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脚本の性差

 脚本を考えるとき女の登場人物にはいわゆる女性言葉を使う。語尾に「わ」「よ」などをつけて女性性を表現する。でも、それを聞きながら、こんな言い方を女はしていないと思うことがある。言葉におけるジェンダーの問題は深いのである。

 演劇は現実の反映であるが、現実そのものだとうまく伝わらないことがある。現実の性質の一部を誇張したり、省略したりしてそれらしさを際立たせる。短時間で限られた設備の中で、キャラクターを造形するためにはそうした虚構が必要なのだ。作る方も見る方もその約束のもと成り立っている。

 女の話し方にしても、年齢や性格、立場、話す相手、そのときの感情によって言葉遣いは変わる。これは男も同様である。こういう人はこういう話し方をするものという社会的な約束があるから、それを利用しているとも言える。だから、実際の言葉遣いはそれとは違うことが多い。

 一方で、たとえば演劇で語尾に「わ」のつくヒロインの台詞が現実の女性の話し方をある程度決めているのだとも言える。影響力が強いテレビドラマや映画などならなおさらだ。虚構が現実を規定することも同時に起きている。

 現実社会でも私たちは一人で何役もこなし、その都度、言葉や振る舞いを使い分けている。

脚本家の出番

最近のドラマなり演劇のストーリーはかなり凝っていてかえって生の感動を得られない。これは私だけの感想なので根拠のない言説である。でも、そんな世間擦れした私でも感動のツボに入ってしまうことがある。これを提示できるのがプロの脚本家なのだろう。

私の場合、趣向を凝らした複雑な筋より単純に感情移入出来るものの方が好みである。そのためにはありそうでない展開を組み合わせ、受け手の感情を揺さぶることが求められる。日常の連続のように見えて、少しずつ創作の意図に引き込み、最後に飛躍する。そういう展開は感動しやすい。

人工知能に条件を指定してストーリーを作らせたところ、設定や展開は一応できていたが、感動させる飛躍の幅が大きすぎる気がする。無理矢理結末にもっていったという感があるのだ。この点の塩梅はやはり脚本家の出番なのだろう。

芝居の感想

 ある演劇を観た高校生が感想を語り合っているのを耳にした。登場人物の振る舞いや、台詞について情熱的に語っていた。中には私とは見方が違うと思うこともあり、基本的な筋の読み間違いではないかと思う発言もあったが、概ねは賛同し得る意見であった。

 立ち聞きしたのは申し訳なかったが、私が驚いたのは細部にわたって様々な解釈がなされていたことだ。私と言えば、芝居の構成や他の演劇との類似性、伏線の答え合わせなどなんというか本質的てはないことばかり考えていたのである。理屈で芝居を観るのではないと思うがそうしてしまうのだ。

 純粋に演劇の世界を楽しむにはある程度の没入が必要だが、私はどこかで自分を押し止めてしまっている。それが本当の意味で楽しめていない原因かもしれない。

メリハリ

 感情の高ぶりを大声で示すことは分かりやすい。自然な感じがする。でもよく考えると実際はそうとも限らない。本当に感動したときには声が出ないこともある。

 舞台で大きな感動を表現するのでも絶叫だけが手段ではない。むしろ声や音響、照明の効果を使わなくても感動を表すことはできるはずだ。ただ、それには演技力がいる。立姿だけで感動を表すことは容易ではない。

 絶叫は何度か繰り返されると見る方に用意ができてしまう。不意打ちと変化こそが効果的なのだ。そのためには構成にメリハリをもたせることが不可欠だ。

間を置くこと

 演劇の世界では台詞をいかに観客に届けるのかということに拘る。一つには声量を大きくして、滑舌よく話すこと。これが最低条件だ。ただそれだけではない。あえて何も発しないことも大切な表現手段とされている。

 何かを伝えるときに一本調子だと聞き手は次第に刺激を失う。熱心な聞き手ならそれで構わないが、多くの場合、聞き手は気まぐれでわがままだ。彼らの耳目を集めるには工夫がいる。その方法としてマイナスのメッセージがある。つまり何も発しないことによって注目させるという手法だ。

 これはうまくやらないと失敗する。情報を発しないのは空白を作ることだ。それに耐えるのは発信者にとっては忍耐がいる。間を置くと一言ではいうがさほど簡単ではない。一度コツを覚えるとこれが効果的な情報伝達法であることを知る。若者にはこの経験を持たせたい。

 そのためには演劇を体験させることが必要なのかもしれない。学校で演劇をさせることは以前からその意義が語られている。それなりの指導ができる教育者もいる。

ある枠組みの中で

 様々な人間の生き方を共通するある枠組みの中でとらえるという手法は文学などの創作の世界では常套的だ。たとえば同じホテルに宿泊した人たちの人間模様を描くグランド・ホテル形式はいろいろな作品にみられる。この変形としては建物や乗り物ではなく、特定の地点の話としたり、特定の祝祭や行事を枠とするものがある。

 この方式で描く群像劇はそれぞれの人の違いの書き分けが肝要だ。同じ場所にいても個人の属性やおかれた立場が異なれば行わることは大きく変わっていく。年齢、性別、職業、直前に起きた出来事、人間関係など、それらのどれか、または複数が変われば大きく結果が変わっていくことになる。

 私たちはこういった作品を見たときに、いかに人生は多様なものであるのかを知り、そこに感動のポイントを見出す。個々人に別の今日があることは当たり前なのだが、日常生活の中ではそれを意識できない。むしろ自分と同じような毎日を過ごしている人が大半なのではないかとなんとなく考えている。そう考えることで安心もする。自分が自分だけの生き方をしているという自覚は時に大変な緊張をもたらすものだ。

 枠組みを決めて世界をみることで見えなくなるものがたくさん増える。その一方、見えてくるものも生じる。気づかなかった要素が浮き上がってくるのだ。

脇役の大切さ

 今更言うまでもないが、演劇において脇役や敵役の大切さは非常に大きい。主役が光るためにはその周囲にいる人物が個性を発揮しなくてはならない。

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 私たちの認識というものは対比という仕組みを大切にする。比較や変化を通して物事を特定するのが私たちの考え方の基本なのである。だから、ある人物のキャラクターを考えるときは、それを知るための物差しがいる。演劇などではその物差しを極端に際立たせることで、わかりやすく人物像をつかませようとするのだ。悪役はあくまで悪に徹し、恋人は魅力的でなくてはならない。ただ、それがあまりにわざとらしいと類型的になってしまうため、さまざまなオプションを加え、変化をつけるのである。

 人生を描写したものが舞台なのであるが、舞台は人生を見つめなおす鏡にもなる。私たちが物事を判断しているのはあくまでも他との比較であり、自分の存在は他者の存在を前提としてしか理解されないということを考えるべきなのだろう。私たちは主役として生きていながら誰かのわき役にもなっている。それをどちらも堂々と演じるべきなのだ。

登場人物

 小説や演劇などのストーリー性のある作品において、すべての登場人物にはその存在意義があるということを教えている。教員である私にとって伝えなくてはならないことの上位にある事実だ。

 主役脇役あるいは端役という言い方があり、確かに小説、演劇などの創作において登場人物のもたらすメッセージに濃淡があるのは事実だ。だが、作品全体の構成から考えるとすべての登場人物には役割がある。その役を果たすことによって作品が作られていく。

 創作者はそれぞれの人物に託して世界を形成する。こういうことは実際に作者になったり、役者となって演じてみると納得できる。そういう機会を与えることも大切だ。