タグ: 日記

20220202

 今日の日付を見るとやたらに2が多い。今月の22日にはまた一つ2がふえるが、今日の方がスッキリしている気がする。こういうのは単なる数字の並びの問題でありなんの意味もない。そうとは分かっていても何か特別な意味を考えようとしてしまう。

 よく見ると202の組み合わせが3つある。だから何だと言われれば答えようもない。語呂合わせしてみようと考えたが思い浮かばない。もう夜だから思いついても手遅れなのだが。

寒冷

 このところ寒い日が続いている。関東地方は空気も乾燥しかなり風邪を引きやすい条件が揃っている。コロナ対策で換気のために窓を開けていることも多く一層条件が良くない。

 現在は当たり前の風景だが一年後にも同じ風景はあるのだろうか。真冬に窓を開けて電車が走っている風景が。もし、何らかの状況の変化が起きて、マスクする人がいなくなるようになったら、現在の状況は奇異なものになるだろう。だから、今の印象なり映像を記録しておかなくてはならないとも考えた。

 あの頃はこんな不自由だった。なんとか乗り越えたと。そういう日が来ることを祈るしかあるまい。

年頭のごあいさつ

 2022年が始まりました。新年明けましておめでとうございます。

 おめでとうというのは予祝の呪術と学びました。まだ何も祝福すべきことは起きていなくても、めでたいと言うことで周囲にそのような状態をもたらすというのです。これが正しいのなら私は何度も言いたいと考えます。

 パンデミックが始まってから2年が経過しいまだ安心のできない日々が続いています。真夏のマスクを2回もしなければならないとは思いだによらなかった。それでもなんとか耐えてここまできたのです。この事実だけでもめでたいと言うべきかもしれません。

 予祝の意味を込めて、さらなる幸せが皆様の周りで重ねて起こりますように。

 明けましておめでとうございます。

鱗雲など

 今朝もよく晴れている。青空の中に様々な形の雲がある。東からは鱗雲の列がある。反対には煙のような薄い雲が並ぶ。気温の低さがこのような現象をもたらしているのだろうか。吐息もそのまま雲になりそうな朝だ。

年賀状

 年賀状を出す人は年々減っているように思う。昨年は喪中であったため、賀状を出せない寂しさを味わったが、そもそも出す必要があるのかと自問自答を始めている。

 賀状だけでつながっている人は多い。そういう人とのつながりは淡いものであるが、実は心の支えになっていることもある。賀状を書いたり、その人からもらったりすることは、かつての自分に立ち戻ることができるささやかな一瞬でもある。人との関係は大きく変わってしまっていて、それを取り戻すことはできない。しかし、当時を思い出すことだけはできる。

 ソーシャルメディアでの連絡は常に現在の人間関係を意識させられるが、手紙はあくまで自分の思いを乗せることができる点で「ともだち」とは異なる。その意味では年賀状を交換する意味は失われていないのかもしれない。


移ろいやすきは

 移ろいやすいのは秋の空である。昨日は冷たい雨に震えたが今朝は実に穏やかな晴天である。空気が乾いているせいか爽やかだ。路面が濡れているのは雨のせいではなく、気温差の激しい夜から昼への切り替わりにできた露なのだろう。

 ついこの間までは汗にまみれていた身体が肌寒さに驚く瞬間が度々ある。桜並木も少しずつ黄葉が始まり、すでにすすきの群舞は始まっている。

 まもなく目的の駅に着くが、このまま朝の光を浴びていたい気もする。

秋雨

 急に季節が進んだ。ここ数日半袖では出歩けなくなっている。昨日の朝は10℃を割った。

 今朝は秋雨そぼ降る中の出勤である。電車の乗客の着ている服の色が一気に濃くなった。すでに厚めの防寒着を着込む人もいるがさすがに尚早か。

 昨日は十三夜だった。もう気づけば年賀状やおせち料理の予約が始まっている。秋来たりなば。

万年筆

 万年筆はもちろん万年使えるわけではない。経年劣化すればいつかは書けなくなる。でも万年にかける意味は大きい。

 亡父は物書きではなく、むしろ筆不精だった。だかプラチナ社の万年筆をよく使ったようで遺品に何本も同じようなペンがある。

 私は職業柄万年筆はよく使う方だ。筆圧が不要なペンは特に助かる。添削や採点はデスクペンで済ませている。デジタル添削も試したが、時間がある場合はやはり直筆の方がメッセージが伝わる気がする。

 万年使うことは無理でも、せめて死ぬまで使える筆記用具は持っていたい。自分は消えても何かを残せるかもしれないという儚い願望が形になったものが万年筆なのかもしれない。

公園へ

 隣の市の公園に行ってみた。いわゆる森林公園というもので、開発をされずに残った緑地だ。かつてはむしろこの方が広範な土地を占めており、その空白地に人が住んでいたのだろう。いまは全く反対でわずかに残された森林が公園として保存されている。

 緊急事態宣言が解除されたとはいえ、マスクを外せない毎日だが、周囲に人がいないことを確認して素顔を日光に当てるのもよい。公園は芝を張った広場を除けば雑木林が広がっている。その中を歩くのも気持ちがいいものだ。

 自然そのものではないことは分かっている。様々な管理の末に公演は保たれているのだ。その意味では公園も極めて人工的な空間だが、緑や様々な花に囲まれる時間は日常とは異なる空気を吸う貴重なものである。

Serizawa Park, Zama city

最後の真夏日か

 私の住む地域の予想最高気温は30度である。今期最後の真夏日かもしれない。週間予報では来月はじめにも高温予報は出ているが。

 気温は上がっても湿度が夏のそれとは異なる。光の色も違う気がする。通勤電車の線路脇のどこまでも続くすすきの列が風になびいているのを見るとさらに移ろいを実感する。

 今日は上着を置いてきた。これも今日までかもしれない。