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まずはカネを回そう

 いろいろなものが値上がりする中で外食産業は苦しい経営をしているという。原材料費の高騰は特に深刻でそのまま価格転嫁できないのも問題だ。日本の外食は為替レートの問題以前に安価であると言われている。しかし、質的な低下もできないので、結局は人件費の節約などになり、満足できるサービスができなくなっている。レストランでしばしば遭遇する下膳後回しの光景はその象徴だ。

 こうした状況を打開するには、国民の収入を上げることが第一でカネを回さなくてはならない。どうもこの誰でも分かることを、思いきってやってみる経済界の動きが欠けているように思える。じり貧になる前にやるべきことがある。

教員はいなくなるのか

 年の初めには過去を振り返るよりも将来を考えることが多い。ただ、私のような年齢になると未来を考える際に過去の経験を参照しすぎる傾向にある。前例にこだわりすぎてはならないと自戒するものの、やはり過去の例からものを考えなくては何も始まらない気がする。教員という仕事が将来なくなるという人がいる。AIの教育ヘの応用ができれば一斉教育をする教員という人間よりはるかに効率よく教育ができるというのである。これは半分当たっていて、半分間違っている。だから教員の未来予測については意見が分かれるのだろう。

 確かに一斉教育の弱点は個々人の能力や特性に配慮が届かないということにある。教え方の緩急も人によって調節するべきだし、少し厳しくいった方がうまくいく人と、自由にやらせた方が成果が伸びる人がいる。これは人次第なのだが、それにいちいち対応できない。いまでも優秀な教師はこのことを知っていて生徒に適切な助言をしている人もいる。でも、それがすべてうまくいっているのかといえばそうでもない。まぎれもなく生徒と教員との相性という要素もあるからだ。

 ならば柔軟にカリキュラムを個人向けに変えていくAI教師の方がうまくいくかといえばそうとも限らないから厄介だ。機械任せで学習するよりは結局、自分の力でやる方が身になる。また分からないことは教員に質問して解決したほうがはるかに理解が早いのだ。コンピューターで学習してうまくいく生徒もいるので一概には言えないが、私の経験上では大抵はうまくいっていない。私たちは大人も含めて情報機器の扱い方を習得できておらず、自分の能力を上げるための補助として使いこなせていないのである。

 この先の教員の役割はもちろん個々の生徒の精神的な補助をしたり、疑問点を先回りして考え、質問に備えるといったことがある。そして何よりも生徒の学習意欲を高めるあらゆる工夫をする必要がある。また学校という集団社会の中で個々人の役割を考えさせ、決して他人と同列になることが幸せの目的ではないということを知らせる必要がある。ある大学に入学せよというのは分かりやすい目標だが、それは多くある目標の一つにしか過ぎない。それよりも自分が何を学びたいのか、それが今後の人生にどのような意味を持つのかを個別に説明する存在であらねばなるまい。

 学習するのは個々人だが、学びに向かわせるのにはコーチがいる。それが教員の仕事なのだろう。そういう風に変わっていけば教員という仕事はなくならないだろうし、むしろこれから人材不足で積極的に求められるようになる。これから教員になる人には可能性のある仕事であること言うことを伝えたい。ただ皆さんの恩師と同じことをしていては先細りになるかもしれない。学ぶことが好きでそれを他人に伝えることができるか否かが肝要なのだ。

今年のニュース

 この時期になると発表がある10大ニュースという企画がある。読売新聞が発表した読者が選ぶ10大ニュースは、


石川・能登で震度7
大谷 初の「50⁻50」
パリ五輪 メダル日本45個
新紙幣 20年ぶり
闇バイト 続発
衆院選 与党過半数割れ
自民新総裁に石破氏
日航機・海保機 羽で衝突
ノーベル平和賞 被団協が受賞
「紅麴」サプリで健康被害

となっている。
 元日の大地震には驚いた。しかもその翌日に羽田の航空機事故があり、なんという年明けだと誰もが思ったはずだ。死者が出た海保機は能登への救援に向かう途中だというから、なんとも残念でならない。能登は9月にも大雨の被害があり死傷者が多数出た。重なる不幸を痛ましく思うとともに支援を考えなくてはならない。
 経済の分野ではGNPの順位が落ちたことが話題になった。円安に少子高齢化による構造的な問題もあり、この傾向は続く、ドル建てにした一人当たりの名目GDPでは韓国に昨年度から抜かれていたことが発表されている、日本の経済停滞は大問題であり、今後いろいろな問題が噴出する可能性が高い。
 政治の分野で自民公明の与党が衆院で過半数を割り、少数与党に転落したのは裏献金問題が直接の原因だが、経済政策に対して効果が得られなかったことが影響しているのだろう、いわゆるアベノミクスで一時的に衰退をごまかせたが、成長はできず結果として今の事態が起きている。野党は政権交代だけではなく、国民の利益になるような提案を起こして頂きたい。海外ではアメリカやイギリスなどで政権交代が起き、ウクライナやパレスチナの問題は一向に終わらない。被団協がノーベル平和賞を受賞したことも世界的な平和へのメッセージを送りたいということなのだろう。
 スポーツの世界では比較的明るい話題が多かった。オリンピックでのこれまであまり振るわなかった種目での活躍はめまぐるしかった。プロスポーツでは、バレーボールや、バスケットボールなどでの日本代表が国際大会でも勝てるようになってきた。サッカーはアジア大会ではかなり安心して戦えるようになっている。野球はMLBの大谷選手らの活躍が連日報道され、暗い話題が多い中で多くの人たちの救いになっていた。
 闇バイトなどのネットを利用した犯罪集団が多発しているのは残念だ。様々な不安定さが新たな犯罪を生み出す精神的な闇を生み出さないか。来年もそのことには注意しなくてはならない。

