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地域格差

 人口減少に情報社会が相乗すると地域格差は一層広がってしまう。

 政府が用意したSociety 5.0の広報ビデオには交通不便な場所に住む高校生らしき人物が登場する。生活に必要なものは無人操作のドローンが配達し、人工知能を搭載した冷蔵庫がレシピを提案、昼食のパンはいつもの商店に予約と支払いまで済ませてくれる。

 学校へ向かうバスは自動運転で利用者が指定した場所にバス停がなくても停まる。そこには憧れの先輩がいて同乗することになる。

 夢物語であることは差し引こう。いかに便利になったとしても過疎地に若者は住み続けてくれるだろうか。人口減少が進んで都市の生活費が今より下がることは考えられる。それでもドローンしか通えない場所に住み続ける意欲は継続するのか。そこを考えなくてはならない。

 バスを降りた後の学校も不安がある。都会の学校と遜色ない質を保てるのか。希望が持てる学園生活を提供できるのだろうか。そして広報動画のように素敵な先輩が通って来るのだろうか。

 格差の問題を解消するのは技術だけの問題ではなさそうだ。東京にいなくても不利ではないと実感できるシステムや、地域ならでは価値の創出が欠かせない。

自分で考える面倒な作業

 AIがより実用的なものになった時点で私たちの能力はどうなっているのだろうか。様々な無駄を省き、効率的に物事を進められるようにプログラムされるはずの人工知能に我々はただ従うだけになるのだろうか。

 便利なのものができると得られることと失われることがある。例えば私たちは火を使う際に苦労することはない。ガスコンロをひねればすぐに加熱は出来る。電気式なら炎さえいらない。その代わりガスや電気がなければ火をおこすことは難しい。かつては誰もができたことが誰にもできなくなっている。

 AIが完成しなくてもすでに私は初めて訪れる場所にナビゲーションなしで行くことは困難だ。私だけではなく多くの人たちに共通するはずだ。地図を読む力も落ちている。

 何も考えず、面倒な作業をしないで済むことは幸せなのだろうか。恐らく数知れない利益を齎す一方で、痛切な重大事を見失う可能性がある。先のカーナビの譬えでいえば、ナビに従うあまり、閑静な住宅街に迷い込む経験は何度かあった。確かに近道なのだが、果たして進路としてふさわしかったのだろうかと考えると疑問が残る。近道を選べばいいのではないという選択は今のカーナビにはできないようなのだ。

 どんな時代になっても自分の行動に自分で責任を取ることができる能力を持つこと。取れなくてもせめて自らの判断が幾ばくかの影響があったと考えられるほどにしておくことは大事であり、これからの教育関係従事者の目標となるはずだ。

未来のイベント

 今日から連休だ。オリンピックのための国家的な取り組みだが、ウイルス対策のため盛り上がらない。こんなことはめったにないことだろうから、ある意味貴重な時代を生きているといえるのかもしれない。

 考え方を変えるとスポーツやイベントのあり方の変節点であるともいえる。もしかしたら今後もイベントのあり方は変わってしまうのかもしれない。多数の人が一か所に集まり観衆としてイベントを支えるということ自体が珍しい現象になってしまうかもしれないと考えるのだ。

 もちろん私はこうしたイベントに意義を感じていないわけではない。むしろ、様々な立場の人が同じ空間を共有し、感動を共にすることには大きな意味があると思う。それがなければ世界はますます分断に向かい技術的にはつながっていても心が通じ合わない社会になるような気がしてならない。

 その上で、さらなる変化を想像する。人が同じ場所にいなくても心を通じ合わせることができる能力を身につける段階に至るのでないだろうか。もちろん例えば3次元映像のようなテクノロジーの支援もあるはずだが、私が問題にしたいのは空間的な乖離を超越する心の交流ができる能力を人間が獲得することがあるのではないかということだ。

