の意味と言えばいいのだろうか。私は比較的この表現法を取りがちな傾向にある。表面的に述べていることと本当に言いたいこととの間に階層があり、わかる人には分かるという言い方をしてしまいがちだ。

 これを分かりにくいというか味わい深いというのかは他者の判断による。私はわかる人には分かるというコミュニケーションを良しとする文化の中で育ってきたせいでこういうややこしい表現をしがちだ。

 でも、最近は少し反省している。比喩や寓意に富んだ表現を理解できない条件を持っている人がいると知ったからだ。センスの問題ではなく、脳科学的に裏の意味を理解しにくい人が一定数いるらしい。彼らが能力的に劣っている訳ではない。ただことばを文字通りの意味て理解し、それ以上は迷わない人たちが存在するということだ。稀少性はなく、普通にいる。

 彼らと共生する私はコミュニケーションの仕方をやはり変えるしかない。最低限伝えなくてはならないことは、修飾語を施さず正確に伝えよう。これをした上で余情あまりある場合は、私の得意なもって回った詭弁を弄することにする。

 様々な環境の人と共生し、助け合って生きていることにしよう。そのためには自分の価値観を押し付けるだけではいけない。時には相手の思いに寄り添うことも必要だ。

素顔恐怖症

 マスク生活が終わろうとしている。私の場合は花粉症対策もあり、しばらく後になるがそれもそう長くはない。道行く人が皆マスクをしているという異常な光景は間もなく見納めだ。しかし、復帰にはいくつかの関門がある。

 コロナのパンデミックが始まる以前から常にマスクを外さない人がいた。身体的な要因からではなく、心の問題であった。自分の素顔を晒すことに極度な恐怖を感じるのだという。マスクをする代わりに派手なメイクをしたり、中には奇抜な衣服を身に着けたり、異性の服装をする人もいる。衆目を集めることになるが、見られるのは自分自身てはなく、自分が作り出した容姿であるという安心感があるようだ。

 マスクはこうした素顔恐怖症の人たちの救いであった。これからもそうなるはずだ、この症状には濃淡がある。私もその薄い症状になっている気がする。マスク越しでないとできなくなった何かがある。

 恐らくこうしたおそれは日常生活の中で徐々に消えていくのだろう。どうしても難しいときはまたマスクをつければいい。その意味を理解する人は以前より格段に増えているはずだから。

後天的な感情

 雑な言葉づかいをしていると感情が雑になるという言説によく出会う。私たちが感情や行動を言葉を通して認識している事実からして的を射たものと言える。

 しかるに現代は語彙の貧困化が進み、社会的地位のある人にも言葉が乏しい人がいる。恐らく彼らの多くは感情表現が偏っており、独善的な面が多い。感情のグラデーションが乏しいから、予想外のことが起きると異常反応をしてしまう。

 感情は後天的に獲得されるものなのかもしれない。そのためにも語彙を増やすことに関心を持つべきだろう。