闇バイトの対義は

 闇バイトという困った事案がある。警察はこれに対抗するために仮想身分捜査という方法を検討しているという。これは捜査のために偽の身分証明書等を使い、犯人グループに潜入捜査とするというものだ。いわば悪を懲らしめるための悪である。最近の悪質な犯行から考えると仕方がないのかもしれない。少なくとも捜査官が入るかもしれないという事実が多少の抑止力になるかもしれない。捜査官は命がけということになる。心配だが職務には敬意を禁じ得ない。
 闇ボランティアの対義は何かという話題もある。光バイトという人がいるが、バイトの性質を金銭を得るための短期労働もしくは非正規雇用の形態と考えるならば、何が光なのかは分かりにくい。社会的に認められ、利他的な結果につながる公共性の強い労働に従事するアルバイトならばそれに該当するのだろうか。しかし、これは闇と光という対称しかみていない。バイトの対比としては金銭の獲得を目的としないボランティア活動が想起される。ならば光ボラが対義なのであろうか。
 ボランティア活動は無賃金労働かといえばこれも違う気がする。ボランティア活動には無償性のほかに、自発性と無償性が必要とされる。そしてある時には費用の一部を受益者が負担する場合もある。例えば遠隔地から来たボランティアに対し、宿泊所を用意したり、食事の提供をすることなどはボランティア活動の意味に抵触しないだろう。
 忍び寄る衰退基調の中で、少しずつ人々の心がすさんできている気もする。こういうときほど慈善の精神を考えることも必要であろう。それが光ボラの実践で果たせるならば社会は変わっていく。

印象操作

 最近、気になっている言葉に印象操作がある。マスメディアからソーシャルメディアまで、事実の一面を強調することにより、全体のイメージを変えてしまうことだろう。これを結果的に行って来たのがこれまでのメディア史だったが、最近は明らかに意図的に行っている気がする。

 例えばある出来事について、その賛成派を中心に取材すれば好意的報道になるが、反対派を中心に報ずれば批判的になる。マスメディアは一応公平性を配慮するが、それでもどこを切り取るかで受け手の印象はかなり変わる。ソーシャルメディアは元々発信者の個人的な意見なので偏向報道そのものだ。

 メディアリテラシーが意識されているうちは何とか見過ごすこともできる。ただし昨今のように目まぐるしく、大量の情報が流動する状況では何が中立で何が偏向しているのかなど考える余裕がなくなってしまっている。

SNSに流れた情報があたかも事実、もしくは多数意見のように振る舞い、多くの人がそれを信じてしまう。よく考えれば、雑踏の中の誰かの呟きに過ぎないのに、おかしな力を持ってしまうのだ。少し前の、インターネットなどなかった時代の人たちの感覚を取り戻したい。トイレの落書きをどれだけの人が信じただろうか。

 意図的に事実を歪曲しようとする印象操作はAIの力も借りてますます巧妙化している。どんな報道がなされても、そこにある映像がいかにももっともらしくとも、立ち止まって考えなければならない。それができれば、操作されない自由が獲得できる。

味気ないサービス

 最近いろいろな店が機械化をして、人件費を節約しようとしているらしい。飲食店の配膳ロボットはすでに市民権を得ているが、掃除をしたり、公園保護の仕事をするのは機械の得意とするところだ。こうしたことの機械化は人口減少の未来の救いになるかもしれない。

 ただ、対人的な雰囲気を重視する人たちにとっては残念なことなのだろう。日本に訪れた外国人が日本の様々な優良なサービスを称賛したあと、飲食店の注文がタッチパネルなのは残念だという。世界有数の接客サービスと聞いていたのに、実際はむなしくタップやスワイプをするだけだったというのだ。接客を楽しみにしている人にとっては今の状況は期待を裏切るものであろう。