 この夢想が現実となればイベントに人が密集しなくてもいい。巨大なスタジアムもいらなくなる。人の付き合い方もビジネスも大きく変わる。それがどんな風になるのかは分からない。そういう可能性もあるのではないかと考えるのだ。

電動

 通勤電車の動画広告でハーレーダビッドソンが電動のオートバイを発売するというニュースが出ていた。バイクのシンボル的なブランドが電動の世界に踏み出した影響は大きい。

 ガソリンエンジンで動く車は今後減産されていく。環境対策であることは明らかだ。ただ電動化すれば環境問題が解決するかのように考えるのは錯覚というものだ。発電にも、車体を作るのにも、道路を維持するのにも大量のエネルギー消費がなされることは変わりない。現在の技術では電動化した方が効率が下がるという試算もある。

 いずれにしても技術に依存しすぎてはならないようだ。移動しなくても幸福な日々が送れる社会を構想した方がいい。

仕事納め

 波乱の2020年は今日が仕事納めだ。もっとも職場に行く年内最終日が今日というだけでこれからも「内職」は続く。私の場合、職住区分がまったくできておらず、せっかくのICTが生かされていない。

 私のデジタルトランスフォーメーションは人よりゆっくり行われる。しばらくは試行錯誤だ。エラを脚に変えた生物の一部が再び海に戻ったように、水陸をさまようことになるのだろう。大海は居心地よく、大陸に敵は多い。

 仕事納めの今日、これからのことを少し考えてみたい。

教員として

 なんとか新学期は始められそうな状況になってきました。しかし、ウイルス流行の峠が見えない現状ではいつまた中断するのかわかりません。たとえば関係者に陽性反応が認められた時点でおそらくまた数週間の学校閉鎖という措置になることは十分に考えられます。すると、これを機にこのような事態でも効果を失わない教育方法を考えていく必要があります。

 大前提として、発送の大転換をしなくてはなりません。教員は情報を伝達するのではなく、学習の仕方を教える存在にならなくてはいけないということです。自ら教えることができない事態が起きるということは今回の件で痛感しています。生徒が一人になってもどうやって学習すればいいのかをはっきりと示すことができることが教員の大きな役割になっているといえます。

 学習の方法論を示せばいいというわけでもありません。もっと大切なのは学ぶ意味をはっきりと伝えられるということです。今の子供達にとって学びは将来の自分の人生を大きく左右する知識とスキルの蓄積の機会です。私自身の人生におけるそれよりも今の生徒世代の方が学びの有無による人生の差は大きく出てしまいそうな気がします。もちろん格差社会は避けなくてはならないですが、現状が格差拡大に向かっている以上、獲得できるスキルや経験は若いうちに積んで置くべきでしょう。そのことを危機感を持って、しかもいたずらに恐怖を煽ることなく伝えることは教員の重大な責務であると感じています。

 根気ややり抜く力も大切であることも伝えなくてはなりません。誰もが効率よく目的を達成できるはずはない。むしろ多くの人は失敗の繰り返しです。そのなかでも挫折することなく、何度でも立ち上がる力を育てることはこれからの日本社会にとってはもっとも重要なスキルであると感じています。これを伝えることも重要です。

 仲間と協力することの大切さも伝えなくてはなりません。一人の力では如何ともしがたい現実が若い世代には待ち受けています。その中で必要なのはともに考える力です。小異を捨てて大同につく力です。小さなことにとらわれて死活問題的な大問題を見失わないようにさせることがなによりも大切です。

 こうしたことを新学期には生徒に伝えていこうと思います。いつ学校が中断しても自ら学びを続け、向上することをやめないい人材を一人でも作ることができたなら、私の存在価値があるというものです。

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共同体という考え方は誰が教えるのか

 世界的な社会分断が進行している中で、日本の社会も中流意識は急激に減少しつつあります。自分さえよければそれでいいという考え方に行きつくこの流れは非常に危険なものです。人間が社会的な生き物であるという考え方を誰がどのように若い世代に伝えていくのか。大きな問題です。

