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世代差

 職場の棚からフロッピードライブが出てきた。そこで若い同僚にこれがなんだか分かるかと尋ねると不思議そうな顔をするばかりだ。容量が1.4MBしかなかったといってもなんのことかわからない。若い人にはわかりませんよね。などと頷いている者もVHSはわからない。日進月歩の技術の中で私自身も知らない何かがある。それが世代差というものだろう。時々それが顕在化する。

安心のもと

 リモートワークが進んでいる現状てはソーシャルディスタンスも致し方ありません。カタカナ語に惑わされているうちに私たちは大切なものを失いつつあるかもしれません。

 ウイルス感染予防のための密なる状態を避ける方策は予防医学的には有効であっても、生物としての人間のあり方とは大きくかけ離れています。集団で生き抜く戦略をとった人類にとって、根本的な行動様式を奪われたことは死活的問題といえます。

 インターネットという擬似的連帯を得る道具も、リアルでない以上様々な弊害を逃れることができません。大事なのは現実感、実態感のあるコミュニケーションです。ブロードキャストではなく、私だけに向けられた会話こそが失われた連帯を思い起こすきっかけになります。

 不安な時代の安心のもとは何かを考えていかなくてはならない。それがいまできることなのです。

乱世型

 人にはいわゆる乱世に強いタイプがあるようです。ルールが固まる前の混沌とした時勢に台頭する人材です。問題が多いですが魅力的でもある乱世型の人物こそ、いまの社会に求められているのかもしれません。

 価値観やその評価法が固定すると、社会は安定します。無駄な活動の少ない効率的な社会組織が理想とされます。平時はこれが理想なのですが、システム自体が機能不全に陥ると、社会全体が危機的状況に没入してしまうのです。その救世主になる可能性を持つのが乱世型人材です。

 救世主待望論は独裁者などの誕生を助長した歴史もあり、慎重にならなくてはなりませんが、それでもやはりなんとかしたいという気持ちがあります。時代にあった人材を育成するのが教育に携わる者の使命なのかもしれません。

もとの風景

 東京の最盛期はすでに過ぎているのかもしれませんが、都市としての新陳代謝は継続しています。方丈記の言を引くまでもなく大家は小家となり、再びそこにビルが建ち、道路になります。

 私が移り住んだ街もすでに過去の風景が思い出せなくなるほど変貌しています。ここにはかつてあれがあったと覚えているうちはまだしも、そのうち過去のことなど全く浮かばなくなるのでしょう。思えば私が当地に来たころはすでに大きな変化は始まっていたようであり、さらに過去に遡ればまったく違う風景が広がっていたはずです。

 私たちは現在にしか生きられないので、現実を受け入れるしかありません。ただ、わずかに残った過去の風景から学ぶことは大きい。その姿に思いを馳せることで、未来のいつかに誰かが至る感慨を予想することはできそうな気がします。

院生時代

 時々思い出スイッチが入ることがあります。突如過去が脳裏を専有し、またすぐに消えていくのです。

 今回は大学院生だった頃のことを思い出しました。朝から晩まで図書館にこもっていた毎日でしたが、夜には先輩や後輩と飲みに行きました。何を話したのかは実はあまりよく覚えていません。あまり学問の話はしなかったと記憶しています。院には進んだもののその先がまったく見えないことへの不安を必死で紛らわしていたのかも知れません。

 その頃は先輩がすべて払ってくれていました。いい時代であったと思うと同時にあれほどタフな時間はもう送れないと考えるのです。

修理屋の栄える時代に

 エネルギー問題が深刻化していく現状において、いかにエネルギーを活用するのかは大きな問題です。太陽光や地熱、潮力などの新しいエネルギー源を開発する技術に関してはもっと進めるべきであると思います。

 それと同時に今あるエネルギーをいかに効率よく使うのか。無駄な手順をどのように変えていくのかということは同時に行わなくてはならない工夫です。個人の力でもできることは実に些細な省力にしかならないのですが、それでも多数の人が実行すれば大きな数値になります。例えばごみの捨て方なども、あるものをすべて捨てるのではなく、使えるものを再利用したうえでどうしても使えなくなっただけ捨てていくようにこころがければ焼却にかかるエネルギーの節約になるわけです。そういうアイディアを共有してよいものは互いに真似しあうというのが小さな省力化の原点になります。

 我が国がかつて国内生産だけでほぼすべてをまかなっていた前近代の社会事情をみるとリサイクルやリユースとみなされる様々な工夫がなされていました。廃品回収を生業とする職業が多かったのも少ない資源を最大限に活用していたことを表すものです。もちろん、江戸時代と現代では生活の水準が異なり、過去の方法をそのまま復活することは困難です。

 また、大量消費に支えられている産業があることも事実です。多くの人が消費を渋り、リユースに傾いたら産業衰退につながるという考え方もあります。ただ、なにを優先すべきなのかを考えるならば、よいものを長く使うことの方にシフトするべきでしょう。壊れやすいがとにかく安い、壊れたものはゴミになる、という製品から少々価格が高くても想定できる耐用年数が長いものを尊重し、メンテナンスの方に商機を見出す、という流れが必要なのでしょう。

 大量生産、大量消費、大量廃棄という段階を越えてメンテナンスを充実して長くものを使う時代に転換するためには修理屋の社会的地位をあげていく必要があります。壊れたら頼りになるメンテナンス関係の技術者を増やし、彼らの技術を高めていくことがこれからの時代の重要課題になります。

親譲り

 夏目漱石の『坊っちゃん』は親譲りの無鉄砲という性格の自己紹介から始まります。この主人公は自らのキャラクターを先天的要因で納得しているのです。このことをもう少し考えてみます。

 主人公は2階から飛び降りたり、周囲から扇動されてナイフで指を切ってみせたり、喧嘩をしたりと凡そマイナスの側面を並べ立てそれらを親譲りと総括しています。親に関しての描写では愛情不足の様が描かれており、歪んだ少年時代が描かれています。

 ただ、主人公は父親に関して必ずしも全否定の態度ではなく、むしろ否はあるがよいところもあるという把握をしているようです。明治時代の親子関係については別に考察する必要がありますが、好悪の感覚は単純ではありません。

 封建体制を生きた親に育てられる世代であった漱石は近世と近代の間でかなり分裂した思考をしていたのかもしれません。親譲りという一言に込められた意味も複雑で深いものがあるのかもしれないのです。