 経済効果とか効率化とかそういう言葉では測れない何かが客商売にはある。顧客に満足してもらうことが大事だ。そのためには熟練した従業員が必要であり、彼らを雇うことができるだけの資本力が要ることになる。価格に転嫁されれば格安店には勝てなくなる。安いが味気ない店か、高いが印象の良い店か。今は選べるだけ幸いだ。今の調子で人口減少が続き、移民を受入れず人手不足のままならば、味気なさが蔓延することになる。

選挙ビジネス

 選挙がビジネスになっていることについては少なからぬ国民が危惧していると思う。兵庫県知事選挙で公職選挙法違反があったか否かが報じられているが、その候補者を後方支援した者が展開する選挙ビジネスは民主主義の盲点を突くものだ。今のところはその程度で済んでいるが、最後には民主主義を破壊するのではないか心配になる。

 そもそも、国民の代表を選ぶべき選挙はその制度上、一定の良識を有する者が運営するものと考えられてきた。ところが、最近は規則の範囲であれば何でもしていいという風潮がある。非常識というよりは反社会的と言える行動をして憚らない者が出ている。

 残念ながら彼らに一定の支持をし、投票する有権者がいる。彼らの活動源は実は税金であり、選挙というビジネスをしていることを分かっているのだろうか。

 いかなる政策を目指そうが個人の自由であるが、それを金儲けの道具にしはてはならない。表向きは政策を語りながら、実はしたたかに蓄財している者がいることを見逃すべきではない。

繊細な子供たち

 繊細な子供が増えているという。打たれ弱く挫けやすい。兄弟がいないか、いても一人で幼いころから複数の大人たちに大切に育てられてきたから、怒られる経験があまりなく、ストレスに対する耐性が育たないまま年齢を重ねている。その結果、心のコントロールができないのだ。

 ドメスティックバイオレンスのような極端な挙措は言語道断だが、ある程度の愛ある緊張感は必要だった。それが何でもストレスを与えることは悪のような風潮ができ、甘やかされた子どもが、そのまま大人になる。善悪の判断も曖昧になりがちだ。

 私はこれを他人事として語っているのではない。私自身も叱られることへの耐性や反発力のようなものが損なわれている気がしてならない。両親は溺愛タイプではなかったが、それでも理不尽に叱りつけることはなかった。そのせいなのかは分からないが、些細なことにストレスを感じ、それに押しつぶされそうになる。

 昔はよかったとは思わない。ただもう少し力強く生きることも必要ではないかとも思う。何でも合理的に整備された環境で疑問を持つことなく毎日を送るのは、理想ではあるが生きる力を削ぐことにも繋がってしまう。

 その意味で部活動やその他の集団活動を大切にすることは不可欠だ。疑似的社会集団の一員として、ときには失敗や衝突を経験することで理屈だけではどうしようもならない社会の現実を知るのは無意味ではない。

 それなのにそういった活動はいまは評価が低く、学校の場合は教員のサービス残業でようやく成立している。教育は教室の中だけで行われるのではない。

 平和な時代に逞しさを涵養することはなかなか難しい。下手に規律を強要すると全体主義への扉を開くことになるかもしれず、自由を制限する可能性もある。注意深く考えること、振る舞うことが求められる。

ローカル・ルール

 その場所、地域だけで通用するルールがある。その多くは明文化されておらず、仕来りといった言葉で表されることも多い。よそ者にとっては理解が難しいので、不公平とか不正と映る。何事もグローバルを志向する現代社会においてこうしたものは悪しき因習とされる。

 一方でこうした内輪の約束は少なくともその地域の安定を図るためには有効である。ここではこのようにふるまうべきだという決まりがあれば、迷うことなくものごとを進められるからだ。結果的に余計な手続きを踏まずに結論を出すことができる。批判に関してもローカル・ルールを共有していればかわすことも容易だ。

 もちろん、不公平もよくないし、地域の暗黙の了解で物事が進むのもよくない。これは択一ではなく、両者の良いところを組み合わせ、融合すべきだろう。ローカル・ルールの役割を再評価し、その問題点を克服できるようにしていかなくてはならない。






連休

 9月は連休が2回もある。これは設計ミスかもしれない。今年の場合、もともと連休を作るために日にちを移動してきた敬老の日に加えて、秋分の日も日曜に当たるため、振替休日が設定された。

 休みが多いのはいいことだが、曜日ごとに決まったことをする職種にとっては、月曜が集中して削られて行くことは色々な不都合がある。振替休日がなぜ月曜なのかということを考えるべきだ。

 日本は世界的に見ると祝日が多いという。それでは休みが多い国なのかというとそうとも言えない。日本の労働環境では個人が自分の休日を申請することが難しい。制度上は有給制度などがあっても、それを行使するには障害が多い。

 祝日の多い我が国はそれがなければ休むことがままならない。もっと休暇を取れるシステムを各組織が取るべきなのだろう。