 私たちはこの存在に関して過大評価をしてきたのかもしれません。確かに個人の努力は重要であり、それがなければ何も始まりません。しかし、個人の業績は必ずしも自己の利益を増大するためのものではありません。共同体の福祉に何らかの好影響を与えるものでなくては意味がないはずです。自分の成功にはその周囲にいる人々のさまざまな支援や利害関係が影響を与えています。自分だけがうまくやったというのは思い上がりにすぎません。その成功を形成した社会システムがあるからこそ達成できたもののはずなのです。

 成功者はそのシステムがよりよいものになるよう、また自分以外の存在にも利益がもたらされるよう考える必要があります。自らの共同体が衰退してしまえば自分の成功の価値も目減りすることになり結果的に不幸になるのです。こうした考え方を私たちは常に持っていなくてはならないはずなのですが、そして横溢する情報社会の中で容易に得られる叡智のはずなのですが、つい忘れてしまうのです。

 我が国を衰退傾向に向かわせているのは少子高齢化などの不可避な情勢が要因ではありますが、それよりもむしろ共同体を皆で支えていこうという考え方の欠如がそうさせているのかもしれません。国のために働くという考え方は極端な全体主義として戦後日本が避けてきました。しかし、共同体意識の欠如がもたらす悲劇はそれ以上です。仲間を大切にすること、先に進んだものが振り返って周囲を助けることというのが今後の社会では特に大切になるであろうことをどのように意識し、伝えるのか。それが大きな課題になっています。

改札はなくなるのか

 JR東日本は現在のようにSUICAなどのICカード型乗車券を認識するための方法をタッチ式ではなく、通過するだけで認識する方法を開発しているそうです。いちいちカードやフェリカを鞄から出さなくても通過するだけで認識できる方法になるとか。最終的には改札はなくなる可能性すらありそうです。

 かつて改札と言えば駅員が鋏を入れてくれる場所でした。常に鋏の音を響かせているのは昔の駅の当たり前の風景であり、切符に入れられる鋏の切り跡は駅によって形が違いました。その後スタンプになり、今のような無人改札になったわけですが、昔を知らない若者にはおそらく想像がつかない風景でしょう。

 JR東日本が進めるさらなる展開は、人口減少による人手不足や人件費削減策としておそらくすぐに広まっていくでしょう。すると改札は通過するゾーンというだけになりそうです。顔認識システムなどが組み合わされて無賃乗車は「指名手配」される時代がくるのかもしれません。

期待感の演出

 私たち教員にとっては毎日必ずしも理想的な生活ができているとは限りません。メディアで報道されているほどブラックな職場ではありませんが、残業や休日出勤が当たり前の職場環境であることは確かです。ただ他の業界と少々異なるのは強制されてやるというよりは自主的に行っている人が多いということでしょうか。もちろんそれは私の職場だけの現象かもしれませんが。

 そんな中で生徒諸君に君たちの未来は明るいぞというのにはちょっとした覚悟と工夫が必要です。先生になりたいという人がどんどん減っているのは、教員の仕事がいかに大変かを目にしているからであり、ある意味なりたくない職業の手本となってしまっているのかもしれません。教員だけではありません。働くこと全般に対して、人生を考えることに対して現在の日本社会では悲観的な側面で語られることが多いような気がしてなりません。

 それでも教育者たるもの、やらねばならないことがある。それが期待感を演出することです。生徒に勉強をさせるための手段は数々ありますが、もっとも有効なのは自分の将来に今の学習が何らかの形で役立つという実感でしょう。今はやりたくない宿題をやっていても将来はそれが基礎となって役立つときがくる。そう実感できたときにやる気のスイッチは入るのです。そのスイッチをいれるのは教員の大きな役目なのでしょう。

 私のように数学が苦手で、中高時代には苦しみぬいたものでも、いま成績処理やちょっとした表計算ソフトの関数などを組み立てる時に数学的な思考が利用されていることを実感します。もう少し数学的思考ができれば人生の損失も少なかったのではと思う場面も多数あります。論理的に物事を考えるということに数学は必要です。英語はいまだによくできませんが、職場でも英語話者と仕事をするようになり、必要な時には使う場面があります。これももう少しやっておけばよかったと思うことが多い。なによりも英語が理解できれば、英語でしかとらえることができない世界をもっと受容できたはずだったと思うと無念ですらあります。そのほかの教科についても同様のことがいえます。

 このような後悔を生徒に話すのも手だとは思いますが、それに加えて将来に学習がどう結びつくのかを具体的に示すことも大切だと思います。普段から、日常生活の各場面において過去の勉強がどのように役立っているのかを言葉として子供に示すことが大切なのでしょう。私たちは自分のやっていることをいちいち分析はしませんので気づかないことが大半なのですが、たいていの活動は中学生くらいの知識をベースにして行っているのだと思います。このことを大人はもっと子供に語る必要がある。これは教員でなくてもできることです。

 われわれといまの中高生との大きな違いは、将来の職業観に決定的な差があることです。昭和世代の学習目標はよい大学にいけばすばらしい人生が待っている、ということに集約できました。学歴がかなりの度合いで人生を決めていた時代だからでしょう。でも、いまの若者は常日頃から次のようなことを聞かされています。「今ある仕事の大半はなくなる」と。

 AIが発達し、やがてシンギュラリティが訪れるといまある常識はほとんど通用しなくなる。勉強することも意味がなくなるのではないか。無理して漢字を覚えなくても、英単語を学習しなくてもいい。計算練習なんて無意味だ。みんなコンピュータがやってしまうのだと。

 そういう時代が来るのは避けられないとしてもやはり基礎的な学習はしなければならない。精巧なロボットができてもそれを操るのは人間でなくてはならない。操られる側になってはいけないんだという危機感を生徒に伝えなくてはならないと考えるのです。期待感というよりは危機感になってしまいますが。

 整理します。生徒の学習動機を促進させるさせるために教員や親、社会の人々全体で、子供たちの未来への期待感を演出していく必要があるというのが今回の趣旨です。大事な後継者を育成するためにも大人がへこたれていてはいけない。いまある基礎学習を大切にして、次の時代きり開く叡智を生み出すきっかけにしてほしいというメッセージをさまざまな形で出し続ける必要があるのです。

みんなで作る

 個人の幸福が尊重され過ぎた代償として私たちは公共の福祉についての価値を下げてしまいました。社会が縮小化するいま、改めて共同体の幸福を考え直す必要があります。

 個々人が幸福を追求することは現代社会の常識であり、条件でもあります。個人の幸福が保証されているからこそ、私たちは安心でき、明日を生きる活力が得られます。ただ、さまざまな閉塞感が漂う昨今の情勢においては、個人の利益追求だけでは立ちゆかなくなっていることも事実です。一人ではできない段階に入っています。

 誰かが成功してもそのために多数が不幸になるという悲しい現実も情報化社会にあってはすぐに顕在化します。それが環境問題など地球規模で影響を与えるものとなると一層深刻です。誰か一人が幸せになるということが難しいのです。

 このような現況にあって必要なのは人間が集団の生物であるという再認識です。一人では生きられない人間は幸福の基準を個ではなく集団に置くべきなのです。そしてその集団が成り立つためにはより大きな環境が保全されなくてはならない。そうした基本に立ち帰ることが不可欠なのでしょう。

 人のために何かをする尊さを先人は語り続けてきました。この話はそれを別の表現で述べているのに過ぎません。まずは自分の近くにいる人を幸福にするために何ができるのかを考えていくべきなのです。未来はみんなで作るものなのです。